第9話「婚礼の朝」
——今日だ。
窓の外に、辺境の夏の陽が差していた。
セシリアは寝台の上で目を開けた。天井の木目が、朝の光の中で白く浮かんでいる。いつもと同じ天井だった。辺境に来てから、毎朝見てきた天井。
だが今日は、違う朝だった。
体を起こした。窓から差し込む光が、部屋の中を金色に染めていた。夏の盛りを過ぎ、秋の気配が空気の端に混じり始めている。収穫の季節が近づいていた。
扉が静かに開いた。
マルガレーテだった。
両手に婚礼衣装を抱えていた。白い生地に銀糸の刺繍が入った、華美すぎない衣装。辺境に相応しい仕立てだった。王都の式典用の豪奢なものではない。この土地に立つための、この土地の衣装だった。
マルガレーテがセシリアの前に衣装を広げた。
「お嬢様」
声が震えていた。
マルガレーテの目が赤かった。朝から泣いていたのだろう。だが唇は引き結ばれていた。泣き止もうとしているのではなく、泣きながらも務めを果たそうとしている顔だった。
「泣かないで。笑って」
セシリアの声は穏やかだった。
マルガレーテが息を吸った。目元を手の甲で拭い、顔を上げた。
「……笑っています」
涙が頬を伝っていた。だが口元は笑っていた。泣きながら笑っていた。
セシリアの胸が詰まった。十年間。この人はずっと傍にいてくれた。王都の侯爵邸で、辺境への旅の中で、作業場で、社交の場で。今日もここにいる。
フリッツからの返書は前日に届いていた。マルガレーテの公爵家への異動を許可する旨が、簡潔な筆跡で記されていた。「任せる」。それだけだった。だがその一言で、全てが整った。
マルガレーテがセシリアの髪を整え始めた。
丁寧に梳き、結い上げていく。いつもの手つきだった。だがいつもより、指先がゆっくりだった。
髪が結い上がった後、マルガレーテが机の上から小さな包みを取った。
母の形見の櫛だった。
王都でフリッツから受け取った、あの櫛。昨夜、マルガレーテが丁寧に磨いてくれていた。象牙に似た白い素材が、朝の光の中で静かに光っていた。
マルガレーテが櫛をセシリアの髪に差した。
鏡に映る自分を見た。
白い婚礼衣装。銀糸の刺繍。結い上げた髪に、母の櫛。左手の薬指に、エレオノーラから託された銀の指輪。
辺境に来た日の自分が、鏡の奥に重なった。
あの日の自分は、作業着も持たず、帳面も持たず、この土地で何ができるかもわからなかった。泣く涙すら枯れていた。
今、同じ鏡の中に立っている自分は、違う顔をしていた。
扉を叩く音がした。
エレオノーラだった。
旅装ではなく、式に出席するための装いに身を包んでいた。銀の混じった髪を丁寧にまとめ、薄い色の上着を纏っている。
セシリアの姿を見て、足を止めた。
「綺麗ですよ」
一言だった。
声は静かだった。鋭い目の下で、唇が柔らかく動いた。値踏みの目ではなかった。認めた人を見つめる目だった。
セシリアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、お母様」
エレオノーラが頷いた。
「参りましょう」
教会堂までの道を、馬車で向かった。
馬車の窓から、辺境の大地が見えた。畑の作物が色づき始めている。収穫の手前の、実りの色。遠くに作業場の煙突が見えた。煙は上がっていなかった。今日は領民たちも作業を休み、教会堂に集まっている。
馬車が止まった。
教会堂の前に、人の列があった。領民たちだった。正装とは呼べないが、一番良い服を着ている人たちが、教会堂の入口に向かって並んでいた。
セシリアが馬車を降りると、領民たちの目が一斉に向いた。
視線の質が、王都の社交界とは全く違った。好奇でも値踏みでもなかった。知っている人を見る目だった。一緒に火を焚き、一緒に煙の加減を見て、一緒に仕込みをした人たちの目。
教会堂の入口に、フリッツが立っていた。
正装だった。侯爵家の紋章を留めた上着。背筋はまっすぐだったが、その姿にいつもの政治家の重さとは違うものがあった。
セシリアの前に来た。
娘の顔を見た。
眼鏡の奥の目が、一瞬だけ揺れた。すぐに戻った。
フリッツがセシリアの手を取った。
手が震えていた。
父の手が震えている。政治家として、侯爵として、どんな交渉の場でも揺るがなかった手。その手が、娘の手を取った瞬間に震えていた。
「父上」
セシリアが呼びかけた。
「黙っていろ。転ぶ」
短かった。精一杯の強がりだった。
セシリアは笑いそうになった。堪えた。今笑ったら、この人の精一杯が崩れてしまう。
フリッツの手に導かれ、教会堂の中に入った。
通廊が真っ直ぐに伸びていた。石造りの床に、窓からの光が帯のように落ちている。
通廊の両側に、人が座っていた。
エレオノーラが前方の席にいた。手を膝の上に重ね、背筋を伸ばしている。ヴィクトルが招待客の中に座り、穏やかな顔で通廊を見ていた。ヘルムートが端の席に腰を下ろし、手元に記録用の書類を広げていた。マルガレーテが教会堂の隅に立っていた。
通廊の先に、レオンハルトが立っていた。
正装だった。辺境の外套ではなく、公爵家の紋章が留められた黒い上着。背筋が伸びている。いつもの姿勢だった。だが、いつもと違うものがあった。
セシリアの姿を捉えた瞬間、レオンハルトの唇が微かに開いた。
何かを言おうとしていた。
言葉にならなかった。
レオンハルトの目が、濡れていた。
セシリアの足が止まりかけた。
この人の涙を、初めて見ていた。
瞳の縁に光が溜まっている。落ちてはいなかった。この人は涙を落とさない人だった。だが瞳の表面に、確かに光があった。
フリッツの手が、セシリアの手をほんの一瞬だけ強く握った。
すぐに離した。
通廊の終わりだった。
セシリアの手が、フリッツの手からレオンハルトの手に移る瞬間だった。
「ありがとうございます、父上」
囁いた。声は小さかった。教会堂の静寂の中で、フリッツの耳にだけ届く声だった。
フリッツが「ああ」とだけ答えた。
眼鏡を外した。レンズを布で拭いた。あの日、婚約契約書に署名した後と同じ仕草だった。拭く必要のないレンズを、丁寧に拭いていた。
席に戻るフリッツの背中が、少しだけ小さく見えた。
レオンハルトの手がセシリアの手を包んだ。
温かかった。強かった。剣を握り、書類を捌き、約束を守り続けてきた手。門前で繋いだ手。廊下で絡めた手。その手が、今、セシリアの手を包んでいた。
「……綺麗だ」
声を絞り出すように、レオンハルトが言った。
掠れていた。低い声がさらに低くなっていた。喉の奥にあるものを、声にするために全ての力を使っている声だった。
セシリアの涙が溢れた。
堪えなかった。堪える必要がなかった。
この人が「綺麗だ」と言った。この人の目が濡れている。この人の手が震えている。
セシリアは指に力を込めた。レオンハルトの手を握り返した。
教会堂の中に、静かな光が満ちていた。
窓から差し込む辺境の夏の陽が、通廊の石の上に金色の帯を描いている。
婚約破棄の日に始まった旅が、この教会堂で一つの形を結ぼうとしていた。あの日の痛みも、辺境の寒さも、作業場の土の匂いも、全てがこの瞬間のためにあった。
二人は並んで、祭壇の前に立った。
教会堂の隅で、マルガレーテが声を殺して泣いていた。




