第4話「小さな成功」
「もう一樽、追加で燻製にしてほしいんだが」
朝一番に作業場を訪れた領民の男が、そう言って頭を掻いた。
燻製の試作が好評を得てから数日が経っていた。 最初に試食した村の領民たちが口々に広め、今では隣の集落からも依頼が届くようになっている。
セシリアは作業場の隅で帳面を広げ、依頼の数と必要な素材を書き留めていた。 マルガレーテが横から覗き込む。
「お嬢様、このままでは塩が足りなくなりそうです」
「ええ。レオンハルト様にご相談しなければ」
燻製と塩蔵の手法は、想像以上に領民に受け入れられた。 保存できる食料が増えるということは、冬を越せる確率が上がるということだ。 領民たちにとって、それは切実な問題だった。
セシリアの頭の中では、前世の記憶がさらに明瞭になっていた。
燻製の成功が呼び水になったのか、別の知識が浮かび上がってきている。 発酵。 豆を潰し、塩と合わせ、時間をかけて寝かせる。 そうすることで、独特の風味を持つ調味料ができる。
味噌。
その名前は、セシリアにとって意味のない音の連なりでしかない。 だが、作り方の原理は鮮明だった。 豆と塩と、麹に相当する発酵の種。 それを合わせて密閉し、数ヶ月寝かせる。
もしこの辺境で作ることができれば、単なる保存食ではなく、特産品になりうる。 交易に乗せられるものになる。
執務室を訪ねたのは、昼前だった。
レオンハルトは机に向かい、領地の会計帳簿を広げていた。 数字の列に目を走らせる横顔は、いつもと変わらず無表情だった。
セシリアは一礼し、許可を得てから口を開いた。
「レオンハルト様。燻製に加えて、新たに試してみたいことがございます」
「聞く」
短い返答。 レオンハルトは帳簿から目を上げた。
「発酵食品です。豆を原料にした調味料で、長期保存が可能であり、かつ食事の味を大きく改善できます。うまく作ることができれば、この領地の特産品として交易に乗せることも視野に入ります」
レオンハルトの目が、わずかに動いた。 「特産品」という言葉に反応したようだった。
「原理は」
「豆を煮て潰し、塩と発酵の種を合わせて密閉します。数ヶ月寝かせることで、独特の風味が生まれます」
「数ヶ月か」
レオンハルトは顎に手を当てた。
「結果が出るまでに時間がかかる。素材も必要だ」
「はい。ですので、まずは少量での試作をお許しいただければ」
レオンハルトは帳簿の数字に目を落とした。 しばらくの沈黙があった。
やがて帳簿を一枚めくり、セシリアに差し出した。
「領地の会計だ。費用はこの範囲で収めろ」
セシリアは受け取り、数字に目を走らせた。 潤沢とは言い難い。 だが、不可能ではなかった。
「承知いたしました。この範囲内で実現可能な方法を考えます」
レオンハルトは頷いた。
「任せる」
その一言は、簡潔だった。 だがセシリアには、その短い言葉の重みがわかった。 領地の限られた財を預けるということは、信頼の証だった。
問題は、材料だった。
セシリアの記憶にある発酵食品の原料は大豆だった。 だが辺境の農地を回ってみると、大豆に相当する作物の栽培は極めて少量に留まっていた。
畑を見回りながら、セシリアは頭を悩ませた。
「お嬢様、あれは何でしょう」
マルガレーテが指差した先に、畑の脇の荒地に自生する低い植物があった。 鞘の中に小さな豆が並んでいる。
セシリアはしゃがみ込み、鞘を一つ摘んで中を確かめた。 粒は小さいが、形も色も、記憶の中の豆に近い。
「これ、食べられるのかい」
畑仕事をしていた女が声をかけてきた。
「この辺にはいくらでも生えてるけど、誰も食べないよ。硬くてね」
セシリアは豆を指で潰してみた。 確かに硬い。 だが煮れば柔らかくなるはずだった。
「少し分けていただけますか」
「こんなもので良ければ、いくらでも持っていきな」
女は笑った。
セシリアは両手いっぱいの鞘を抱えて作業場に戻った。
翌日から、試作が始まった。
まず豆を水に浸し、一晩かけて戻す。 煮て潰し、塩と合わせる。 発酵の種については、セシリアの記憶を頼りに、穀物を蒸して温かい場所に置き、表面に白い綿状のものが現れるのを待った。
手探りだった。 記憶は鮮明になりつつあるが、この土地の気候や素材に合わせた調整は、実際に試してみなければわからない。
作業場に出入りする領民の中には、好奇心で覗きに来る者もいた。 だが全員が好意的ではなかった。
「よそ者の令嬢が何をしているんだか」
古参の使用人の一人が、作業場の入口で腕を組んでそう呟いた。 声は聞こえよがしだった。
セシリアの手が一瞬止まった。
よそ者。 その言葉は刺さった。 ここに来てまだ日が浅い。 信頼を得るには時間がかかる。 頭ではわかっていても、胸の奥がちくりと痛んだ。
「お嬢様……」
マルガレーテが心配そうに声をかけた。
セシリアは首を振った。
「大丈夫。続けましょう」
結果を出すしかない。 言葉ではなく、形で示すしかない。
数日後の夕刻、城館の大広間で夕食が供された。
レオンハルトが上座に着き、セシリアは少し離れた席についた。 マルガレーテが傍に控えている。
食卓に並んだ料理の中に、燻製の肉があった。 セシリアが手がけた手法で作られたものだ。
レオンハルトは無言で燻製を口にし、咀嚼した。 表情は変わらなかった。 だが、もう一切れ手を伸ばしたのを、セシリアは見逃さなかった。
食事が進む中、古参の使用人が料理を運んできた。 あの日、作業場の前で「よそ者」と呟いた男だった。
男はセシリアの前に皿を置く際、目を合わせなかった。 だがその手つきは丁寧だった。
食事の後、レオンハルトが席を立つ前にセシリアを見た。
「燻製の評判を聞いた。村のエルマーが言っていた。家族が喜んでいると」
エルマー。 最初に「よそ者」と言った古参の使用人の名前だった。
レオンハルトの声は淡々としていた。 だが次の言葉は、セシリアに向けてだけではなく、広間にいる使用人たち全員に聞こえる声量で発せられた。
「結果を出す人間を、俺は信用する」
セシリアの方を向いていた。 その目がセシリアと合った瞬間、レオンハルトの視線が不自然に書類――食卓の端に置かれた報告書に落ちた。
一瞬だった。 だがセシリアは、その視線の動きを見た。
耳の奥が、じわりと熱くなった。
「……ありがとうございます、レオンハルト様」
声が少し上擦った。 セシリアは急いで水杯を手に取り、口をつけた。
マルガレーテが隣で、かすかに口元を綻ばせたのが視界の端に映った。
自室に戻ったセシリアは、窓辺に立った。
夜空には雲が薄くかかっていたが、その隙間から星が一つ、二つと瞬いている。
結果を出す人間を、信用する。
あの言葉が、まだ胸の中で温かく残っていた。
王都にいた頃、セシリアの言葉に耳を傾ける人はいなかった。 婚約者は微笑んで話を遮り、社交界では「理解のある婚約者」という役割だけを求められた。
ここは違った。 提案すれば聞いてもらえる。 結果を出せば認めてもらえる。 それが、こんなにも心を満たすものだとは知らなかった。
ここに居てもいい。
その実感が、セシリアの中に静かに根を下ろし始めていた。
翌朝、城館の使用人がセシリアのもとに一通の手紙を届けた。
王都からの手紙だった。 封蝋に押された家紋を見て、セシリアの手が止まった。
ランツァー伯爵家の紋章だった。
封を切る前に、指先が冷たくなるのを感じた。 封を開き、便箋を広げた。
短い文面だった。
「話がしたい」
それだけが、ギルベルトの筆跡で記されていた。
セシリアは便箋を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「お嬢様?」
マルガレーテが声をかけた。
セシリアは便箋を折り畳み、机の引き出しに入れた。
「何でもないわ」
声は平静だった。
けれど引き出しを閉じる指先に、わずかに力がこもっていた。




