第1話「実りの風」
風が、麦の穂先を揺らしていた。
初夏の陽が辺境の大地に降り注いでいる。三ヶ月前には泥の中から顔を出したばかりだった芽が、今は腰の高さまで伸び、青々と風に靡いていた。
セシリアは作業場の入口に立ち、帳面に目を落とした。
発酵食品の量産第一弾。木箱に詰められた品が、今朝、王都へ向けて出発した。ヴィクトルの商会が手配した輸送隊に託し、七日後には王都の市場に届く。
帳面の数字を指で辿る。出荷数、品質の記録、輸送中の温度管理に関する注意書き。一つ一つを確かめ、抜けがないことを確認した。
「お嬢様、ヴィクトル様からのお手紙が届いております」
マルガレーテが封書を差し出した。ヴィクトルの商会の封蝋が押されている。
封を切り、便箋を広げた。
燻製の継続取引は好調であること。発酵食品の試供品を王都の料理人に渡したところ、評判が上々であること。正式な出荷品の到着を市場が待っていること。
数字と報告が並ぶ文面の末尾に、一文が添えられていた。
「辺境の特産品は、いまや王都で最も注目される商品の一つです。セシリア嬢のお力に敬意を表します」
セシリアは便箋を折り畳み、帳面に挟んだ。
胸の中に、静かな手応えがあった。辺境に来てから始めたことが、王都にまで届いている。燻製、発酵食品、ヴィクトルとの事業提携。一つ一つ積み上げてきたものが、形になっている。
だが、それだけではなかった。
この三ヶ月で変わったのは、事業だけではない。
セシリアは帳面を閉じ、城館に向かった。
執務室の前で足を止めた。扉は開いていた。
レオンハルトが机に向かっていた。書類の束に目を通している。右手に羽根ペン、左手が紙の端を押さえている。いつもの姿勢だった。
セシリアが扉を叩くと、レオンハルトが顔を上げた。
「量産第一弾の出荷が完了いたしました。輸送隊は予定通り今朝出発しております。ヴィクトル様からの書簡では、王都での評判も上々とのことです」
「そうか」
短い返答だった。だがその目がセシリアの顔を見て、わずかに緩んだ。以前は気づかなかった変化が、今ははっきりと見える。
「よくやった」
低い声だった。あの日、発酵食品が完成した時にも聞いた言葉。同じ言葉なのに、今はその響きの中に、以前よりも多くのものが含まれている気がした。
セシリアは一礼し、報告を続けた。出荷の数量、次回の生産計画、原料の豆の栽培状況。レオンハルトは簡潔に頷き、時折質問を挟んだ。
報告が終わった後、レオンハルトの手が書類の束の中から一枚を取り出した。
見覚えのない書面だった。封蝋の紋様が、商会や貴族家のものとは違う。
「宮内省からの通達だ」
レオンハルトの声が、わずかに硬くなった。
セシリアは背筋を伸ばした。
宮内省。交際の意思表明を届け出た先。婚約の正式な手続きを管轄する機関。
「交際の届出から三ヶ月が経過した。そろそろ、正式な手続きの話をする」
レオンハルトの目が書面に落ちた。眉間にわずかな皺が寄っている。
婚約の正式な手続き。その言葉を聞いた瞬間、セシリアの胸が跳ねた。
だが同時に、小さな寂しさが過ぎった。「手続き」。合理的な言葉だった。事務的な響きだった。この人はまた、感情を制度の言葉に包もうとしている。
セシリアはその寂しさを飲み込んだ。この人のやり方は知っている。言葉ではなく行動で示す人だ。それを、もう疑ってはいない。
「宮内省の通達には何と」
「公爵家と侯爵家の婚約に際し、王家が立会人を送る慣例がある。その旨の通達だ」
立会人。
セシリアの指先が、膝の上でわずかに強張った。
「王家の立会人が、辺境に来るということですか」
「ああ。審査と記録のためだ。形式的なものだ。問題はない」
レオンハルトはそう言った。だがその眉間の皺は消えていなかった。
セシリアはその表情を見た。
「問題がないなら、なぜあなたの眉間に皺が寄っているのですか」
言葉が口を突いて出た。丁寧だが、率直だった。この人には真っ直ぐな問いが最も届く。辺境での日々が教えてくれたことだった。
レオンハルトの手が止まった。
ペンが書類の上で静止している。一秒。二秒。
「……お前に余計な負担をかけたくない」
声が低くなった。視線が書類に落ちたまま、戻らない。
本音だった。この人が間を置いてから答える時は、そこに何かがある。
セシリアの胸が温かくなった。
「負担ではありません」
声は穏やかだった。震えてはいなかった。
レオンハルトの目がセシリアに戻った。数秒の沈黙があった。
「わかった」
それだけ言って、レオンハルトは通達の書面を机の上に置いた。
「日程が決まれば伝える。準備は必要になる」
「承知いたしました」
セシリアは頷いた。婚約の正式な手続きが始まる。王家の立会人が辺境に来る。自分が公爵家に相応しいかどうか、見定められるのだろう。
緊張はあった。だが、不安より大きなものがあった。隣にいる人への信頼が、静かに胸の中に座っていた。
立ち上がりかけた時、レオンハルトが口を開いた。
「立会人は、クラウス・ヴァルターという男だ。王家直属の侍従官で、母上の旧知でもある」
セシリアの動きが止まった。
母上。
レオンハルトの母。王都の侯爵家に戻っている人。先代公爵が亡くなった後、辺境を去った人。レオンハルトが「折り合いが悪い」と短く言った、あの人。
「お母様の、旧知……」
「ああ」
それ以上は語らなかった。レオンハルトの視線は書類に戻っていた。
だがその一言が、セシリアの胸に小さな影を落とした。王家の立会人と、レオンハルトの母。二つの存在が、婚約の手続きに関わってくるかもしれない。
セシリアは一礼し、執務室を出ようとした。
「セシリア」
背後から、名前を呼ばれた。
敬称のない名前。二人きりの執務室で、この人が自分を呼ぶ声。あの屋上で許された呼び方。三ヶ月の間に何度も聞いたはずなのに、その度に胸が甘く震える。
振り返った。
レオンハルトは書類に目を落としていた。ペンを持ったまま、こちらを見ていなかった。
「……いや、何でもない」
セシリアは一歩戻った。
「何ですか」
声は柔らかかった。急かす調子はなかった。
レオンハルトは答えなかった。ペン先が紙の上を滑り始めた。何事もなかったかのように、書類の処理に戻っている。
セシリアはしばらくその横顔を見つめ、小さく息を吐いた。
この人は、まだこうだ。言いかけて止まる。行動で示せることは迷わないのに、言葉にすることには、いつも一拍遅れる。
それでよかった。この人のやり方を、もう知っている。
「失礼いたします」
セシリアは執務室を出た。
隣室で、マルガレーテが小さく息を吐いた。主人が呼び止められた瞬間と、何も言わずに戻された空気を、壁越しに感じ取っていた。
自室に戻ると、机の上にもう一通の封書が置かれていた。
ヴァイスフェルト侯爵家の封蝋。父フリッツからの書簡だった。
封を切り、便箋を広げた。父の簡潔な筆跡が並んでいる。
侯爵家の近況。王都の政治的な動向。セシリアの事業に対する社交界の評価が上がっていること。
便箋の末尾に、一文が添えられていた。
「ホーエンベルク男爵家の蟄居処分に変更はなし。リゼット嬢は領地に留まっている」
セシリアはその一文を読み、帳面に目を戻した。
感情は動かなかった。以前のように瞼の裏に何かが過ぎることも、もうなかった。便箋を折り畳み、引き出しに仕舞った。
終わったことだった。完全に。
窓の外に目を向けた。初夏の陽が大地を照らしている。辺境に来た頃、灰色一色だったこの景色に、今は緑が溢れている。
新しい段階が始まる。婚約の正式な手続き。王家の立会人。そして、レオンハルトの母の影。
まだ見えない試練がある。だが、隣にいる人への信頼が、不安より大きい。
セシリアは帳面を開き、出荷の記録に戻った。
やるべきことがある。この場所で、自分の仕事を続ける。
それが今の自分を支えていた。そして、それだけではないものが、もう一つ、確かにここにあった。




