第10話「約束の日」
「誓いますか」
教会堂の中に、声が響いた。
辺境の教会堂。石造りの壁に、窓からの光が帯のように落ちている。祭壇の前に、セシリアとレオンハルトが並んで立っていた。
領民たちが席を埋めていた。一番良い服を着た人たちが、静かに二人を見つめている。
フリッツが前方の席に座っていた。背筋を伸ばし、膝の上に手を置いている。隣にエレオノーラが座っていた。二人の間に言葉はなかったが、同じ方向を見ていた。
ヴィクトルが招待客の中にいた。穏やかな顔で、祭壇の二人を見ていた。ヘルムートが端の席に座り、手元の書類に記録を取っていた。宮内省の記録官としての職務。ペンを走らせる手は事務的だったが、視線は時折祭壇に向いていた。
マルガレーテが教会堂の隅に立っていた。両手を胸の前で組んでいた。
セシリアの手は、レオンハルトの手の中にあった。
繋いだ手が震えていた。セシリアの手ではなかった。レオンハルトの手だった。剣を握り、書類を捌き、約束を守り続けてきた手が、微かに震えていた。
セシリアは指に力を込めた。握り返した。
震えが止まった。
エレオノーラの言葉が蘇った。あの子の手を握りなさい、震えが止まるから。本当だった。だが止めたのはセシリアの手だった。
レオンハルトが口を開いた。
「約束する」
声は低かった。掠れていた。だがその掠れの中に、この人の全てがあった。
「お前の隣で、ずっと」
門前で交わした約束と、同じ言葉だった。だが今、教会堂の中で、人々の前で、声にしている。約束が、私的なものから公のものに変わる瞬間だった。
セシリアの胸の中で、全てが繋がった。
三年間の痛み。婚約破棄の日。辺境への馬車の中で見た灰色の空。初めて燻製を焼いた夜。帳面に数字を書いた朝。レオンハルトの「俺が回らなかった」。エレオノーラの途中で止まった帳簿。クラウスの審査。祝宴の壇上。父の形見。母の櫛。
全てが、この教会堂の中で一つになった。
「私も約束します」
セシリアの声は静かだった。震えてはいなかった。
「この土地で、あなたと共に」
決意ではなかった。確信だった。もう迷わない。この場所で、この人の隣で、自分の足で歩いていく。
誓いの言葉が終わった。
教会堂の中に、静寂が満ちた。
レオンハルトがセシリアに向き直った。
繋いだ手はそのままだった。もう片方の手が、ゆっくりとセシリアの頬に伸びた。
指先が頬に触れた。涙の跡が残る頬に。
「何度でも」
あの日。門前で額に口づけをした時の言葉。
セシリアは「はい」と答えた。
レオンハルトの顔が近づいた。
唇が、セシリアの唇に触れた。
短く。静かに。
初めての口づけだった。
額でも、頬でもなかった。唇に。
温かかった。乾いた唇だった。この人の唇は、この人の言葉と同じだった。飾りがなく、不器用で、だがその中に全てがあった。
教会堂に拍手が起きた。
領民たちの手が鳴っていた。声が上がった。笑顔があった。一緒に火を焚き、一緒に煙の加減を見て、一緒にこの土地を変えてきた人たちが、手を打っていた。
フリッツが眼鏡を外していた。レンズを拭く手が、今度は明らかに震えていた。
エレオノーラが目を閉じていた。唇を噛んでいた。薄い唇の端が白くなっていた。涙は落ちていなかった。この人は涙を落とさない人だった。だが閉じた瞼の下で、光が揺れていた。
マルガレーテが声を殺して泣いていた。両手で口元を押さえ、肩が震えていた。十年間。ずっと傍にいた。全てを見てきた。そして今日、ここにいる。
ヴィクトルが穏やかに笑っていた。事業パートナーとしてこの土地に関わり、この日を迎えた人の、静かな笑顔だった。
ヘルムートが記録を取っていた。ペンが紙の上を走っている。だがその口元が、初めてわずかに緩んでいた。制度の番人が、制度の外にあるものを目にした瞬間だった。
教会堂を出た。
夏の陽が降り注いでいた。辺境の大地に、金色の光が広がっている。畑の作物が色づき、遠くの丘の稜線が空と溶け合っていた。
セシリアとレオンハルトは、城館の門前に向かって歩いた。
門前に立った。
始まりの場所だった。辺境に初めて到着した日、馬車を降りたのがこの門だった。灰色の空と乾いた風と、何もない大地。あの日ここに立った自分は、何ができるかもわからなかった。
到着の場所であり、門出の場所。
セシリアが口を開いた。
「ここから始まりましたね」
レオンハルトが隣に立っていた。正装の上着に、辺境の風が吹きつけている。
「ああ。そしてここから続く」
セシリアはレオンハルトの顔を見た。
「レオンハルト」
名前を呼んだ。敬称はなかった。婚礼を終えた今、公の場でもこの名前で呼ぶことが許される。だがそれは制度の話だった。セシリアがこの名前を呼ぶ理由は、制度ではなかった。
「何だ」
「好きです」
初めて、その言葉を口にした。
交際の意思表明の時も、婚約の時も、誓いの言葉の時も、この言葉だけは言っていなかった。伝わっていたはずだった。行動で、視線で、手の温度で。だが声にしたことはなかった。
レオンハルトの耳が赤くなった。
目が逸れた。門の外の街道に向いた。戻ってきた。セシリアを真っ直ぐに見た。
「……俺もだ」
短かった。不器用だった。
だがその一言に、全てがあった。
風が吹いた。
辺境の夏の風だった。麦と、土と、燻製の香りが混じる、この土地の風。門前の石畳を渡り、二人の間を吹き抜けていった。
セシリアの髪が揺れた。母の櫛が、光を受けて白く光った。
レオンハルトの手が、もう一度セシリアの手を取った。
強く。確かに。
二人は門前に並んで立っていた。始まりの場所で。
門の内側から、マルガレーテとエルマーが二人の姿を見ていた。
夏の光の中に並ぶ二つの影。片方は長身で、もう片方はその肩の高さに頭が届く。風に髪をなびかせて立っている。
マルガレーテが呟いた。
「収穫ですね」
エルマーは腕を組んだまま、門の外を見た。
「ああ」
短い一言だった。
春に芽吹き、夏に実り、そして収穫を迎えた。季節が巡り、種は育ち、ここに至った。
王都。ランツァー伯爵邸。
ギルベルトの書斎の机の上に、一枚の公報が置かれていた。
辺境公爵レオンハルト・ヴェルクマイスターと、ヴァイスフェルト侯爵家長女セシリア・ヴァイスフェルトの婚礼が執り行われた旨を告げる、宮内省の公報だった。
ギルベルトは公報を読み終え、丁寧に畳んだ。
引き出しを開けた。公報を中に入れ、引き出しを閉じた。
窓の外を見た。
夏の陽が降り注いでいた。街路樹の葉が光を受けて輝いている。
しばらく外を見つめていた。
やがて、引き出しの上の帳面に手を伸ばした。伯爵家の実務の帳面だった。
帳面を開いた。数字に目を落とした。ペンを取った。
書き始めた。
窓の外の光が、帳面の上に落ちていた。
ギルベルトの手は、もう震えていなかった。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし楽しんでもらえたなら★★★★★ボタンをぜひ押していただけると嬉しいです!
ブックマークやリアクションなどもとても活力になっています!




