表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/40

第5話「祝宴の夜」

——辺境に初めて降り立った日、空は灰色だった。


王家主催の祝宴は、王都の中央にある大広間で催された。


蝋燭の灯りが天井から幾重にも吊り下げられ、磨かれた石の床に光の粒を散らしている。王都の主要貴族が集い、絹と宝石が灯りの中で競い合うように輝いていた。


セシリアはレオンハルトの隣に立っていた。


社交用の衣装に身を包み、髪を結い上げ、左手の薬指に銀の指輪。マルガレーテが朝から丁寧に整えてくれた装いだった。


会場に入った瞬間、視線が集まった。


好意、好奇、値踏み、無関心。様々な色をした目が、セシリアとレオンハルトの上を通り過ぎていく。辺境公爵と、その婚約者。社交界がこの二人をどう見ているかが、視線の密度に表れていた。


かつてこの街の社交の場で、壁際に立っていた。あの頃の自分に向けられていたのは、同情の視線だった。今は違う。注目の中心にいる。


レオンハルトは腕を組み、壁際に近い位置に立っていた。社交の場における公爵の所作として不自然ではなかったが、その肩には辺境の執務室にいる時とは違う硬さがあった。


祝宴が進み、挨拶が交わされ、杯が回された。


やがて、ヘルムートが会場の中央に進み出た。


「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。辺境公爵家の婚礼を前に、王家主催の祝宴の席をお借りいたしまして、公爵家の婚約者であるヴァイスフェルト嬢より、辺境公爵領の発展についてお話しいただく機会を設けました」


ヘルムートの声は落ち着いていた。事務的で、感情がなかった。だがその事務的な声が、セシリアの名を会場に響かせた。


「ヴァイスフェルト嬢、どうぞ」


セシリアは一歩前に出た。


会場の目が、一斉にセシリアに集まった。


数十の貴族の視線。好意もあった。好奇もあった。だがその中に、値踏みの目が混じっていた。公爵夫人としての資質を、この場で測ろうとする目。


セシリアは口を開いた。


「辺境公爵領では、近年、特産品事業の拡充に取り組んでまいりました」


格式ばった声だった。公爵夫人としての型に沿った言葉を選んでいた。


「燻製の継続取引に加え、発酵食品の量産体制を確立し、王都の市場への安定供給を実現しております。グレーヴェン商会との事業提携により、交易路の拡充も進行中でございます」


正しい言葉だった。数字も正確だった。だが、声が薄かった。


自分でもわかっていた。型通りの説明をしている。制度の言葉で、制度の場に応えようとしている。


挨拶回りの時と同じだった。事業の話をする時だけ声に芯が通り、それ以外の言葉は自分のものにならない。今、この場で出しているのは「それ以外」の声だった。


言葉が詰まった。


次の文が出てこなかった。


頭の中で、「公爵夫人としての正しい言葉」が渦を巻いていた。交易の見通し、領地の税収、王家への貢献。並べるべき言葉は知っていた。だがそれらが喉の手前で固まり、声にならなかった。


沈黙が落ちた。


会場の空気が、微かに揺れた。


その瞬間、視界の端に動きがあった。


壁際に立つレオンハルトが、腕を組んだまま、真っ直ぐにセシリアを見ていた。


目が合った。


あの目だった。辺境の執務室で、作業場で、門前で、セシリアを見つめてきた目。冷静で、鋭くて、だがその奥に信頼が座っている目。


何も言っていなかった。口は動いていなかった。


だがその目が語っていた。お前の言葉で話せ、と。


セシリアは息を吸った。


深く。胸の底まで。


そして、格式を脱いだ。


「——辺境に初めて参りました時、畑には何もありませんでした」


声が変わった。


型通りの声ではなかった。自分の声だった。


「冬の辺境で、最初にしたことは燻製でした。余った肉を保存するために、試行錯誤を重ねました。何度も失敗しました。煙の温度が合わず、一晩分の肉を全て駄目にしたこともあります」


会場が静まった。


「領民の方々が手伝ってくださいました。一緒に火を焚き、一緒に煙の加減を見ました。うまくいった日の夜は、試食と称して皆で食べました」


声に力が入っていた。事業の話ではなかった。日々の話だった。自分がこの手で触れてきた、辺境の土と煙と風の話。


「発酵食品の量産に至るまでに、帳面を何冊も書きました。温度の記録、色の変化、失敗の原因。全て帳面に残しています。その帳面があるから、今は私がいなくても作業場が回ります」


セシリアの目が、会場を見渡した。


「辺境公爵領は変わりました。私が変えたのではありません。あの土地に暮らす人々が、一緒に変えてくださいました。私はただ、その中で自分にできることをしただけです」


静寂が続いた。


やがて、拍手が起きた。


一人から始まった。隣の人に移り、その隣に。波紋のように広がっていった。


「実に興味深い」


「辺境がここまで変わったとは」


声が会場の中に散った。好意的な声だった。


セシリアは深く一礼した。


顔を上げた時、ヘルムートの姿が視界に入った。手元の書類に何かを書き留めている。表情は変わっていなかった。無表情のまま、記録を取っていた。


壁際では、フリッツがわずかに頷いていた。腕を組んだ姿勢は崩さなかったが、顎の角度がほんの少し上がっていた。


レオンハルトが腕を解いた。壁から離れ、セシリアの方に一歩近づいた。


壁際に戻ったセシリアの横に、レオンハルトが立った。


「よくやった」


低い声だった。


何度も聞いた言葉だった。辺境の執務室で、作業場で。だが今、祝宴の会場で、多くの人の視線がある中で言われたそれは、いつもと温度が違った。


セシリアの頬が熱くなった。


「ありがとうございます」


答えた時、レオンハルトの手がセシリアの背中に触れた。


昨日の廊下で触れた時のように、一瞬ではなかった。手がそのまま背中に留まっていた。軽く、だが確かに。


離れなかった。


会場にいる間ずっと、その手はセシリアの背中にあった。


周囲の貴族がそれに気づいていた。公爵が婚約者の背に手を添えている。社交の場で、第三者の目がある中で。寡黙な辺境公爵が、身体で示している。


セシリアはその手の温もりを感じながら、会場の中を歩いた。


祝宴の終わり際、ヘルムートがセシリアに近づいた。


「見事でございました。ただ、公爵夫人としての社交は一度の祝宴では終わりません」


声は丁寧だった。だがその一言の中に、まだ先がある、という意味が含まれていた。


セシリアは「承知しております」と答えた。


ヘルムートが一礼し、離れていった。


突破はしていなかった。だが、自分の言葉で語れた。型ではなく、自分の声で。


背中のレオンハルトの手が、わずかに力を込めた。



祝宴の会場の端に、ギルベルトはいた。


伯爵家の嫡男として出席の案内を受けた公的行事だった。家格に基づく参列。個別の招待ではない。


杯を手に、壁際の席に座っていた。


セシリアが辺境の事業について語り始めた時、ギルベルトは杯を膝の上に置いた。


あの声を聞いていた。


畑に何もなかったこと。燻製の失敗。領民と一緒に火を焚いたこと。帳面を何冊も書いたこと。


その声は、かつて自分の隣にいた人の声だった。だが今、その声は自分には向けられていない。


拍手が起きた時、隣の知人が呟いた。


「あの方は変わったな」


ギルベルトは杯を口に運んだ。一口含み、飲み込んだ。


「……最初からああいう人だったんだ」


声は静かだった。


知人が驚いた顔をした。だがギルベルトはそれ以上何も言わなかった。


杯を置き、席を立った。


会場の出口に向かった。背中は真っ直ぐだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ