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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第1章

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第6話「綻びの兆し」

三年前の秋も、こんな空の色だった。


セシリアは作業場の竈の前に座り、発酵食品の樽を確かめていた。 蓋を開けると、独特の匂いが立ち上る。 鼻を突く酸味の奥に、かすかな旨味の気配があった。


仕込みから数週間が経っている。 辺境に自生する豆を煮て潰し、粗塩と穀物から起こした発酵の種を合わせて密閉した。 最初の数日は何の変化もなかった。 だが十日を過ぎた頃から、樽の中の色が少しずつ変わり始めた。


今、蓋を開けた中身は、仕込んだ時とは明らかに違う色をしている。 薄い茶色だったものが、深い褐色に近づいている。


「お嬢様、どうですか」


マルガレーテが横から覗き込んだ。


「第一段階は順調です。発酵は進んでいる。ただ、完成にはまだ数ヶ月かかります」


セシリアは蓋を戻し、布で樽を覆った。


完成品ではない。 だが、方向が正しいことは確認できた。 前世の記憶にある発酵の過程と、この樽の中で起きていることは一致している。


安堵が胸に広がった。 同時に、別の感情が頭をもたげた。


もっと早く結果を出さなければ。


燻製は定着した。 領民にも喜ばれている。 だが、それだけでは足りない。


この領地に必要なのは、冬を越すための保存食だけではなく、外との交易に乗せられる特産品だ。 レオンハルトが見せてくれた会計帳簿の数字は、セシリアの記憶に深く刻まれていた。 財政は厳しい。 猶予は多くない。


もっと役に立たなければ。


その焦りは、セシリアの中で日に日に大きくなっていた。


朝は誰よりも早く作業場に入り、日が暮れても樽の確認や帳面の整理を続けた。 食事の時間を忘れることもあった。 マルガレーテが膳を運んできて初めて、昼をとっくに過ぎていたことに気づく日もあった。


「お嬢様、少しお休みになってください」


マルガレーテが何度目かの進言をした。


「もう少しだけ。この配合の記録をまとめてしまいたいの」


セシリアは帳面から目を上げなかった。


役に立たなければ、ここにいる理由がなくなる。


その恐怖は、口にはしなかった。 口にすれば、形を持ってしまう。 だから黙って手を動かし続けた。


その日の夕刻、セシリアは城館の廊下でレオンハルトとすれ違った。


レオンハルトは足を止め、セシリアを見た。


「顔色が悪い」


前置きのない、短い言葉だった。


「そのようなことは。少し作業に集中していただけです」


「食事を抜いたと聞いた」


セシリアの口が止まった。 マルガレーテではない。 おそらく厨房の使用人からだろう。


「昼餉を少し遅らせただけで――」


「座れ」


レオンハルトは廊下の脇にある石の長椅子を顎で示した。 命令の口調だった。


セシリアは一瞬反発しかけた。 座る必要などない。体は動く。まだやれる。


だが、レオンハルトの目を見て、言葉を飲み込んだ。


冬の湖面のように冷たい目ではなかった。 静かで、真剣だった。


セシリアは黙って腰を下ろした。


レオンハルトは腕を組み、セシリアの前に立った。


「お前がいなければ困る」


声は低く、平坦だった。


「だから無理をするな。これは命令だ」


セシリアは顔を上げた。


お前がいなければ困る。


その言葉が、胸の奥に落ちた。 重く、温かく。


「……命令、ですか」


「ああ。公爵としての命令だ。異論は受け付けない」


レオンハルトの声には一切の冗談の気配がなかった。


反発しようとした気持ちが、ゆっくりとしぼんでいった。 代わりに、別の何かが胸に広がった。


必要とされている。


それは嬉しかった。 だが同時に、戸惑いがあった。


自分を大切にしていいのだろうか。 もっと頑張らなければ、ここにいる資格がないのではないか。


「……承知いたしました、レオンハルト様」


声は小さかった。 けれど、頷くことはできた。


レオンハルトはそれ以上何も言わず、踵を返して廊下を去った。 長い外套の裾が、石の床の上を音もなく滑った。


その夜、セシリアは自室で寝支度を整えていた。


暖炉の火が赤く揺れている。 マルガレーテが毛布を整えながら、ちらりとセシリアの顔を見た。


セシリアは寝台の縁に座り、ぼんやりと暖炉の炎を見つめていた。


だが目は炎を見ていなかった。


頭の中で、レオンハルトの声が繰り返されていた。


お前がいなければ困る。だから無理をするな。


低い声。 簡潔な言葉。 それだけなのに、胸の奥がじわりと熱い。


「お嬢様」


マルガレーテの声で我に返った。


「お顔が赤いです」


セシリアは反射的に頬に手を当てた。 確かに、熱い。


「暖炉に近すぎただけよ」


立ち上がり、窓を開けた。


夜の冷気が流れ込んできた。 辺境の夜風は冷たく、肌を刺すようだった。


深く息を吸った。


冷たい空気が肺を満たした。 それでも、胸の奥の熱は引かなかった。


セシリアは窓枠に手をかけたまま、夜空を見上げた。


暗い空に、星がいくつか瞬いている。


この熱が何なのか、名前をつけることが怖かった。


窓を閉め、寝台に戻った。 マルガレーテは何も言わず、微笑んで蝋燭を消した。


暗闇の中で、セシリアは目を閉じた。 閉じた瞼の裏に、あの真剣な目が浮かんだ。


眠れるまでに、少し時間がかかった。


王都。 ランツァー伯爵家の馬車が、ホーエンベルク男爵邸の前で止まった。


ギルベルトは馬車を降り、門をくぐった。 リゼットの見舞いだった。 先週届いた手紙には「また熱が出てしまって」と書かれていた。


従者に案内され、屋敷の奥に向かう。 リゼットの部屋は二階の突き当たりだった。


廊下を曲がったところで、ギルベルトは足を止めた。


リゼットがいた。


部屋の手前、廊下の窓際に立っていた。 窓から差す光の中で、姿勢よく、しっかりとした足取りで歩いている。 侍女と何か話しながら、小さく笑っていた。


その姿に、熱に伏せている人間の影は微塵もなかった。


ギルベルトの足が止まったまま動かなかった。


数秒後、リゼットがこちらに気づいた。


一瞬、その顔が凍った。


だがすぐに表情が変わった。 目が潤み、唇が震え、華奢な体が揺れた。


「ギルベルト様……来てくださったの……」


声が弱々しくなった。 先ほどまでの明るい声とは、まるで違う。


「今日は少し調子がいい日で……でも、まだ……」


リゼットは咳き込む仕草をし、壁に手をついた。


ギルベルトは口を開きかけ、閉じた。


今、確かに見た。 普通に歩いて、普通に笑っていた。


だが目の前のリゼットは、今にも倒れそうに見える。


「……大丈夫かい、リゼット」


声が出た。 いつもの声だった。 心配する声。 庇護者としての声。


リゼットは小さく頷き、ギルベルトの腕にすがった。


「ごめんなさい……心配をかけて……」


ギルベルトはリゼットを支えながら、部屋へ向かった。


胸の奥に、小さな棘が刺さっていた。


まさか。 いや、そんなはずはない。 リゼットが嘘をつくはずがない。


幼い頃から知っている。 体が弱くて、いつも寝込んでいて、それでも笑顔を絶やさない子だった。


調子がいい日だったのだろう。 たまたま、歩けるほどに回復していた日だったのだろう。


そう思おうとした。


だが、棘は抜けなかった。


リゼットの部屋で茶を勧められ、とりとめのない話をして、ギルベルトは男爵邸を辞した。


馬車の中で、一人になった。


窓の外を王都の街並みが流れていく。


あの一瞬の光景が、目の奥にこびりついていた。 普通に歩いて、普通に笑っていた、リゼットの姿。


ギルベルトは目を閉じた。


考えたくなかった。 だが、考えずにいることもできなかった。


馬車が伯爵邸に着くまで、ギルベルトは一度も目を開けなかった。

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― 新着の感想 ―
お話は面白いのですが場面の切り替わりがちょっと分かりずらいです…
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