第10話「約束の春」
「お帰りなさいませ、セシリア様」
門の前に立つ領民の声が、馬車を降りたセシリアの耳に届いた。
辺境公爵領の城館。七日間の馬車旅を終え、見慣れた石の門が目の前にあった。灰色の空。乾いた風。痩せた大地。何も変わっていない景色のはずだった。
だが、違った。
門の前に人が集まっていた。使用人だけではなかった。村の領民たちが何人も来ていた。燻製を最初に口にした男がいた。豆を分けてくれた畑の女がいた。子供たちが駆け回り、年嵩の女が手を振っていた。
セシリアの足が、地面に触れた。
辺境の土を踏んだ瞬間、胸の奥で何かが定まった。
ここが私の場所だ。
疑いのない、静かな確信だった。
「おかげさまで、王都での手続きは無事に終わりました。辺境の燻製も発酵食品も、王都で高い評価を受けています」
セシリアの声に、領民たちが歓声を上げた。小さな歓声だったが、温かかった。
レオンハルトが馬車を降り、領民たちの前を通り過ぎた。短く「戻った」とだけ言い、城館に入っていく。いつもと変わらない背中だった。
だが今、セシリアはその背中を見つめながら、以前とは違うものを感じていた。あの背中の向こうに、自分の未来がある。
古参の使用人エルマーが門の脇に立っていた。腕を組み、いつもの仏頂面だったが、セシリアと目が合うと、ぎこちなく口を開いた。
「……お疲れさまでした」
それだけだった。だが、かつて「よそ者」と呟いた男の顔ではなかった。
セシリアは微笑んで頷いた。
作業場に向かったのは、到着の翌日だった。
発酵食品の量産第一弾の出荷準備が整っていた。留守の間、セシリアが書き残した手順書に従い、使用人と領民たちが管理を続けてくれていた。
樽の蓋を開けた。深い褐色の表面から、濃く丸みのある香りが立ち上った。完成品の香り。辺境の自生する豆と、この土地の気候が作り上げた調味料。
木箱に詰められた燻製と発酵食品が、出荷のために並べられている。ヴィクトルとの事業提携は正式に成立していた。セシリアの対案——辺境に拠点を置き、必要に応じて王都に出向く——が採用され、最初の出荷は商会が手配した輸送隊に委ねられる。
セシリアは帳面を確認し、数量と品質を一つ一つ検めた。
この場所で始めたことが、形になっている。
胸の中に、静かな充足があった。だが同時に、小さな声が過ぎった。
本当にこれでいいのか。
その声は、三年間の冷遇が残した最後の傷痕だった。幸せになっていいのか。自分がこんなに満たされていていいのか。
セシリアはその声に耳を傾けた。否定しなかった。消そうともしなかった。
三年間の痛みは、確かにあった。あの日々は本物だった。一人きりの誕生日も、壁際で立ち尽くした舞踏会も、全て本当にあったことだ。
だが、その痛みの全てが、ここに辿り着くための道だった。
それでも、私はここにいたい。
今度は声に出さなかった。声に出す必要がなかった。もう、自分の中で答えは決まっていた。
夕刻、レオンハルトがセシリアを呼びに来た。
「来い」
一言だけだった。行き先も目的も言わない。いつもの簡潔さだった。
セシリアはマルガレーテと顔を見合わせ、レオンハルトの後に続いた。城館の階段を上がり、廊下の奥の狭い螺旋階段を登った。
屋上だった。
城館の最上部にある、石造りの平らな場所。普段は使われていない。風が強く、手すりは低い。だが、そこから見える景色は息を呑むものだった。
辺境の広大な大地が、一望できた。
遠くに連なる山並み。その手前に広がる荒野。かつて灰色一色だったその荒野に、今は緑が点在していた。春の芽吹きが、少しずつ大地の色を変えている。
村の屋根が見えた。畑の筋が見えた。作業場の煙突から、薄い煙が上がっていた。
「ここから見える全てが、お前と作り上げたものだ」
レオンハルトが、隣に立って言った。
声は低かった。いつもの簡潔さだった。だがその言葉の中に、この人なりの精一杯が込められていることを、セシリアは知っていた。
「レオンハルト様と、領民の皆さんと、ですよ」
セシリアは訂正した。穏やかな声だった。
レオンハルトは一瞬黙った。風が二人の間を抜けた。
「レオンハルトでいい」
セシリアの呼吸が止まった。
敬称の省略。公爵が侯爵令嬢に対し、名前だけで呼ぶことを許す。それは公式な親密さの承認だった。
胸が震えた。指先が冷え、次の瞬間に熱くなった。
「……レオンハルト」
声が小さかった。自分の声が、自分のものではないように聞こえた。敬称のない名前が唇を離れた瞬間、顔に熱が上った。
セシリアは俯いた。耳まで赤くなっているのが、自分でもわかった。
レオンハルトの肩がわずかに動いた。
「もう一度」
セシリアは顔を上げた。
レオンハルトの目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。冬の湖面のように冷たいと思っていた瞳。その瞳の奥に、今ははっきりとした光があった。
「レオンハルト」
今度は、震えなかった。澄んだ声だった。
レオンハルトの耳が赤くなった。顔は無表情を保っていたが、耳の先だけがはっきりと紅い。
目が逸れた。
「……何度も呼ぶな」
言いかけて、止まった。
風が吹いた。荒野の向こうから、春の匂いを含んだ風だった。
「いや。好きなだけ呼べ」
セシリアは笑った。
堪えられなかった。口元が緩み、目が細くなり、声が漏れた。飾りのない、自然な笑いだった。
レオンハルトの口元が、わずかに動いた。
笑みと呼ぶには小さすぎた。だが、確かにそこにあった。唇の端がほんの少しだけ上がり、硬い表情がわずかに緩んだ。
二人は並んで、辺境の大地を見下ろした。
春の風が吹いていた。荒野の所々に、花の芽が見えた。小さく、控えめに、だが確かに土を押し上げて頭を出している。
この土地は変わった。自分が来た時、ここは灰色一色だった。今は違う。色がある。命がある。
約束を守る人がいる。そしてその人が、自分を選んでくれた。
城館の窓から、マルガレーテが屋上の二人の姿を見ていた。
風に髪をなびかせて並ぶ二つの影。片方は長身で、もう片方はその肩の高さに頭が届く。
隣に、エルマーが立っていた。何の用があったのか、たまたま廊下を通りかかっただけかもしれない。
マルガレーテは窓の外を見たまま、小さく呟いた。
「春ですね」
エルマーは腕を組んだまま、窓の外を見た。
「ああ」
短い一言だった。だがその声は、初めてセシリアを「よそ者」と呼んだ時とは、まるで違う温度を持っていた。
王都。ランツァー伯爵邸の書斎。
ギルベルトは、机の引き出しを開けた。
中に、一通の手紙があった。書きかけたまま、出さなかった手紙。宛先はセシリア・ヴァイスフェルト。
辺境公爵と侯爵令嬢の交際が正式に発表された、という噂は、今朝の社交の場で耳にした。宮内省への届出が済んだと、誰かが言っていた。
ギルベルトは手紙を取り出した。
便箋を広げた。自分の筆跡が並んでいる。書きかけた言葉。届けなかった謝罪。もう届ける先のない手紙。
暖炉の火が、赤く揺れていた。
ギルベルトは便箋を折り畳み、暖炉の前に立った。
手を伸ばし、火の中に手紙を置いた。
紙の端から炎が移り、便箋がゆっくりと燃えていった。自分の筆跡が黒く焦げ、灰になっていく。
「幸せに」
小さな声だった。誰にも聞こえない声だった。
それはセシリアへの言葉だった。同時に、過去の自分との決別だった。
燃え尽きた灰が、暖炉の底に落ちた。
ギルベルトは窓の外を見た。
街路樹の枝先に、若葉が芽吹き始めていた。
(完)
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