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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第2章

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第9話「父と公爵」

レオンハルトが、ヴァイスフェルト侯爵家の王都別邸の門をくぐった。


告白の翌々日の朝だった。セシリアが自分の答えを整理するための一日を挟み、今日、レオンハルトはフリッツのもとを正式に訪れた。


近衛二人が門の外に控えた。レオンハルトは一人で別邸に入った。深い紺色の上着に、公爵家の家紋が入った留め具。王都での正装だった。


セシリアは二階の客間にいた。マルガレーテが隣に座っている。


窓の外に、レオンハルトが門を入る姿が見えた。背筋の伸びた歩き方。いつもと変わらない。だが今日のその足取りには、辺境で見る時とは違う重さがあった。


「お嬢様、お茶をお持ちしましょうか」


マルガレーテの声は穏やかだった。


「……いいえ。今は何も入らないわ」


セシリアの手は膝の上で組まれていた。指先が冷えていた。


昨日は一日、自分の答えを確かめるために使った。庭園でのレオンハルトの言葉を何度も反芻し、自分の胸の中にあるものを一つ一つ確かめた。


答えは、もう出ていた。庭園で涙を流した瞬間に、出ていた。一日かけたのは、その答えを自分の言葉にするための時間だった。


階下から、書斎の扉が開く音が聞こえた。


フリッツの書斎は、窓から午前の光が差し込んでいた。


机の手前に椅子が一脚用意されている。だがレオンハルトは座らなかった。フリッツの机の前に立ち、姿勢を正した。


フリッツは椅子に座ったまま、レオンハルトを見上げた。


公爵と侯爵。身分上はレオンハルトが上位だった。だが今日、レオンハルトは娘の父親の前に立つ一人の男だった。その姿勢が、言葉より先にそれを伝えていた。


「フリッツ侯爵。本日は一つ、お願いがあって参りました」


レオンハルトの声は敬語だった。公の場での口調。だが、その奥にある硬さは、儀礼とは別のものだった。


フリッツは顎を引いた。


「聞こう」


「令嬢を伴侶として迎えたい」


短かった。飾りのない、直截な言葉だった。


沈黙が落ちた。書斎の時計が秒を刻む音だけが響いた。


フリッツの表情は動かなかった。政治家の顔だった。


「理由を聞こう」


「領地に必要な人材だから、ではない」


レオンハルトの声が、わずかに低くなった。


「この人でなければならないからだ」


フリッツの目が、レオンハルトの顔を射貫くように見た。数秒の沈黙があった。


やがて、フリッツが口を開いた。


「公爵家と侯爵家の縁組は、王家の均衡に関わる。宮内省への届出、王家への事前報告が必要だ。手続きは複雑で、時間もかかる」


政治家の声だった。事実を並べている。


「承知しております。王家への事前報告は、私自身が行います」


「フリッツ侯爵の助言を仰ぎたい」とレオンハルトは付け加えた。公爵が侯爵に助言を求める。身分上は異例だが、娘の父親に対する敬意として、その言葉は自然だった。


フリッツは椅子の背にもたれた。


「もう一つ聞く」


声の調子が変わった。政治家の声ではなかった。


「娘が辺境で幸せになれる保証はあるか」


父の声だった。


レオンハルトは沈黙した。


長い沈黙だった。書斎の時計が三つ、四つと音を刻んだ。


「保証はできない」


レオンハルトの声は静かだった。


「だが約束はする」


フリッツの目が、わずかに揺れた。


沈黙が、さらに長く続いた。


やがて、フリッツの唇が動いた。


「……お前の父親にも、同じことを言ったことがある」


低い声だった。過去を手繰るような、遠い声だった。


レオンハルトの目が揺れた。肩が一瞬強張り、すぐに戻った。五年前に亡くした父のことを、この人の口から聞くとは思っていなかった。


フリッツは机の上に目を落とした。数秒の後、顔を上げた。


「よかろう」


声は静かだった。だがその一言には、政治家としての判断と、父親としての決断の両方が込められていた。


「ただし、娘が頷くまでは何も決まらん」


レオンハルトは深く一礼した。


「承知しております」


二階の客間で、セシリアは膝の上の手を握りしめていた。


壁の向こうの声は聞こえなかった。書斎は一階の奥にある。どれほど耳を澄ませても、言葉は届かない。


マルガレーテが席を立った。


「少し、様子を見て参ります」


セシリアが止める前に、マルガレーテは部屋を出ていた。


一人になった客間で、セシリアは窓の外を見た。春の陽が中庭を照らしている。木々の葉が風に揺れ、光の斑が石畳の上で踊っていた。


時間がどれほど経ったかわからなかった。


扉が開いた。マルガレーテが戻ってきた。


その顔が、赤かった。目が潤んでいた。だが、笑っていた。


「お嬢様」


「何があったの」


「公爵様が笑っていらっしゃいます」


セシリアの目が見開かれた。


「笑っている? レオンハルト様が?」


マルガレーテは頷いた。


「書斎の扉の隙間から、ほんの一瞬だけ。口元をわずかに緩めておいでで。わたしが見たのは初めてです」


セシリアは言葉を失った。


あの人が笑っている。あの、冬の湖面のような目をした人が。


胸の奥が震えた。熱いものが込み上げてきた。


マルガレーテがセシリアの隣に座り、手を取った。


「大丈夫ですよ、お嬢様」


その一言で、セシリアの目から涙がこぼれた。堪えようとしなかった。堪える必要がなかった。


廊下に足音が聞こえた。


セシリアは急いで目元を拭った。マルガレーテがハンカチを渡し、素早く涙の跡を整えた。


客間の扉が開いた。


レオンハルトが入ってきた。


セシリアは立ち上がった。レオンハルトの顔を見た。いつもの無表情だった。だが、目の奥に、庭園で見たのと同じ光があった。


レオンハルトはセシリアの前に立った。


「お前の父上の承認を得た」


声は簡潔だった。いつもの、無駄のない言葉。


「だが、最後に決めるのはお前だ」


セシリアの心臓が跳ねた。


指先が震えた。だが足は動かなかった。逃げる気もなかった。


「何を決めるのですか」


わかっていた。わかっているのに聞いた。この人の口から、もう一度聞きたかった。


レオンハルトの目がセシリアを真っ直ぐに見た。


「俺の傍にいてくれるか」


一拍の間があった。


「これは命令ではない」


セシリアの呼吸が止まった。


命令ではない。


かつてこの人は「命令だ」と言った。「無理をするな」と。「留守を頼む」と。いつも命令の形で、セシリアを守ってきた。


今、その人が「命令ではない」と言った。


命令なら従うだけでいい。だが命令ではないなら、自分の意思で答えなければならない。この人はそれを求めている。セシリアの選択を。


涙が溢れた。


頬を伝い、顎を伝い、落ちた。止められなかった。止める必要もなかった。


「はい」


声は震えていた。小さかった。だが、部屋の隅まで届く声だった。


レオンハルトの目が揺れた。唇が微かに開き、閉じた。喉が動いた。


右手がゆっくりと上がり、セシリアの手に向かって伸びた。


セシリアの手を取った。


初めてだった。庭園では、セシリアから頬を寄せた。山道では、段差を越えるための一瞬だった。


今回は違った。レオンハルトが自分から、セシリアの手を取った。


そっと。壊れ物に触れるように。硬い指先が、セシリアの指を包んだ。


温かかった。


セシリアは涙の滲む目で、繋がれた手を見た。大きな手だった。剣を握る手。書類を捌く手。約束を守り続けてきた手。


その手が、今、自分の手を握っている。


マルガレーテが客間の隅で、顔を伏せていた。両手で口元を押さえ、肩が小さく震えていた。声は出さなかった。ただ、涙だけが静かに流れていた。


窓の外から、春の風が吹き込んでいた。


中庭の木々が揺れ、花びらが一枚、開いた窓から客間に舞い込んできた。


セシリアはレオンハルトの手を握り返した。


強く。確かに。


この手を、もう離さない。

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