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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第3章

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第2話「母の影」

「王都から書簡が届いております、公爵様」


エルマーの声が、執務室の空気を裂いた。


レオンハルトは机に向かったまま手を伸ばし、封書を受け取った。封蝋に押された紋様を一瞥し、指で割った。


セシリアは執務室の入口に立っていた。量産の経過報告のために訪れたところだった。マルガレーテが隣室に控えている。


レオンハルトの目が、便箋の上を走った。


読み終えるまでに、時間はかからなかった。短い書簡だったのだろう。だがレオンハルトは便箋を持ったまま、しばらく動かなかった。


やがて便箋を机の上に置き、椅子の背にもたれた。


窓の外を見ていた。無言だった。


セシリアは声をかけなかった。この人が沈黙している時は、沈黙で待つ。それが正しいやり方だと、もう知っていた。


「母からだ」


レオンハルトの声は平坦だった。窓の外を見たまま、書簡の差出人だけを告げた。


セシリアの胸が、小さく緊張した。


レオンハルトの母。先代公爵の未亡人。王都の侯爵家に戻っている人。前に「折り合いが悪い」とだけ聞いた、その人。


「婚約への祝意と、立会人の視察に合わせて辺境を訪れたいとある」


レオンハルトの声に感情はなかった。事実を並べているだけの声だった。だがその事実を口にする前の、ほんのわずかな間。便箋を読み終えてから窓の外を見つめていた、あの沈黙。


この人にとって、軽い知らせではない。


セシリアは報告の帳面を膝の上に置いた。


「お母様がいらっしゃるのですね」


「ああ」


それだけだった。レオンハルトの視線は窓の外に固定されたままだった。


自室に戻ったセシリアは、寝台の端に腰を下ろした。


マルガレーテが茶の支度をしながら、主人の顔を見た。


「お嬢様、何かございましたか」


「マルガレーテ。公爵様のお母様について、何かご存じ?」


マルガレーテの手が一瞬止まり、すぐに動き始めた。


「侯爵家のご出身で、先代公爵様が亡くなられた後、王都に戻られたと聞いております。それ以上のことは、わたしの耳には入っておりません」


セシリアは頷いた。


自分もほとんど同じだった。レオンハルトの母について知っていることは、断片的な情報だけ。侯爵家の出身であること。先代の死後に王都へ戻ったこと。レオンハルトとの間に距離があること。


それだけだった。


セシリアは立ち上がった。


「直接伺いましょう」


「公爵様に、ですか」


「ええ」


聞き出すのは信頼ではない。それは知っている。だが、婚約の手続きにその人が関わるなら、避けて通れない。知らないままでは、迎える準備もできない。


マルガレーテは微笑んだ。何も言わなかった。


夕刻、セシリアは執務室を訪れた。


レオンハルトは朝と同じ姿勢で机に向かっていた。ただし、机の上の書類が変わっていた。国境の斥候報告と、母からの書簡が左右に分けて置かれている。


「レオンハルト様。一つ、伺ってもよろしいですか」


「何だ」


「お母様のことを、教えていただけませんか」


レオンハルトの手が止まった。


沈黙が落ちた。時計の針が秒を刻む音だけが聞こえた。


「母とは折り合いが悪い」


短い答えだった。朝と同じ言葉。それ以上語る気配はなかった。


セシリアは待った。


この人が言葉を探している時の沈黙と、話を終わらせる時の沈黙は、質が違う。今のは後者だった。


だが、セシリアはもう一歩だけ踏み込んだ。


「お迎えの準備をいたしますので、お母様のお好みやお気をつけるべきことがあれば、教えていただけると助かります」


業務の形を取った問いかけだった。個人的な詮索ではなく、来客を迎える実務として。


レオンハルトの目がセシリアに向いた。数秒の沈黙があった。


「……母がここを出た理由は、クラウスが来た時に知れるだろう。母の旧知だ」


声は低かった。感情を押し込めた声だった。だがその奥に、何かを手放すような響きがあった。自分では語れない。だが、知られることを拒んではいない。


セシリアは「承知いたしました」と答えた。


それ以上は聞かなかった。


翌日、セシリアはエレオノーラの滞在に向けた準備を始めた。


客間の整備、食事の手配、滞在中の日程の素案。先代公爵の未亡人を迎えるに相応しい待遇を整える必要があった。


マルガレーテと城館の使用人たちに指示を出しながら、セシリアは廊下で古参のエルマーとすれ違った。


エルマーは足を止め、セシリアに軽く頭を下げた。


「奥方様のお部屋の準備は、西棟の客間でよろしいですかな」


「ええ、お願いします。不足があれば知らせてください」


エルマーは頷き、歩き出しかけて、足を止めた。


背を向けたまま、低い声で言った。


「先代の奥方は……難しいお方だった」


セシリアの足が止まった。


エルマーはそれだけ言って、廊下の奥に消えていった。


難しい。


その一言が、胸の中に小さな棘として残った。レオンハルトの沈黙と、エルマーの一言。二つが重なって、まだ見ぬ人物の輪郭が、薄く浮かび上がった。


セシリアは息を吸い、廊下を歩き続けた。


夕刻、セシリアは執務室に書類を届けに向かった。


滞在の準備に関する確認事項をまとめた帳面だった。客間の配置、食事の献立案、滞在日数の見込み。


執務室の扉を叩こうとした時、中からレオンハルトの声が聞こえた。


「返書は明朝出す。母が来る。二週間後だ」


近衛に指示を出しているらしかった。


セシリアは一拍待ってから扉を叩いた。


「入れ」


執務室に入ると、レオンハルトは机の上で封書を畳んでいた。エレオノーラへの返書だった。


書簡の内容には触れなかった。セシリアも聞かなかった。


「母が来る。二週間後だ」


朝に近衛に告げた言葉と同じだった。だがセシリアに向けた声は、近衛への指示とは違っていた。ほんのわずかに、声の角が取れていた。


「お迎えの準備をいたします」


セシリアは帳面を差し出した。準備の概要を簡潔に説明した。レオンハルトは目を通し、頷いた。


セシリアが帳面を受け取り、退室しようとした時だった。


「……助かる」


セシリアの足が止まった。


振り返った。レオンハルトは書類に目を落としていた。こちらを見てはいなかった。


助かる。


この人がその言葉を口にするのを、初めて聞いた。


「よくやった」は聞いたことがある。「任せる」も。「わかった」も。だが「助かる」は、違った。評価でも委任でもない。自分が楽になった、という告白に近い言葉だった。


この人は今、母の来訪に対して何かを抱えている。それを一人で処理しようとしていた。セシリアが準備を引き受けたことで、その重荷が少しだけ軽くなった。


胸が温かくなった。同時に、この人が抱えているものの深さに、微かな痛みを覚えた。


「お任せください」


声は穏やかだった。それ以上は何も言わなかった。


執務室を出て、廊下を歩いていた。


西棟に向かう角を曲がった時だった。


前方から、足音が近づいてきた。


レオンハルトだった。


執務室を出たはずなのに、いつの間にか同じ廊下にいた。別の用で移動していたのだろう。


廊下は狭かった。二人がすれ違うには、どちらかが半歩身を引く必要がある幅だった。


セシリアが足を止めた。レオンハルトも足を止めた。


距離が近かった。


レオンハルトの外套の裾が、風もないのに揺れた。歩みを止めた勢いで布が動いたのだ。その裾が、セシリアの手の甲に触れた。


「あ」


小さな声が漏れた。自分の声だった。


外套の布地は厚かった。辺境の風を防ぐための、しっかりとした織り。その布越しに、この人の体温を感じたわけではなかった。ただ布が触れただけだった。


なのに、指先が熱くなった。


レオンハルトは立ち止まったまま、触れた手を見た。


セシリアの手の甲を、じっと見ていた。


数秒の沈黙があった。


レオンハルトは何も言わず、歩き出した。セシリアの横を通り過ぎ、廊下の奥に消えていった。振り返らなかった。


セシリアは廊下に立ったまま、触れた手の甲を反対の手で押さえた。


布が触れただけだ。それだけのことだ。


なのに心臓が速い。頬が熱い。押さえた手の下で、触れた場所がまだ感覚を残している。


マルガレーテの足音が、廊下の向こうから近づいてきた。


セシリアは手を下ろし、姿勢を正した。


「お嬢様、西棟の客間の件ですが」


「ええ。参りましょう」


声は平静を装っていた。だがマルガレーテの目が、セシリアの頬を一瞥した。何も言わなかった。ただ、口元がわずかに緩んでいた。


王都。ランツァー伯爵邸。


夜の社交の場から戻ったギルベルトは、書斎の椅子に腰を下ろした。


杯を机の上に置いた。中身は半分残っている。


今夜の席で、ある噂を耳にした。


「辺境公爵とヴァイスフェルト侯爵令嬢の婚約が近いらしい」


誰かがそう言った。社交の場で流れる噂の一つに過ぎなかった。だが、その名前を聞いた瞬間、指先が冷えた。


「そうか」


短く答えた。それ以上の感情は表に出さなかった。


杯の縁を、指先がなぞっていた。無意識の動きだった。


ギルベルトはその手を止め、杯を棚に戻した。


窓の外に、夏の夜の空気が漂っていた。

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