第6話「一人で立つ」
――私は、何を答えればいいのだろう。
クラウス・ヴァルターが辺境公爵領に到着したのは、レオンハルトが出陣してから二日後の昼過ぎだった。
王家の紋章が刻まれた馬車が門前に止まり、御者が扉を開けた。降り立ったのは、痩身の男だった。四十代半ば。灰色がかった髪を短く整え、仕立ての良い上着に王家の徽章を留めている。表情は平坦で、目は何も映していないように見えた。
セシリアは門前に立ち、深く一礼した。
「お待ち申し上げておりました。王家の侍従官クラウス・ヴァルター様でいらっしゃいますね。辺境公爵家の代理として、お迎えいたします。セシリア・ヴァイスフェルトでございます」
クラウスは一礼を返した。所作に無駄がなかった。
「ヴァイスフェルト嬢。ご丁寧に。公爵閣下のご不在は承知しております」
事務的な声だった。感情の色がなかった。好意も敵意もない、ただ事実を確認する声。
「国境防衛にてご出陣中でございます」
「ええ。公爵が国境防衛に出ているのは職務です。審査の延期理由にはなりません」
淡々とした言葉だった。セシリアの答えを評価するでも否定するでもなく、制度上の事実を並べている。
「ただし、公爵ご本人への面談は帰還後に追加で実施いたします。本日はヴァイスフェルト嬢への面談を行わせていただきます」
セシリアは「承知いたしました」と頷いた。
エレオノーラが、城館の玄関に立っていた。
セシリアがクラウスの到着前に同席を申し出た際、エレオノーラは少し驚いた顔をした。だがすぐに「もちろん」と答えた。
クラウスがエレオノーラに気づき、足を止めた。
「エレオノーラ様。お久しぶりでございます」
「クラウス。変わりないようね」
短いやり取りだった。旧知の間柄であることが、その呼び方の距離に表れていた。エレオノーラは「クラウス」と呼び、クラウスは「エレオノーラ様」と敬称をつけた。先代公爵の未亡人に対する礼と、旧知としての慣れが同居していた。
審査は、城館の客間で行われた。
丸い卓の上に、クラウスが書類を広げた。羽根ペンとインク壺を手元に置き、記録の準備を整えている。
セシリアが向かいに座り、エレオノーラが少し離れた椅子に腰を下ろした。マルガレーテが部屋の隅に控えている。
クラウスが口を開いた。
「まず、領地への貢献について伺います。ヴァイスフェルト嬢が辺境公爵領で手がけた事業の内容と、その成果を具体的にお聞かせください」
セシリアは背筋を伸ばした。
「燻製の製法を確立し、継続取引契約を締結いたしました。その後、発酵食品の開発に着手し、量産体制を構築いたしました。現在、量産第一弾が王都に出荷されております。また、グレーヴェン商会との事業提携を正式に成立させ、交易路の拡充を進めております」
数字を添えた。出荷量、取引額、領民の雇用数。帳面は持ち込まなかった。全て頭に入っていた。
クラウスは無表情のまま、ペンを走らせた。質問は的確だった。取引の条件、品質管理の手法、領民との関係。一つ一つに答え、セシリアの声は安定していた。
自分の仕事について語ることには、もう迷いがなかった。
「次に、公爵家の夫人としての資質について伺います」
クラウスの声は変わらなかった。同じ事務的な調子で、話題だけが移った。
「辺境に留まる理由は何ですか」
セシリアの口が開きかけた。
そして、止まった。
頭の中で、言葉が渦巻いた。
事業のため。領地のため。公爵家の発展のため。
どれも嘘ではなかった。だが、どれも本当ではなかった。
公爵家の夫人としての答え。王家の記録に残る言葉。宮内省に送られる報告書に書かれる一文。
完璧な答えを出さなければならない。この場にふさわしい、公的な言葉を。
セシリアの指先が、膝の上で冷えた。
言葉を探していた。頭の中で、「求められる答え」が次々と浮かんでは消えた。事業の継続のため。領民への責任のため。公爵家と侯爵家の結びつきのため。
どれを並べても、胸の奥に届かなかった。正しい言葉のはずなのに、自分の声に聞こえなかった。
沈黙が長くなった。
クラウスのペンが止まっていた。セシリアの答えを待っている。表情は変わらない。だがその無表情が、沈黙の重さを際立たせていた。
マルガレーテが部屋の隅で、わずかに身じろぎした。
セシリアの中で、古い声が囁いた。
相応しくなければ。
その声は、三年間の傷の底から這い上がってきた。役に立たなければ、必要とされなければ、ここにいる意味がなくなる。あの頃の焦りとは形が違う。だが根は同じだった。
完璧でなければ。相応しくなければ。求められる答えを出さなければ。
「クラウス、少しお待ちなさい」
エレオノーラの声だった。
穏やかだった。だがその奥に、芯があった。
クラウスの手が止まった。ペンを置き、エレオノーラを見た。
エレオノーラが椅子から立ち上がり、セシリアに向き直った。
「完璧な答えなど要りません」
声は静かだった。
「私にも聞かせてください。あなた自身の言葉を」
セシリアはエレオノーラの目を見た。
あの鋭い目。息子と同じ形の、人の内側を見通す目。だが今、その目の奥にあったのは値踏みではなかった。
待っていた。
この人は、セシリアの言葉を待っていた。
セシリアは一度目を閉じた。
深く、息を吸った。
胸の奥にあるものを探した。完璧な言葉ではなく、自分の言葉を。王家の記録に残すための答えではなく、自分自身の声を。
目を開けた。
「この土地に根を下ろした者として、この土地と共に歩む覚悟があるからです」
声は静かだった。飾りはなかった。
それは公的な言葉であると同時に、自分自身への宣言だった。
クラウスは無表情のまま、ペンを取り直した。紙の上に文字を書き始めた。何の反応も返さなかった。だがその沈黙は、否定ではなかった。記録に値する言葉として受け取った、という事務的な承認だった。
エレオノーラの目に、光が宿った。
あの日、「自分で選んだ場所です」と答えた時に揺れた目。今は揺れていなかった。静かに、確かに、光っていた。
審査はその後も続いた。婚約の政治的影響、公爵家と侯爵家の関係、王家への忠誠の確認。クラウスの質問は事務的で、セシリアは一つ一つに答えた。
全ての質問が終わった後、クラウスは書類をまとめた。
「審査の記録は宮内省に送付いたします。現時点で問題は認められません。ただし、公爵ご本人への面談は帰還後に実施いたしますので、私は数日間こちらに滞在いたします」
「承知いたしました。ご滞在中のことは、何なりとお申しつけください」
クラウスは一礼し、客間を出ていった。
部屋に残ったのは、セシリアとエレオノーラと、隅に控えるマルガレーテだった。
沈黙が落ちた。
エレオノーラがセシリアの方を向いた。
「あなたは私とは違います」
声は静かだった。
「この土地に、あなた自身の根がある」
セシリアの胸が詰まった。
この人が「私はこの土地を好きになれなかった」と告白した日のことを思い出した。途中で止まった帳面。果たされなかった努力。五年前に去った母の背中。
「お母様にも、ここに根がありました」
声が出た。考えて選んだ言葉ではなかった。
「途中で止まった帳簿が、その証拠です」
エレオノーラの目が伏せられた。
唇を噛んだ。薄い唇の端が白くなった。
数秒の沈黙。客間の窓から差し込む午後の光が、二人の間に落ちていた。
「……ありがとう」
小さな声だった。掠れていた。
セシリアの目が熱くなった。
「お母様こそ、来てくださってありがとうございます」
深く頭を下げた。
エレオノーラは何も答えなかった。だがその沈黙は、冷たいものではなかった。
自室に戻ったセシリアは、窓辺に立った。
日が傾き始めていた。辺境の大地が、夕暮れの色に染まりつつある。
審査は終わった。自分の言葉で答えられた。エレオノーラが助けてくれた。
だが、胸の中に安堵だけがあるわけではなかった。
レオンハルトがまだ帰っていない。
出陣から三日目。国境の状況は不明だった。斥候からの報告も、セシリアの元には届いていない。
公爵本人への面談という条件が残っている。クラウスは数日間滞在する。だがレオンハルトの帰還が遅れれば、審査は完了しない。
セシリアは窓の外を見つめた。
街道の先は、夕暮れの中に霞んでいた。国境の方角だった。
あの人は約束を守る人だ。
それは知っている。体の奥で、確かに知っている。
だが、知っていることと、不安を感じないことは、違った。
マルガレーテが部屋に入ってきた。
「お嬢様、お夕食の支度が整いました」
「ありがとう。すぐに参ります」
窓から離れた。
街道の先に、馬の影は見えなかった。




