第5話「祝宴の夜」
——辺境に初めて降り立った日、空は灰色だった。
王家主催の祝宴は、王都の中央にある大広間で催された。
蝋燭の灯りが天井から幾重にも吊り下げられ、磨かれた石の床に光の粒を散らしている。王都の主要貴族が集い、絹と宝石が灯りの中で競い合うように輝いていた。
セシリアはレオンハルトの隣に立っていた。
社交用の衣装に身を包み、髪を結い上げ、左手の薬指に銀の指輪。マルガレーテが朝から丁寧に整えてくれた装いだった。
会場に入った瞬間、視線が集まった。
好意、好奇、値踏み、無関心。様々な色をした目が、セシリアとレオンハルトの上を通り過ぎていく。辺境公爵と、その婚約者。社交界がこの二人をどう見ているかが、視線の密度に表れていた。
かつてこの街の社交の場で、壁際に立っていた。あの頃の自分に向けられていたのは、同情の視線だった。今は違う。注目の中心にいる。
レオンハルトは腕を組み、壁際に近い位置に立っていた。社交の場における公爵の所作として不自然ではなかったが、その肩には辺境の執務室にいる時とは違う硬さがあった。
祝宴が進み、挨拶が交わされ、杯が回された。
やがて、ヘルムートが会場の中央に進み出た。
「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。辺境公爵家の婚礼を前に、王家主催の祝宴の席をお借りいたしまして、公爵家の婚約者であるヴァイスフェルト嬢より、辺境公爵領の発展についてお話しいただく機会を設けました」
ヘルムートの声は落ち着いていた。事務的で、感情がなかった。だがその事務的な声が、セシリアの名を会場に響かせた。
「ヴァイスフェルト嬢、どうぞ」
セシリアは一歩前に出た。
会場の目が、一斉にセシリアに集まった。
数十の貴族の視線。好意もあった。好奇もあった。だがその中に、値踏みの目が混じっていた。公爵夫人としての資質を、この場で測ろうとする目。
セシリアは口を開いた。
「辺境公爵領では、近年、特産品事業の拡充に取り組んでまいりました」
格式ばった声だった。公爵夫人としての型に沿った言葉を選んでいた。
「燻製の継続取引に加え、発酵食品の量産体制を確立し、王都の市場への安定供給を実現しております。グレーヴェン商会との事業提携により、交易路の拡充も進行中でございます」
正しい言葉だった。数字も正確だった。だが、声が薄かった。
自分でもわかっていた。型通りの説明をしている。制度の言葉で、制度の場に応えようとしている。
挨拶回りの時と同じだった。事業の話をする時だけ声に芯が通り、それ以外の言葉は自分のものにならない。今、この場で出しているのは「それ以外」の声だった。
言葉が詰まった。
次の文が出てこなかった。
頭の中で、「公爵夫人としての正しい言葉」が渦を巻いていた。交易の見通し、領地の税収、王家への貢献。並べるべき言葉は知っていた。だがそれらが喉の手前で固まり、声にならなかった。
沈黙が落ちた。
会場の空気が、微かに揺れた。
その瞬間、視界の端に動きがあった。
壁際に立つレオンハルトが、腕を組んだまま、真っ直ぐにセシリアを見ていた。
目が合った。
あの目だった。辺境の執務室で、作業場で、門前で、セシリアを見つめてきた目。冷静で、鋭くて、だがその奥に信頼が座っている目。
何も言っていなかった。口は動いていなかった。
だがその目が語っていた。お前の言葉で話せ、と。
セシリアは息を吸った。
深く。胸の底まで。
そして、格式を脱いだ。
「——辺境に初めて参りました時、畑には何もありませんでした」
声が変わった。
型通りの声ではなかった。自分の声だった。
「冬の辺境で、最初にしたことは燻製でした。余った肉を保存するために、試行錯誤を重ねました。何度も失敗しました。煙の温度が合わず、一晩分の肉を全て駄目にしたこともあります」
会場が静まった。
「領民の方々が手伝ってくださいました。一緒に火を焚き、一緒に煙の加減を見ました。うまくいった日の夜は、試食と称して皆で食べました」
声に力が入っていた。事業の話ではなかった。日々の話だった。自分がこの手で触れてきた、辺境の土と煙と風の話。
「発酵食品の量産に至るまでに、帳面を何冊も書きました。温度の記録、色の変化、失敗の原因。全て帳面に残しています。その帳面があるから、今は私がいなくても作業場が回ります」
セシリアの目が、会場を見渡した。
「辺境公爵領は変わりました。私が変えたのではありません。あの土地に暮らす人々が、一緒に変えてくださいました。私はただ、その中で自分にできることをしただけです」
静寂が続いた。
やがて、拍手が起きた。
一人から始まった。隣の人に移り、その隣に。波紋のように広がっていった。
「実に興味深い」
「辺境がここまで変わったとは」
声が会場の中に散った。好意的な声だった。
セシリアは深く一礼した。
顔を上げた時、ヘルムートの姿が視界に入った。手元の書類に何かを書き留めている。表情は変わっていなかった。無表情のまま、記録を取っていた。
壁際では、フリッツがわずかに頷いていた。腕を組んだ姿勢は崩さなかったが、顎の角度がほんの少し上がっていた。
レオンハルトが腕を解いた。壁から離れ、セシリアの方に一歩近づいた。
壁際に戻ったセシリアの横に、レオンハルトが立った。
「よくやった」
低い声だった。
何度も聞いた言葉だった。辺境の執務室で、作業場で。だが今、祝宴の会場で、多くの人の視線がある中で言われたそれは、いつもと温度が違った。
セシリアの頬が熱くなった。
「ありがとうございます」
答えた時、レオンハルトの手がセシリアの背中に触れた。
昨日の廊下で触れた時のように、一瞬ではなかった。手がそのまま背中に留まっていた。軽く、だが確かに。
離れなかった。
会場にいる間ずっと、その手はセシリアの背中にあった。
周囲の貴族がそれに気づいていた。公爵が婚約者の背に手を添えている。社交の場で、第三者の目がある中で。寡黙な辺境公爵が、身体で示している。
セシリアはその手の温もりを感じながら、会場の中を歩いた。
祝宴の終わり際、ヘルムートがセシリアに近づいた。
「見事でございました。ただ、公爵夫人としての社交は一度の祝宴では終わりません」
声は丁寧だった。だがその一言の中に、まだ先がある、という意味が含まれていた。
セシリアは「承知しております」と答えた。
ヘルムートが一礼し、離れていった。
突破はしていなかった。だが、自分の言葉で語れた。型ではなく、自分の声で。
背中のレオンハルトの手が、わずかに力を込めた。
◇
祝宴の会場の端に、ギルベルトはいた。
伯爵家の嫡男として出席の案内を受けた公的行事だった。家格に基づく参列。個別の招待ではない。
杯を手に、壁際の席に座っていた。
セシリアが辺境の事業について語り始めた時、ギルベルトは杯を膝の上に置いた。
あの声を聞いていた。
畑に何もなかったこと。燻製の失敗。領民と一緒に火を焚いたこと。帳面を何冊も書いたこと。
その声は、かつて自分の隣にいた人の声だった。だが今、その声は自分には向けられていない。
拍手が起きた時、隣の知人が呟いた。
「あの方は変わったな」
ギルベルトは杯を口に運んだ。一口含み、飲み込んだ。
「……最初からああいう人だったんだ」
声は静かだった。
知人が驚いた顔をした。だがギルベルトはそれ以上何も言わなかった。
杯を置き、席を立った。
会場の出口に向かった。背中は真っ直ぐだった。




