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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第3章

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第4話「言葉の棘」

――この人は、何を確かめようとしているのだろう。


エレオノーラ滞在三日目の午後だった。


セシリアは城館の客間で、エレオノーラと向かい合っていた。丸い卓の上に茶器が二つ。湯気が細く立ち上り、窓から差し込む午後の光の中を漂っている。


マルガレーテが部屋の隅に控えていた。


前日、エレオノーラは作業場を隅々まで見て回った。発酵食品の樽の配置、帳面の記録の精度、領民たちの作業の手際。全てを確認した上で、今日、セシリアを茶に誘った。


「作業場を拝見して、改めて感心いたしました。あれだけの仕組みを、短い期間で整えられたのですね」


エレオノーラの声は前日よりも柔らかかった。だが、目の鋭さは変わっていなかった。


「ありがとうございます。領民の皆さんの力があってこそです」


「ご謙遜を」


エレオノーラが茶杯を持ち上げ、一口含んだ。杯を卓に戻す所作は優雅だった。侯爵家の出身であることが、指先の動き一つに表れていた。


「率直に伺いますわ」


エレオノーラの声が変わった。柔らかさが消え、芯のある声になった。


「あなたはこの辺境に、息子のために残るのですか。それとも、ご自身のために」


セシリアの呼吸が、一瞬止まった。


茶杯を持つ指先が冷えた。


問いの形は穏やかだった。だが、その奥にある刃は鋭かった。


息子のためか、自分のためか。


どちらかを選べと言われている。


セシリアの頭の中で、言葉が渦巻いた。「両方です」と言えば嘘ではない。だがそれは答えになっていない。核心を避けている。この人が聞きたいのは、そういう答えではない。


エレオノーラの目が、真っ直ぐにセシリアを見ていた。値踏みの目ではなかった。もっと切実な何かを探している目だった。


セシリアはエレオノーラの目を見返した。


「どちらかを選ぶ必要があるとは思いません」


声は静かだった。震えてはいなかった。だが、完璧な答えではないことを、自分でもわかっていた。


エレオノーラは数秒の沈黙の後、茶杯に目を落とした。


「そう」


短い返答だった。その一言に、失望も満足もなかった。ただ、セシリアの答えを受け取った、という音だけがあった。


沈黙が落ちた。茶杯の湯気が揺れている。窓の外で、風が木の葉を鳴らした。


エレオノーラが口を開いた。


「私はこの土地を好きになれませんでした」


セシリアの手が止まった。


エレオノーラの声は静かだった。告白の声だった。


「侯爵家から嫁いできた時、この辺境を愛そうと努力しました。内政にも関わろうとしました。ですが、私には無理でした」


窓の外を見ていた。午後の光が、エレオノーラの横顔を照らしている。その横顔に、レオンハルトの面影があった。


「先代が亡くなった後、王都に戻りました。息子を残して」


声が低くなった。


「社交界では、息子を捨てた母と呼ばれています。否定はしません。事実ですから」


セシリアは言葉を失った。


茶杯を持つ手が、膝の上に下りていた。エレオノーラの言葉を、体が先に受け止めていた。


この人は、この土地で暮らそうとした。内政に関わろうとした。だが、できなかった。そして、去った。


その選択を、社交界は「息子を捨てた」と呼んだ。


エレオノーラの目がセシリアに戻った。


「だから伺ったのです。あなたは、息子のために残るのか、ご自身のためなのか」


声の奥に、敵意はなかった。


心配があった。


不器用な、試すことでしか表現できない心配。この人は、セシリアが自分と同じ道を辿らないかを確かめたいのだ。


セシリアの胸に、痛みと理解が同時に広がった。


「お気持ちはわかります」


セシリアの声は穏やかだった。


「ですが、私はこの土地に根を下ろしています。事業が根づいた土地は、私にとっても根のある場所です」


エレオノーラの目に、光が走った。


涙ではなかった。涙に似た光だった。瞳の表面が一瞬だけ揺らぎ、すぐに元に戻った。


「……強いのですね」


小さな声だった。


セシリアは首を振った。


「強いのではありません。この土地に、私の仕事があるだけです。そしてそれは、私一人の力ではありません」


エレオノーラは茶杯を持ち上げ、口元に運んだ。だが飲まなかった。杯の縁に唇を当てたまま、しばらく動かなかった。


やがて杯を卓に戻し、小さく息を吐いた。


マルガレーテは部屋の隅で、二人のやり取りを見ていた。エレオノーラの目に走った光と、セシリアの声の穏やかさ。その両方を、静かに記憶に刻んでいた。


夕刻、レオンハルトの執務室から近衛が出てきた。


セシリアは廊下で近衛とすれ違った。近衛はセシリアに会釈し、足早に通り過ぎていった。


執務室の扉は半開きだった。


中から、レオンハルトの声が聞こえた。低く、短い。誰かに指示を出しているのではなく、独り言のようだった。


セシリアは扉の前で足を止めた。


入ろうか迷った。エレオノーラとの茶の報告をするべきだったが、今のレオンハルトの空気は、いつもと違った。


扉の隙間から見えたのは、机の上に広げられた報告書だった。国境方面の斥候からのものだった。地図のような図が添えられている。


レオンハルトの横顔に、影が落ちていた。


セシリアは扉を叩いた。


「入れ」


「お茶のお時間に、エレオノーラ様とお話しいたしました。ご報告がございます」


レオンハルトは頷いた。だが報告書を片付ける気配はなかった。


セシリアはエレオノーラとの会話の概要を伝えた。事業を評価していただいたこと。辺境での暮らしについて問われたこと。詳しい内容は避けた。エレオノーラが語った告白は、あの人自身のものだった。


レオンハルトは無言で聞いていた。


報告が終わった後、レオンハルトが口を開いた。


「暫く忙しくなるかもしれない」


声は平坦だった。


セシリアは机の上の報告書を見た。目を落としたレオンハルトの表情を見た。眉間の皺。顎の角度。国境の巡視に出る前と同じ硬さが、肩に戻っていた。


直接的には言わなかった。だがセシリアにはわかった。


国境の情勢が動いている。斥候の報告が、良い内容ではなかったのだ。


胸の奥に、冷たいものが差した。


「承知いたしました」


声は落ち着いていた。聞き返さなかった。この件は機密だった。レオンハルトが話せる範囲で話している。それ以上を求めることは、踏み越えることだった。


レオンハルトはセシリアの顔を見た。


「立会人の到着は五日後だ。それまでに国境の件を片付ける必要があるかもしれない」


片付ける。


その言葉の意味を、セシリアは正確に理解した。


出陣の可能性だった。


胸の中で、冷たいものが広がった。王家の立会人が来る前に、レオンハルトが国境に向かうかもしれない。立会人の審査に、レオンハルトがいないかもしれない。


「……承知いたしました」


同じ言葉を繰り返した。他に言えることがなかった。


レオンハルトは頷き、報告書に目を戻した。


セシリアは執務室を辞した。


廊下を歩いていると、前方にエレオノーラの姿があった。


客間から出てきたところだった。マルガレーテがセシリアの後ろに控えている。


エレオノーラがセシリアに気づき、足を止めた。


「お散歩ですか」


セシリアは会釈した。


エレオノーラは微笑んだ。午後の茶の時とは違う、力の抜けた表情だった。


「少し歩きたくなりまして。城館の中は、あまり変わっていないのですね」


「そうなのですね。この城館のことは、お詳しくていらっしゃいますものね」


「ええ。この廊下も、あの窓も、覚えています」


エレオノーラの視線が窓の外に向いた。辺境の大地が広がっている。かつてこの窓から同じ景色を見ていた人の目だった。


並んで歩き始めた。自然な流れだった。


エレオノーラが呟いた。


「息子は昔から言葉が足りない子でした」


セシリアの足が一瞬止まり、すぐに動き出した。


「存じております」


口が勝手に動いていた。丁寧な言葉だったが、その中に、知っている者だけが持つ親しみがあった。


エレオノーラの口元が、ほんの一瞬だけ緩んだ。


笑みと呼ぶには小さすぎた。だが、確かにそこにあった。あの鋭い目の下で、唇の端がわずかに上がった。


セシリアはその微かな変化に気づいた。


胸が、少しだけ軽くなった。この人は敵ではない。味方かどうかはまだわからない。だが、敵ではない。


エレオノーラは再び前を向き、廊下の奥に歩いていった。


セシリアはその背中を見送り、自室に戻った。


夜。


セシリアは寝台に腰を下ろし、窓の外を見つめていた。


エレオノーラの告白が、胸の中で反響していた。


この土地を好きになれなかった。内政に関わろうとしたが、できなかった。息子を残して去った。


その言葉を聞いた時、セシリアはレオンハルトの孤独を改めて理解した。


二十歳で父を亡くし、母は王都に戻った。この城館に一人残された。使用人とエルマーがいたとはいえ、家族はいなかった。


五年間。


この城館の主は、五年間、一人で全てを背負っていた。


セシリアの胸が痛んだ。自分の痛みではなかった。この人の痛みだった。


同時に、静かな確信があった。


自分は、この人の母とは違う。


この土地に根がある。事業がある。領民との絆がある。そして何より、この場所を自分で選んだ。


エレオノーラは夫のために来た。セシリアは自分で来た。出発点が違う。


だからこそ、あの問いに「どちらかを選ぶ必要があるとは思いません」と答えられた。


国境の情勢への不安が、胸の奥に影を落としている。レオンハルトが出陣するかもしれない。立会人の審査が近づいている。


だが、不安より大きなものがある。


この人の傍にいたい。この人の傷を受け止めたい。


その感情が、もう名前を求めていた。


セシリアは窓から目を離し、目を閉じた。


あの廊下で、レオンハルトの手が自分の肩に向かって伸びて、途中で止まった場面を思い出した。


触れかけて、止まった手。


いつか、あの手が止まらなくなる日が来る。


その日のために、自分もちゃんと、伝えなければならないことがある。

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