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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第4章

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第8話「帰郷」

セシリアは馬車の扉を開け、石畳に足を下ろした。


七日間の旅だった。王都を発ち、街道を南へ。日を追うごとに景色が変わった。石造りの街並みが遠ざかり、耕作地が広がり、やがて乾いた風が窓から吹き込むようになった。


辺境の空気だった。


城館の門前に、エルマーが立っていた。領民たちが数人、その後ろに並んでいる。


「お帰りなさいませ、公爵様。セシリア様」


エルマーの声は、いつもの仏頂面に似合わない丁寧さだった。


セシリアは門をくぐり、深く息を吸った。


乾いた土の匂い。遠くから漂う燻製の煙。畑の緑の気配。王都の重い空気とは違う。広くて、軽くて、自分の場所の匂いだった。


帰ってきた。


レオンハルトが馬車を降り、エルマーから留守中の報告を受けていた。国境の定期報告に異常はなし。領内の徴税事務は予定通り。作業場の運営も問題なし。


セシリアは作業場に向かった。


棚の帳面を確認した。仕込みの記録、温度の管理、出荷の日程。全て手順書通りに進められていた。領民の筆跡で記録が追加されている。自分がいなくても、仕組みが回っている。


安堵が胸に落ちた。


王都で感じた窮屈さが、この場所に戻った瞬間に消えていた。ここでは型を求められない。ここでは、作業場に立つ自分がそのまま自分だった。


城館に戻ると、マルガレーテが旅装を片付けていた。


「お嬢様、明日の衣装はどちらを」


「作業着でいいわ。明日は作業場を回ります」


マルガレーテが微笑んだ。「かしこまりました」と答える声が、王都にいた時より柔らかかった。この人も、帰ってきたのだ。


翌日の昼過ぎだった。


門前に馬車が一台、止まった。


エレオノーラだった。


王都から辺境に向かっているという書簡は、王都を発つ前に届いていた。婚礼に出席するための来訪だった。


セシリアは門前に出て、馬車を迎えた。


エレオノーラが馬車を降りた。旅装に薄い外套を羽織った姿は、前回の来訪と同じだった。だが目の光が違っていた。あの時の鋭さは残っていたが、その下に温もりがあった。


セシリアは深く一礼した。


そして、顔を上げた時、自然に口が開いた。


「お帰りなさいませ、お母様」


言葉は考えて選んだものではなかった。胸から出た言葉だった。


エレオノーラの目が、わずかに見開かれた。


唇が動きかけて、止まった。瞳の縁に、光が溜まった。


だがすぐに、穏やかな笑みに変わった。


「ただいま、とは言えませんわね。ここはもうあなたの家ですもの」


声がわずかに掠れていた。だがその掠れの中に、拒絶はなかった。受け入れがあった。


セシリアの胸が温かくなった。


レオンハルトが門前に出てきた。母の姿を認め、足を止めた。


「母上。遠路ご苦労様です」


簡潔だった。だが前回の来訪の時より、声の角が丸かった。


エレオノーラは息子の顔を見て、小さく頷いた。


「元気そうね」


それだけだった。母と息子の距離は、まだそこにあった。だが距離の質が変わっていた。拒絶の距離ではなく、静かに認め合う距離だった。


午後、エレオノーラが茶の席でセシリアに問いかけた。


「婚礼の後、マルガレーテさんはどうなさるの」


セシリアの手が止まった。


茶杯を持つ指先が、一瞬冷えた。


マルガレーテの問題。王都への旅の支度の時、衣装の襟元で手が止まった瞬間。あの時から気づいていた。だが向き合うことを後回しにしていた。


マルガレーテは侯爵家の使用人だった。セシリアが公爵夫人になった後、そのまま公爵家に残れるかどうかは、侯爵家の家長であるフリッツの許可と、公爵家の当主であるレオンハルトの受け入れが必要だった。


セシリアは茶杯を卓に置いた。


「まだ、きちんとお話しできていません」


正直に答えた。


エレオノーラの目が、静かにセシリアを見ていた。値踏みではなかった。心配だった。


「あの方は、あなたにとって大切な人でしょう。早い方がいいわ」


声は穏やかだった。だがその奥に、経験者の重みがあった。この人もかつて、辺境に嫁いできた人だった。使用人との関係の変化を、知っている人だった。


セシリアは頷いた。


夕刻、セシリアは自室でマルガレーテと向かい合っていた。


マルガレーテが衣装の手入れをしている。針と糸を持ち、ほつれた裾を繕っている。いつもの光景だった。


「マルガレーテ」


声をかけた。


マルガレーテの手が止まった。針が布の上で静止した。


「婚礼の後のこと、聞いてもいい?」


マルガレーテは顔を上げなかった。針を持つ指先が、わずかに白くなっていた。


「あなたは、どうしたい?」


セシリアの声は穏やかだった。問い詰める調子ではなかった。ただ、聞いていた。この人の気持ちを。


沈黙が落ちた。


マルガレーテの肩が小さく震えた。


やがて、声が出た。


「お嬢様のお傍にいたいです」


声が震えていた。


「それだけが、わたしの望みです」


針が布の上に落ちた。マルガレーテの手が膝の上で握りしめられていた。十年間、ずっと傍にいた人が、初めて自分の望みを言葉にしていた。


セシリアの目が熱くなった。


「私も、あなたにいてほしい」


声は震えていなかった。震えさせなかった。これは感情の言葉であると同時に、主人としての意思だった。


マルガレーテの目から、涙がこぼれた。


一粒。頬を伝り、膝の上に落ちた。すぐに手の甲で拭った。


「すみません、お見苦しいところを」


「見苦しくなんてないわ」


セシリアは微笑んだ。


「レオンハルト様にお伺いを立てます。父上にも書簡を出します。手続きが必要だけれど、必ず整えますから」


マルガレーテは顔を伏せたまま、小さく頷いた。


その夜、セシリアはレオンハルトの執務室を訪れた。


帳面は持っていなかった。口実なしで来た。


「マルガレーテのことで、お願いがあります」


レオンハルトは書類から顔を上げた。


セシリアが事情を説明した。マルガレーテは侯爵家の使用人であること。公爵家に残るには、フリッツの許可とレオンハルトの受け入れが必要であること。


レオンハルトは最後まで聞き、短く答えた。


「当然だ。あの侍女がいなければお前は来なかった」


セシリアは目を見開いた。


「お前がここにいるのは、あの侍女が傍にいたからだ。当然、残る」


声は簡潔だった。迷いがなかった。


セシリアの胸に、温かいものが広がった。この人は、マルガレーテの存在をそう見ていたのだ。


「フリッツ侯爵には俺から書簡を出してもいい」


「いいえ、私から出します。父に伝えるのは、娘の役目ですから」


レオンハルトが一瞬黙り、それから頷いた。


「わかった」


セシリアは一礼し、執務室を辞した。


廊下に出た時、胸の中で何かが定まっていた。マルガレーテとの関係が、新しい形に向かい始めている。「侯爵家の使用人と令嬢」から「公爵家の側仕えと夫人」へ。名前が変わっても、この人との絆は変わらない。


翌日、エレオノーラがセシリアに声をかけた。


「教会堂を見に行きませんか。婚礼の下見を」


城館から馬で半刻ほどの場所に、辺境公爵領の教会堂があった。石造りの質素な建物だった。華美な装飾はなく、窓から差し込む光だけが内部を照らしていた。


エレオノーラが教会堂の入口に立ち、天井を見上げた。


「ここで私も式を挙げたの」


セシリアの足が止まった。


「お母様もここで」


「ええ。あの日は、緊張して手が震えたわ」


エレオノーラが微笑んだ。鋭い目の下で、唇の端が柔らかく上がっていた。あの日の自分を思い出している顔だった。


「私もきっと震えます」


セシリアは正直に言った。


エレオノーラがセシリアの方を向いた。


「大丈夫。あの子の手を握りなさい。震えが止まるから」


母としての助言だった。息子を知る人の、経験に裏打ちされた言葉。


セシリアの目が潤んだ。


「ありがとうございます、お母様」


エレオノーラは何も答えなかった。だがその横顔に、穏やかな光があった。


その夜、セシリアはレオンハルトに伝えた。


「お母様が、あなたの手を握りなさいと仰いました」


レオンハルトの手が書類の上で止まった。


「……母上がそう言ったのか」


声に驚きがあった。だがその驚きの下に、別のものが滲んでいた。


数秒の沈黙があった。


「握り返す」


静かな声だった。


セシリアは微笑んだ。この人の母と、この人の間にある距離は、まだ完全には埋まっていない。だが確かに、少しずつ縮まっている。


王都。ランツァー伯爵邸の書斎。


ギルベルトは父と向かい合っていた。


ランツァー伯爵の机の上に、書類が広げられている。領地の経営に関する報告書だった。ギルベルトが目を通し、父に確認を求めた書類。


伯爵が書類を脇に置き、ギルベルトを見た。


「辺境公爵の婚礼の招待は来ない。当然だ」


声は事務的だった。事実を述べているだけの声。


ギルベルトは頷いた。


「ええ、知っています」


声に痛みはなかった。受け入れている声だった。


祝宴には出席した。あれは家格に基づく公的行事だった。だが婚礼は違う。個別の招待だ。招待されない理由は、自分が一番よく知っていた。


伯爵がギルベルトの顔を見た。


その目に、わずかな変化があった。失望だけではなかった。息子が椅子に座り、書類に手をつけ、自分から報告を持ってくるようになったこと。その変化を、認識している目だった。


伯爵は何も言わなかった。


ギルベルトは書類に目を戻した。


数字を追い、ペンを取り、確認の印をつけた。


窓の外には夏の陽が降り注いでいた。

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