第7話「帰る場所」
街道の先に、土煙が見えた。
セシリアは城館の門前に立っていた。
出陣から五日目の朝だった。夜明け前から目が覚め、作業場の帳面を確認し、クラウスの滞在に関する事務を片付け、それでもまだ日が高くならないうちに、門の前に出ていた。
待っていた。
以前、国境の巡視から戻る時は、窓から見送り、馬蹄の音を聞いてから門に出た。避難民の対応に追われていた時は、音を聞いた瞬間に足が動いた。
今回は、最初から門前にいた。
不安ではなかった。あの人は約束を守る。それは体の奥で知っていた。だが、知っていることと、待たずにいられることは、違った。
土煙が近づいてきた。馬が三頭。先頭の馬に跨る長身の影。
レオンハルトだった。
セシリアの肩から力が抜けた。自分でも気づかないうちに、ずっと力が入っていた。
馬が速度を落とし、門前に止まった。レオンハルトが馬を降りた。
怪我はなかった。だが疲弊が見えた。目の下に薄い隈があり、外套に泥が跳ねている。五日間、馬上と野営を繰り返した人の体だった。
レオンハルトの目が、門の前に立つセシリアを捉えた。
肩の力が、目に見えて抜けた。
張り詰めていた背筋がほんの少しだけ緩み、顎の角度が僅かに下がった。以前もそうだった。あの時と同じ変化。だが今、セシリアはその変化の意味を知っていた。
「お帰りなさいませ」
声は震えていなかった。
以前、この言葉を初めて口にした時は、自分でも驚いた。業務の報告ではない言葉が、自然に出たことに。
今回は違った。この言葉を言うために、ここに立っていた。
レオンハルトの目が、一瞬揺れた。
「ああ」
低い声だった。短い言葉だった。
だがその響きは、以前とは違っていた。安堵だけではなかった。この人が待っていてくれた、という確信が、その一音の中にあった。
セシリアの胸が温かくなった。
レオンハルトは近衛に馬の手綱を渡し、城館に向かった。歩きながら、短く報告した。
「国境は押し返した。当面は動かない」
簡潔だった。いつもの、無駄のない言葉。だが声の角が、わずかに丸かった。
午後、クラウスがレオンハルトへの面談を実施した。
客間ではなく、執務室だった。レオンハルトの領地であり、公爵として最も自然な場所だった。
セシリアは同席しなかった。面談はクラウスとレオンハルトの二者で行われるものだった。マルガレーテと共に隣室に控えた。
壁越しに声は聞こえなかった。だが、面談の時間は長くはなかった。
やがて執務室の扉が開き、クラウスが出てきた。
セシリアは立ち上がった。
クラウスは事務的な表情のまま、セシリアに一礼した。
「面談は完了いたしました。宮内省の認可は一ヶ月以内に届くでしょう」
セシリアの胸が跳ねた。
「審査の記録に問題は認められません。私は明朝、辺境を発ちます」
「ありがとうございます、クラウス様。ご滞在中のお世話が行き届かなかった点がございましたら、お詫び申し上げます」
「いいえ。十分でした」
クラウスはそれだけ言って、客間に向かった。背中に感情はなかった。職務を終えた人間の、事務的な足取りだった。
セシリアはその場に立ったまま、息を吐いた。
認可が一ヶ月以内に届く。婚約審査が完了した。
マルガレーテが隣に立っていた。何も言わなかったが、目が赤かった。
翌朝、エレオノーラが帰還の準備を始めた。
クラウスの馬車が門前に止まっている。エレオノーラの馬車はその隣にあった。王都への帰路を、途中まで同道するのだろう。
門前に、セシリアとレオンハルトが並んで立っていた。
エレオノーラが城館の玄関から出てきた。旅装に身を包み、薄い外套を肩にかけている。到着した日と同じ姿だった。だが、目の光が違っていた。
セシリアの前に立った。
「息子をよろしくお願いします」
深い一礼だった。
セシリアの呼吸が止まった。
先代公爵の未亡人が、侯爵令嬢に頭を下げている。身分の話ではなかった。母が、息子の伴侶になる人に、託しているのだ。
「お母様こそ、どうかお体をお大事に」
セシリアは深く頭を下げた。声が震えそうになるのを、堪えた。
エレオノーラは顔を上げ、微笑んだ。到着した日には見られなかった笑みだった。鋭い目の下で、唇の端が柔らかく上がっていた。
エレオノーラがレオンハルトの前に立った。
母と息子が向かい合った。
五年間の距離が、二人の間にあった。
セシリアはその場にいた。だが、この瞬間は二人のものだった。
エレオノーラは何かを言おうとしていた。唇が動きかけ、止まった。もう一度開きかけて、閉じた。息子と同じ癖だった。言葉にすることが苦手な血が、ここにも流れていた。
レオンハルトが先に口を開いた。
「……元気で」
短かった。ぶっきらぼうだった。
だがその一言を発するまでに、わずかな間があった。言葉を探したのではなかった。喉の奥にあるものを、声にするために必要な間だった。
エレオノーラの目が潤んだ。
睫毛が震え、瞳の縁に光が溜まった。だが落ちなかった。この人は涙を落とさない人だった。
「あなたもね」
声が掠れていた。
それだけだった。
エレオノーラは馬車に乗り込んだ。クラウスが別の馬車に乗った。御者が手綱を取り、車輪が動き始めた。
馬車が街道を遠ざかっていく。セシリアはその姿が小さくなるまで門前に立っていた。
レオンハルトは、馬車が見えなくなる前に城館に戻った。
だがセシリアは見ていた。レオンハルトが背を向ける瞬間、その肩が一度だけ上下したことを。深く息を吸い、吐いた動き。それが、この人の精一杯だった。
夕刻、フリッツからの書簡が届いた。
辺境を訪れる旨が記されていた。婚約契約書への署名と、娘が根を下ろした土地を自分の目で見るため。
セシリアは便箋を読み、帳面に挟んだ。父が来る。この土地に。
その夜、セシリアはレオンハルトの執務室を訪れた。
帳面を持っていたが、それは口実だった。
執務室に入ると、レオンハルトは椅子に座っていた。書類には向かっていなかった。窓の外を見ていた。
「クラウスの審査、一人で受けたと聞いた」
振り返らずに言った。
「はい」
セシリアは答えた。
レオンハルトが振り返った。疲弊の残る目だった。だがその奥に、セシリアを真っ直ぐに見る光があった。
「……すまなかった」
セシリアは首を振った。
「謝らないでください」
声は穏やかだった。
「私はもう、一人で立てます。あなたがそう言ってくれたから」
レオンハルトの目が揺れた。
あの夜会の夜。隣を歩きながら言った言葉。「視線を遮る必要がなくなった。お前は一人で立てる」。あの言葉を、セシリアが自分の経験として引き受けている。
レオンハルトの右手が動いた。
セシリアの手を取った。
強く。確かに。
指先に力が込められていた。剣を握る手。書類を捌く手。約束を守り続けてきた手。その手が、セシリアの手を包んでいた。
セシリアは握り返した。
何も言わなかった。レオンハルトも何も言わなかった。
執務室の窓から、夏の夕暮れの光が差し込んでいた。二人の繋がれた手の上に、橙色の光が落ちていた。
しばらく、そのまま立っていた。
言葉はなかった。だが沈黙の中に、声よりも確かなものがあった。
王都。社交の場。
ギルベルトは杯を手に持ち、壁際に立っていた。
「辺境公爵の婚約が宮内省の認可待ちだそうだ」
隣の知人が、何気ない調子で言った。
ギルベルトは一瞬目を閉じた。
小さく頷いた。
「興味があるのか」
知人が聞いた。
「いい話じゃないか」
声は穏やかだった。だが杯を持つ手が、わずかに強くなっていた。指の関節が白くなるほどに。
知人はそれ以上聞かなかった。
ギルベルトは杯を置き、一人で会場を出た。
夜の通りを歩いた。従者が後ろからついてきたが、声はかけなかった。
足取りは、前にこの通りを歩いた時よりも確かだった。背筋が伸びていた。
夏の夜風が、街路樹の葉を揺らしていた。




