第9話「父と公爵」
レオンハルトが、ヴァイスフェルト侯爵家の王都別邸の門をくぐった。
告白の翌々日の朝だった。セシリアが自分の答えを整理するための一日を挟み、今日、レオンハルトはフリッツのもとを正式に訪れた。
近衛二人が門の外に控えた。レオンハルトは一人で別邸に入った。深い紺色の上着に、公爵家の家紋が入った留め具。王都での正装だった。
セシリアは二階の客間にいた。マルガレーテが隣に座っている。
窓の外に、レオンハルトが門を入る姿が見えた。背筋の伸びた歩き方。いつもと変わらない。だが今日のその足取りには、辺境で見る時とは違う重さがあった。
「お嬢様、お茶をお持ちしましょうか」
マルガレーテの声は穏やかだった。
「……いいえ。今は何も入らないわ」
セシリアの手は膝の上で組まれていた。指先が冷えていた。
昨日は一日、自分の答えを確かめるために使った。庭園でのレオンハルトの言葉を何度も反芻し、自分の胸の中にあるものを一つ一つ確かめた。
答えは、もう出ていた。庭園で涙を流した瞬間に、出ていた。一日かけたのは、その答えを自分の言葉にするための時間だった。
階下から、書斎の扉が開く音が聞こえた。
フリッツの書斎は、窓から午前の光が差し込んでいた。
机の手前に椅子が一脚用意されている。だがレオンハルトは座らなかった。フリッツの机の前に立ち、姿勢を正した。
フリッツは椅子に座ったまま、レオンハルトを見上げた。
公爵と侯爵。身分上はレオンハルトが上位だった。だが今日、レオンハルトは娘の父親の前に立つ一人の男だった。その姿勢が、言葉より先にそれを伝えていた。
「フリッツ侯爵。本日は一つ、お願いがあって参りました」
レオンハルトの声は敬語だった。公の場での口調。だが、その奥にある硬さは、儀礼とは別のものだった。
フリッツは顎を引いた。
「聞こう」
「令嬢を伴侶として迎えたい」
短かった。飾りのない、直截な言葉だった。
沈黙が落ちた。書斎の時計が秒を刻む音だけが響いた。
フリッツの表情は動かなかった。政治家の顔だった。
「理由を聞こう」
「領地に必要な人材だから、ではない」
レオンハルトの声が、わずかに低くなった。
「この人でなければならないからだ」
フリッツの目が、レオンハルトの顔を射貫くように見た。数秒の沈黙があった。
やがて、フリッツが口を開いた。
「公爵家と侯爵家の縁組は、王家の均衡に関わる。宮内省への届出、王家への事前報告が必要だ。手続きは複雑で、時間もかかる」
政治家の声だった。事実を並べている。
「承知しております。王家への事前報告は、私自身が行います」
「フリッツ侯爵の助言を仰ぎたい」とレオンハルトは付け加えた。公爵が侯爵に助言を求める。身分上は異例だが、娘の父親に対する敬意として、その言葉は自然だった。
フリッツは椅子の背にもたれた。
「もう一つ聞く」
声の調子が変わった。政治家の声ではなかった。
「娘が辺境で幸せになれる保証はあるか」
父の声だった。
レオンハルトは沈黙した。
長い沈黙だった。書斎の時計が三つ、四つと音を刻んだ。
「保証はできない」
レオンハルトの声は静かだった。
「だが約束はする」
フリッツの目が、わずかに揺れた。
沈黙が、さらに長く続いた。
やがて、フリッツの唇が動いた。
「……お前の父親にも、同じことを言ったことがある」
低い声だった。過去を手繰るような、遠い声だった。
レオンハルトの目が揺れた。肩が一瞬強張り、すぐに戻った。五年前に亡くした父のことを、この人の口から聞くとは思っていなかった。
フリッツは机の上に目を落とした。数秒の後、顔を上げた。
「よかろう」
声は静かだった。だがその一言には、政治家としての判断と、父親としての決断の両方が込められていた。
「ただし、娘が頷くまでは何も決まらん」
レオンハルトは深く一礼した。
「承知しております」
二階の客間で、セシリアは膝の上の手を握りしめていた。
壁の向こうの声は聞こえなかった。書斎は一階の奥にある。どれほど耳を澄ませても、言葉は届かない。
マルガレーテが席を立った。
「少し、様子を見て参ります」
セシリアが止める前に、マルガレーテは部屋を出ていた。
一人になった客間で、セシリアは窓の外を見た。春の陽が中庭を照らしている。木々の葉が風に揺れ、光の斑が石畳の上で踊っていた。
時間がどれほど経ったかわからなかった。
扉が開いた。マルガレーテが戻ってきた。
その顔が、赤かった。目が潤んでいた。だが、笑っていた。
「お嬢様」
「何があったの」
「公爵様が笑っていらっしゃいます」
セシリアの目が見開かれた。
「笑っている? レオンハルト様が?」
マルガレーテは頷いた。
「書斎の扉の隙間から、ほんの一瞬だけ。口元をわずかに緩めておいでで。わたしが見たのは初めてです」
セシリアは言葉を失った。
あの人が笑っている。あの、冬の湖面のような目をした人が。
胸の奥が震えた。熱いものが込み上げてきた。
マルガレーテがセシリアの隣に座り、手を取った。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
その一言で、セシリアの目から涙がこぼれた。堪えようとしなかった。堪える必要がなかった。
廊下に足音が聞こえた。
セシリアは急いで目元を拭った。マルガレーテがハンカチを渡し、素早く涙の跡を整えた。
客間の扉が開いた。
レオンハルトが入ってきた。
セシリアは立ち上がった。レオンハルトの顔を見た。いつもの無表情だった。だが、目の奥に、庭園で見たのと同じ光があった。
レオンハルトはセシリアの前に立った。
「お前の父上の承認を得た」
声は簡潔だった。いつもの、無駄のない言葉。
「だが、最後に決めるのはお前だ」
セシリアの心臓が跳ねた。
指先が震えた。だが足は動かなかった。逃げる気もなかった。
「何を決めるのですか」
わかっていた。わかっているのに聞いた。この人の口から、もう一度聞きたかった。
レオンハルトの目がセシリアを真っ直ぐに見た。
「俺の傍にいてくれるか」
一拍の間があった。
「これは命令ではない」
セシリアの呼吸が止まった。
命令ではない。
かつてこの人は「命令だ」と言った。「無理をするな」と。「留守を頼む」と。いつも命令の形で、セシリアを守ってきた。
今、その人が「命令ではない」と言った。
命令なら従うだけでいい。だが命令ではないなら、自分の意思で答えなければならない。この人はそれを求めている。セシリアの選択を。
涙が溢れた。
頬を伝い、顎を伝い、落ちた。止められなかった。止める必要もなかった。
「はい」
声は震えていた。小さかった。だが、部屋の隅まで届く声だった。
レオンハルトの目が揺れた。唇が微かに開き、閉じた。喉が動いた。
右手がゆっくりと上がり、セシリアの手に向かって伸びた。
セシリアの手を取った。
初めてだった。庭園では、セシリアから頬を寄せた。山道では、段差を越えるための一瞬だった。
今回は違った。レオンハルトが自分から、セシリアの手を取った。
そっと。壊れ物に触れるように。硬い指先が、セシリアの指を包んだ。
温かかった。
セシリアは涙の滲む目で、繋がれた手を見た。大きな手だった。剣を握る手。書類を捌く手。約束を守り続けてきた手。
その手が、今、自分の手を握っている。
マルガレーテが客間の隅で、顔を伏せていた。両手で口元を押さえ、肩が小さく震えていた。声は出さなかった。ただ、涙だけが静かに流れていた。
窓の外から、春の風が吹き込んでいた。
中庭の木々が揺れ、花びらが一枚、開いた窓から客間に舞い込んできた。
セシリアはレオンハルトの手を握り返した。
強く。確かに。
この手を、もう離さない。




