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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第4章

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第6話「揺るがない場所」

——公爵夫人として、何を守り、何を差し出すのか。


祝宴の翌朝だった。


侯爵邸の応接間に、三つの椅子が並べられている。セシリアとレオンハルトが並んで座り、向かいにヘルムートが腰を下ろした。


ヘルムートの手元には書類の束があった。宮内省の封蝋が押された正式な書面。昨夜の祝宴の記録とは別の、もう一つの案件だった。


マルガレーテが部屋の隅に控えている。フリッツは隣室にいると聞いていた。


ヘルムートが口を開いた。


「公爵家と侯爵家の婚姻に際し、王家は政治的均衡の観点から条件を付す慣例がございます」


声は昨日と変わらなかった。丁寧で、距離があり、感情がない。制度の声だった。


「本日は、その条件の最終確認をさせていただきます」


ヘルムートが書面に目を落とし、読み上げた。


一つ。婚礼後、年に一度は王都にて公爵夫妻として社交の場に出席すること。


二つ。公爵夫人として、婚礼の場にて王家への忠誠の誓約を行うこと。


三つ。辺境公爵領の交易に関する年次報告を宮内省に提出すること。


セシリアは一つ一つを聞きながら、頭の中で整理した。


年に一度の王都出席。往復で十四日。滞在を含めれば二十日近く辺境を離れることになる。負担は小さくない。だが不可能ではない。


忠誠の誓約は、公爵夫人として当然の義務だった。


年次報告。帳面をつけている自分にとっては、実務的に対処できる。


三つの条件は、いずれも制度上の慣例の範囲内だった。過度な要求ではない。


だが三つを合わせた時、その意味が浮かび上がった。


辺境の公爵夫人は、辺境だけの人ではない。王都にも責任を持つ。


セシリアは背筋を伸ばした。


「承知いたしました」


声は落ち着いていた。


隣のレオンハルトの表情を、視界の端で捉えた。顎が引かれ、眉間にわずかな皺が寄っていた。考えている時の顔ではなかった。何かを堪えている時の顔だった。


ヘルムートが書面を卓の上に置いた。


「ご確認いただけましたら、宮内省として正式に——」


「年に一度で足りないと言うなら、俺が行く」


レオンハルトの声が遮った。


低く、簡潔だった。ヘルムートの視線がレオンハルトに向いた。


「彼女を毎年王都に出す必要はない。俺が代わりに出席する」


声に怒りはなかった。だがその奥に、譲らないものがあった。


セシリアの胸が小さく震えた。この人は、自分に王都の義務を負わせることに抵抗している。辺境に根を下ろした自分を、王都に縛りたくない。


ヘルムートは表情を変えなかった。


「公爵閣下のお気持ちは理解いたします。ですが、公爵夫人の社交は夫人ご自身のお務めでございます。公爵閣下が代行されるものではございません」


制度の声だった。感情ではなく、慣例に基づく返答だった。


レオンハルトの顎がさらに引かれた。反論を探しているのがわかった。だがヘルムートの言葉は制度上正しく、感情で覆せるものではなかった。


沈黙が落ちかけた。


セシリアが口を開いた。


「ヘルムート様」


声は穏やかだった。だがその奥に、祝宴の壇上で掴んだものが座っていた。


「条件は承知いたしました。年に一度、王都に参ります」


ヘルムートが頷きかけた。


「ただし」


セシリアの声が続いた。


「その際には、辺境の産品を持参し、王都の市場に直接出向くことをお許しいただけますか」


ヘルムートの手が止まった。


書面に伸びかけていた指先が、空中で静止した。


「義務として王都に参るのであれば、その機会を辺境の事業にも活かしたいのです。辺境の産品を王都に届けること、王都の需要を辺境に持ち帰ること。年に一度の出席が、辺境と王都の双方にとって実りのある機会になれば、制度上の義務と実務上の利益が一致いたします」


ヘルムートの目が動いた。


穏やかな笑みの下で、計算が走っているのがわかった。制度の番人が、前例のない提案を処理している。


「前例はございませんが……」


ヘルムートの声が途切れた。


隣室との間の扉が、音もなく開いていた。フリッツが敷居の手前に立っていた。いつからそこにいたのかはわからなかった。


「侯爵家の交易路を辺境に接続する件は、既に公爵殿と詰めている。辺境の産品が王都の市場に定期的に届く仕組みは、実務的にも合理的だ」


フリッツの声は低く、簡潔だった。政治家の声だった。だがその援護は、娘の提案を制度の土俵に乗せるものだった。


ヘルムートの視線がフリッツに向かい、セシリアに戻り、手元の書面に落ちた。


沈黙があった。


「……禁じる規定もございません。宮内省として検討いたします」


完全な突破ではなかった。だが扉は開いた。


セシリアは「ありがとうございます」と頭を下げた。


型に嵌まるのではなく、型を自分に合わせる。義務を拒むのでもなく、義務の中に自分の居場所を作る。


それは辺境で帳面をつけ、作業場を回し、仕組みを作ってきた自分のやり方だった。


ヘルムートが書類をまとめ、一礼して応接間を出ていった。


フリッツが「午後に話がある」とだけ告げ、廊下の奥に消えた。


応接間に残ったのは、セシリアとレオンハルトと、隅に控えるマルガレーテだった。


フリッツの足音が遠ざかった。


レオンハルトがセシリアに向き直った。


「俺が言おうとしたことを、お前が先に言った」


声は低かった。眉間の皺は消えていた。だが目の奥に、別のものがあった。


セシリアは少し慌てた。


「すみません、出過ぎたことを——」


レオンハルトが首を振った。


「そうじゃない」


声が止まった。


一秒。二秒。


この人が言葉を探している時の沈黙だった。話を終わらせる時の沈黙とは違う。喉の奥にあるものを、声にするために必要な間。


「……嬉しかった」


セシリアの目が見開かれた。


呼吸が止まった。


この人が、その言葉を口にした。


「よくやった」でも「助かる」でもなかった。評価でも委任でもなかった。感情だった。この人の中にある感情が、そのままの形で声になった。


指先が動いた。考えるより先に、手が伸びていた。


セシリアの指が、レオンハルトの外套の袖を掴んだ。


布地を握る力が、自分でもわかるほど強かった。


「私も、嬉しいです」


声が震えていた。


レオンハルトの目がセシリアの手に落ちた。外套の袖を掴む指先。銀の指輪が、窓からの光を受けて鈍く光っていた。


レオンハルトの手が動いた。


外套の袖を掴むセシリアの手に、自分の手を重ねた。指先が絡んだ。


部屋の隅で、マルガレーテが静かに窓の外に目を向けた。見ていないふりをする所作は、十年の経験が作ったものだった。


応接間の窓から、王都の夏の朝の光が差し込んでいた。


繋いだ手の上に、光が落ちていた。


辺境の門前で繋いだ手と、同じ温度だった。場所は違う。空気は違う。だがこの人の手の温もりは、どこにいても同じだった。


セシリアは指に力を込めた。


帰る場所がある。そしてその場所は、この手の中にもある。


王都での手続きは、あと少しで終わる。辺境に戻れば、婚礼の準備が待っている。


だが今は、この手の温もりだけを感じていた。

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