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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第4章

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第7話「父と娘」

侯爵邸の食堂に、夕暮れの光が差し込んでいた。


王都での用件がほぼ完了していた。ヘルムートからの最終回答が、昼過ぎに届いた。条件を承認する。年に一度の王都出席の際に、辺境の産品持参を許可する。宮内省の封蝋が押された正式な書面だった。


挨拶回り、祝宴、ヘルムートとの交渉。全ての手続きが終わった。


明後日には辺境に向けて出発する。


出発前夜、セシリアはフリッツと二人で食事をしていた。


侯爵邸の食堂は広かった。長い机の端と端に座るのが正式な配置だったが、フリッツは机の中央に二つの席を寄せるよう指示していた。マルガレーテが給仕を手伝い、使用人が料理を運んでいる。


父と娘の、婚礼前最後の食事だった。


フリッツは料理に手をつけながら、簡潔に話した。交易路の接続について公爵殿と最終的な詰めを行ったこと。宮内省への年次報告の書式について侯爵家の書記官に雛形を作らせていること。王都の政治的な動向。


政治の話。領地の話。交易路の話。いつもの父だった。


だがその合間に、声の調子が変わる瞬間があった。


「お前は小さい頃から、一度決めたことを曲げなかった」


フリッツの手が、杯の上で止まっていた。


「母上に似たのだと思っていた。だが違った。お前はお前だ」


セシリアの胸が温かくなった。


「父上に似たのかもしれません」


「私に似たら苦労する」


フリッツの声は平坦だった。だがその平坦さの下に、柔らかいものが覗いていた。


食事が進んだ。料理は侯爵邸の料理人が腕を振るったものだったが、セシリアの舌は辺境の味を覚えていた。燻製の肉と、発酵食品の汁物。あの土地の食卓が、遠く感じなかった。


フリッツの皿を見た。


いつもより、量が少なかった。


半分ほどしか手をつけていない。パンを千切り、口に運ぶ仕草は落ち着いていたが、千切る間隔が長かった。


政治家として最善の形を整えた。侯爵として公爵家との関係を確立した。交易路を繋ぎ、宮内省との条件を承認させ、娘が王都の社交界で立つ姿を見届けた。


だが父として。


この食卓の向こうにいる娘は、もう侯爵邸には戻らない。婚礼の後、この子の家は辺境だ。


フリッツはその感情を表に出さなかった。出さないのが、この人だった。


食事の終わり際だった。


フリッツが杯を卓に置き、懐に手を入れた。


小さな包みを取り出した。布に包まれた、掌に収まる大きさのもの。


「渡すものがある」


声は低かった。


包みを開いた。


中に、櫛があった。


象牙に似た白い素材で作られた、細い櫛だった。華美ではなかった。装飾は控えめで、歯の一本一本が丁寧に削り出されている。長い年月を経た品であることが、素材の色合いに表れていた。


「母の形見だ」


セシリアの手が止まった。


呼吸が浅くなった。視界の端がにじんだ。


母の櫛。幼い頃に亡くなった母が使っていたもの。父がずっと持っていたもの。書簡に「忘れてはおらぬ」と書かれていた、あの品。


「お前が嫁ぐ時に渡すと決めていた」


フリッツの声は簡潔だった。感情を押し込めた声だった。だがその簡潔さの中に、長い年月が詰まっていた。


セシリアは櫛を受け取った。


指先で触れた。滑らかだった。冷たくはなかった。父の懐にあった温もりが、まだ残っていた。


手の中で握りしめた。


「父上」


声が震えた。


フリッツが目を逸らした。


「泣くな」


短かった。


だがその声も、震えていた。


セシリアは目を伏せた。涙が一筋、頬を伝った。


堪えようとしなかった。この人の前で泣くのは、幼い頃以来だった。だが今の涙は、悲しみではなかった。


母がいた。父がいた。母は早くに逝ってしまったが、この櫛がここにある。父がずっと持っていてくれた。嫁ぐ日のために、ずっと。


「お前は十分やった。もう心配はしていない」


フリッツの声は平坦に戻っていた。


嘘だった。心配はしている。この人は、きっとこれからもずっと心配する。辺境の寒さを、社交界の目を、娘の体を。だがそれを口にしない。口にしないのが、この人のやり方だった。


レオンハルトと同じだった。言葉ではなく、行動の中に感情を閉じ込める人。婚約破棄の後、辺境行きを決めたのはこの人だった。政治的判断だった。だがその判断がなければ、今の自分はいなかった。


セシリアは櫛を胸に抱いた。


「ありがとうございます、父上」


フリッツは答えなかった。杯を手に取り、一口含んだ。飲み込む喉の動きがゆっくりだった。


食堂の窓から、夕暮れの最後の光が消えていくところだった。


マルガレーテが食堂の隅で、顔を伏せていた。両手を膝の上で組み、肩を微かに震わせていた。声は出さなかった。


食事を終え、セシリアは廊下に出た。


手の中に、母の櫛があった。布に包み直し、大切に握っていた。


廊下の角を曲がった時、長身の影が壁に寄りかかっていた。


レオンハルトだった。


腕を組み、壁にもたれている。セシリアが来るのを待っていたのか、たまたまここにいたのか。だがこの人が「たまたま」廊下に立っていることはない。


セシリアの顔を見た。


「……泣いたか」


低い声だった。


セシリアの目が赤いことに気づいている。この人は、いつもそういうところを見ている。


「少しだけ」


セシリアは微笑んだ。涙の跡が残る顔で、それでも笑った。


レオンハルトは黙って、セシリアの頭にそっと手を置いた。


大きな手だった。指先が髪に触れた。あの日、出陣の前に一筋だけ髪を撫でた時と同じ手。だが今回はすぐに離さなかった。


指先が髪の上に留まっていた。


ゆっくりと、撫でた。不器用な動きだった。慣れていない手つきだった。だがその不器用さの中に、この人の全てがあった。


セシリアは目を閉じた。


廊下の薄暗がりの中で、この人の手の温もりに身を委ねた。


母の櫛を握る手と、髪に触れるこの人の手。二つの温もりが、同時にあった。


「……ありがとう、レオンハルト」


声は小さかった。敬称のない名前。二人きりの廊下で、この人にだけ許された呼び方。


レオンハルトの手が、ほんの少しだけ力を込めた。


言葉は返さなかった。返す必要がなかった。


廊下の窓の向こうで、王都の夜空に星が一つ、二つと灯り始めていた。


明日の朝には、この街を発つ。辺境に帰る。帰る場所に。


手の中の櫛が、静かに温かかった。


侯爵邸の使用人の控室で、夜番の交代をしていた二人の使用人が言葉を交わしていた。


「ランツァー伯爵家のご嫡男が、最近は家の実務に真面目に取り組んでいるらしいですよ」


「しかし社交界の信用は戻らんだろう」


「自業自得ですな」


声は低かった。使用人同士の、夜の雑談だった。


廊下の向こうを通りかかったマルガレーテの足が、一瞬止まった。


聞こえていた。


マルガレーテは足を止めたまま、数秒だけ考えた。主人に報告すべき情報かどうか。


必要のない情報だった。


もう、必要のない話だった。


マルガレーテは足を動かし、主人の部屋に向かった。明日の出発の支度を確認しなければならない。エレオノーラが王都から辺境に向かっているという書簡のことも、主人に伝えなければ。


廊下の窓から、夏の夜風が吹き込んでいた。

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