第8話「帰郷」
セシリアは馬車の扉を開け、石畳に足を下ろした。
七日間の旅だった。王都を発ち、街道を南へ。日を追うごとに景色が変わった。石造りの街並みが遠ざかり、耕作地が広がり、やがて乾いた風が窓から吹き込むようになった。
辺境の空気だった。
城館の門前に、エルマーが立っていた。領民たちが数人、その後ろに並んでいる。
「お帰りなさいませ、公爵様。セシリア様」
エルマーの声は、いつもの仏頂面に似合わない丁寧さだった。
セシリアは門をくぐり、深く息を吸った。
乾いた土の匂い。遠くから漂う燻製の煙。畑の緑の気配。王都の重い空気とは違う。広くて、軽くて、自分の場所の匂いだった。
帰ってきた。
レオンハルトが馬車を降り、エルマーから留守中の報告を受けていた。国境の定期報告に異常はなし。領内の徴税事務は予定通り。作業場の運営も問題なし。
セシリアは作業場に向かった。
棚の帳面を確認した。仕込みの記録、温度の管理、出荷の日程。全て手順書通りに進められていた。領民の筆跡で記録が追加されている。自分がいなくても、仕組みが回っている。
安堵が胸に落ちた。
王都で感じた窮屈さが、この場所に戻った瞬間に消えていた。ここでは型を求められない。ここでは、作業場に立つ自分がそのまま自分だった。
城館に戻ると、マルガレーテが旅装を片付けていた。
「お嬢様、明日の衣装はどちらを」
「作業着でいいわ。明日は作業場を回ります」
マルガレーテが微笑んだ。「かしこまりました」と答える声が、王都にいた時より柔らかかった。この人も、帰ってきたのだ。
翌日の昼過ぎだった。
門前に馬車が一台、止まった。
エレオノーラだった。
王都から辺境に向かっているという書簡は、王都を発つ前に届いていた。婚礼に出席するための来訪だった。
セシリアは門前に出て、馬車を迎えた。
エレオノーラが馬車を降りた。旅装に薄い外套を羽織った姿は、前回の来訪と同じだった。だが目の光が違っていた。あの時の鋭さは残っていたが、その下に温もりがあった。
セシリアは深く一礼した。
そして、顔を上げた時、自然に口が開いた。
「お帰りなさいませ、お母様」
言葉は考えて選んだものではなかった。胸から出た言葉だった。
エレオノーラの目が、わずかに見開かれた。
唇が動きかけて、止まった。瞳の縁に、光が溜まった。
だがすぐに、穏やかな笑みに変わった。
「ただいま、とは言えませんわね。ここはもうあなたの家ですもの」
声がわずかに掠れていた。だがその掠れの中に、拒絶はなかった。受け入れがあった。
セシリアの胸が温かくなった。
レオンハルトが門前に出てきた。母の姿を認め、足を止めた。
「母上。遠路ご苦労様です」
簡潔だった。だが前回の来訪の時より、声の角が丸かった。
エレオノーラは息子の顔を見て、小さく頷いた。
「元気そうね」
それだけだった。母と息子の距離は、まだそこにあった。だが距離の質が変わっていた。拒絶の距離ではなく、静かに認め合う距離だった。
午後、エレオノーラが茶の席でセシリアに問いかけた。
「婚礼の後、マルガレーテさんはどうなさるの」
セシリアの手が止まった。
茶杯を持つ指先が、一瞬冷えた。
マルガレーテの問題。王都への旅の支度の時、衣装の襟元で手が止まった瞬間。あの時から気づいていた。だが向き合うことを後回しにしていた。
マルガレーテは侯爵家の使用人だった。セシリアが公爵夫人になった後、そのまま公爵家に残れるかどうかは、侯爵家の家長であるフリッツの許可と、公爵家の当主であるレオンハルトの受け入れが必要だった。
セシリアは茶杯を卓に置いた。
「まだ、きちんとお話しできていません」
正直に答えた。
エレオノーラの目が、静かにセシリアを見ていた。値踏みではなかった。心配だった。
「あの方は、あなたにとって大切な人でしょう。早い方がいいわ」
声は穏やかだった。だがその奥に、経験者の重みがあった。この人もかつて、辺境に嫁いできた人だった。使用人との関係の変化を、知っている人だった。
セシリアは頷いた。
夕刻、セシリアは自室でマルガレーテと向かい合っていた。
マルガレーテが衣装の手入れをしている。針と糸を持ち、ほつれた裾を繕っている。いつもの光景だった。
「マルガレーテ」
声をかけた。
マルガレーテの手が止まった。針が布の上で静止した。
「婚礼の後のこと、聞いてもいい?」
マルガレーテは顔を上げなかった。針を持つ指先が、わずかに白くなっていた。
「あなたは、どうしたい?」
セシリアの声は穏やかだった。問い詰める調子ではなかった。ただ、聞いていた。この人の気持ちを。
沈黙が落ちた。
マルガレーテの肩が小さく震えた。
やがて、声が出た。
「お嬢様のお傍にいたいです」
声が震えていた。
「それだけが、わたしの望みです」
針が布の上に落ちた。マルガレーテの手が膝の上で握りしめられていた。十年間、ずっと傍にいた人が、初めて自分の望みを言葉にしていた。
セシリアの目が熱くなった。
「私も、あなたにいてほしい」
声は震えていなかった。震えさせなかった。これは感情の言葉であると同時に、主人としての意思だった。
マルガレーテの目から、涙がこぼれた。
一粒。頬を伝り、膝の上に落ちた。すぐに手の甲で拭った。
「すみません、お見苦しいところを」
「見苦しくなんてないわ」
セシリアは微笑んだ。
「レオンハルト様にお伺いを立てます。父上にも書簡を出します。手続きが必要だけれど、必ず整えますから」
マルガレーテは顔を伏せたまま、小さく頷いた。
その夜、セシリアはレオンハルトの執務室を訪れた。
帳面は持っていなかった。口実なしで来た。
「マルガレーテのことで、お願いがあります」
レオンハルトは書類から顔を上げた。
セシリアが事情を説明した。マルガレーテは侯爵家の使用人であること。公爵家に残るには、フリッツの許可とレオンハルトの受け入れが必要であること。
レオンハルトは最後まで聞き、短く答えた。
「当然だ。あの侍女がいなければお前は来なかった」
セシリアは目を見開いた。
「お前がここにいるのは、あの侍女が傍にいたからだ。当然、残る」
声は簡潔だった。迷いがなかった。
セシリアの胸に、温かいものが広がった。この人は、マルガレーテの存在をそう見ていたのだ。
「フリッツ侯爵には俺から書簡を出してもいい」
「いいえ、私から出します。父に伝えるのは、娘の役目ですから」
レオンハルトが一瞬黙り、それから頷いた。
「わかった」
セシリアは一礼し、執務室を辞した。
廊下に出た時、胸の中で何かが定まっていた。マルガレーテとの関係が、新しい形に向かい始めている。「侯爵家の使用人と令嬢」から「公爵家の側仕えと夫人」へ。名前が変わっても、この人との絆は変わらない。
翌日、エレオノーラがセシリアに声をかけた。
「教会堂を見に行きませんか。婚礼の下見を」
城館から馬で半刻ほどの場所に、辺境公爵領の教会堂があった。石造りの質素な建物だった。華美な装飾はなく、窓から差し込む光だけが内部を照らしていた。
エレオノーラが教会堂の入口に立ち、天井を見上げた。
「ここで私も式を挙げたの」
セシリアの足が止まった。
「お母様もここで」
「ええ。あの日は、緊張して手が震えたわ」
エレオノーラが微笑んだ。鋭い目の下で、唇の端が柔らかく上がっていた。あの日の自分を思い出している顔だった。
「私もきっと震えます」
セシリアは正直に言った。
エレオノーラがセシリアの方を向いた。
「大丈夫。あの子の手を握りなさい。震えが止まるから」
母としての助言だった。息子を知る人の、経験に裏打ちされた言葉。
セシリアの目が潤んだ。
「ありがとうございます、お母様」
エレオノーラは何も答えなかった。だがその横顔に、穏やかな光があった。
その夜、セシリアはレオンハルトに伝えた。
「お母様が、あなたの手を握りなさいと仰いました」
レオンハルトの手が書類の上で止まった。
「……母上がそう言ったのか」
声に驚きがあった。だがその驚きの下に、別のものが滲んでいた。
数秒の沈黙があった。
「握り返す」
静かな声だった。
セシリアは微笑んだ。この人の母と、この人の間にある距離は、まだ完全には埋まっていない。だが確かに、少しずつ縮まっている。
王都。ランツァー伯爵邸の書斎。
ギルベルトは父と向かい合っていた。
ランツァー伯爵の机の上に、書類が広げられている。領地の経営に関する報告書だった。ギルベルトが目を通し、父に確認を求めた書類。
伯爵が書類を脇に置き、ギルベルトを見た。
「辺境公爵の婚礼の招待は来ない。当然だ」
声は事務的だった。事実を述べているだけの声。
ギルベルトは頷いた。
「ええ、知っています」
声に痛みはなかった。受け入れている声だった。
祝宴には出席した。あれは家格に基づく公的行事だった。だが婚礼は違う。個別の招待だ。招待されない理由は、自分が一番よく知っていた。
伯爵がギルベルトの顔を見た。
その目に、わずかな変化があった。失望だけではなかった。息子が椅子に座り、書類に手をつけ、自分から報告を持ってくるようになったこと。その変化を、認識している目だった。
伯爵は何も言わなかった。
ギルベルトは書類に目を戻した。
数字を追い、ペンを取り、確認の印をつけた。
窓の外には夏の陽が降り注いでいた。




