第7話「王都再び」
王都の城壁が、朝靄の向こうに浮かんでいた。
七日間の馬車旅を経て、見慣れた石の輪郭が視界に入った瞬間、セシリアの胸に複雑なものが過ぎった。懐かしさではなかった。緊張でもなかった。前回この城壁を見た時とは、自分の中にあるものが違っていた。
馬車がゆっくりと城門をくぐった。石畳の振動が車輪を伝って体に響く。窓の外を、王都の街並みが流れていく。
向かいの席で、レオンハルトが腕を組んだまま目を閉じていた。旅の間、ほとんどそうしていた。だが城門を抜けた瞬間に目を開け、窓の外を一瞥した。
「着いたか」
短い一言だった。レオンハルトにとって王都は、報告と手続きを済ませる場所でしかない。その簡潔さが、今のセシリアにはどこか頼もしかった。
ヴァイスフェルト侯爵家の王都別邸に到着したのは、昼前だった。
レオンハルトは王家への国境情勢報告のため、到着後すぐに王城へ向かった。近衛二人を従え、馬車を乗り換えて発つ。セシリアに一言、「夕刻には戻る」とだけ告げた。
別邸の玄関に立ったセシリアを、見覚えのある姿が迎えた。
フリッツ・ヴァイスフェルトが、書斎から廊下に出てきていた。
「父上」
セシリアは深く一礼した。侯爵令嬢として、家長への正式な礼。
フリッツはセシリアの顔を見た。数秒の沈黙があった。
「……大きくなったな」
低い声だった。感情を押し込めた、父の声だった。
セシリアは顔を上げた。父の目が、娘の顔を確かめるように動いていた。辺境に発った日と同じ眼鏡の奥の目。だがその目に映る娘は、あの日とは違っているはずだった。
「おかげさまで、元気にしております」
「聞いている。商談の成功も、発酵食品の完成も。書簡では伝わらんことが、顔を見ればわかる」
フリッツは背を向け、書斎に戻った。セシリアはその後に続いた。マルガレーテが廊下に控えた。
書斎の扉が閉まった。
フリッツは机の前に立ち、振り返った。先ほどまでの穏やかさが消え、政治家の目になっていた。
「公爵殿はお前をどう思っている」
前置きはなかった。父らしい直截さだった。
セシリアの呼吸が、一瞬詰まった。
「……どう、と申しますと」
「そのままの意味だ。公爵殿の意思が知りたい。お前の気持ちは知っている」
セシリアの指先が冷えた。父は知っていた。書簡のやり取りから読み取ったのか、それとも娘の顔を見た瞬間にわかったのか。
「だが、公爵家と侯爵家の縁組は政治的にも大きい。公爵殿の意思が明確でなければ、父として動けん」
フリッツの声は静かだった。娘を追い詰めるつもりはない。だが、政治家として事実を並べている。
公爵家と侯爵家。その縁組は王家の均衡にも関わる。宮内省への届出、王家への事前報告。手続きは複雑で、両家の家長の意思が揃わなければ始まらない。
「お前の気持ちは知っている」と父は言った。
セシリアは唇を噛んだ。自分の気持ちを父に見透かされていることへの恥ずかしさと、それを認めなければならない痛みが同時に押し寄せた。
「私から確かめます」
声は小さかった。だが、震えてはいなかった。
フリッツの目が、わずかに緩んだ。政治家の顔の下に、父の顔が一瞬だけ覗いた。
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。
翌日、ヴィクトルとの正式契約の場が設けられた。
王都の商業区にある商館の応接間。前回の商談と同じ場所だった。だが今回は、セシリアが主導する形で条件が提示された。
ヴィクトルは向かいの席で、穏やかな笑みを浮かべていた。書類を広げ、最終条件の確認に入る。
「定期的な王都訪問の件ですが」
セシリアは帳面を開いた。
「辺境に拠点を置いたまま、必要に応じて王都へ出向く形でお願いしたいと考えております。常駐ではなく、出荷の節目と市場の動向に合わせた不定期の訪問です」
ヴィクトルの目が、わずかに細くなった。
「なるほど。辺境の生産管理を維持しながら、市場との接点も確保する。……合理的ですね」
セシリアは頷いた。
この条件は、事業の合理性に基づいている。だが、辺境を離れないという選択の裏に、合理性だけではない理由があることを、セシリアは自覚していた。
ヴィクトルもまた、それに気づいているようだった。
契約書の文言を一つ一つ確認し、修正を加え、双方が合意した。ヴィクトルが署名し、セシリアが公爵家の代理として署名した。
ペンを置いた後、ヴィクトルが小さく笑った。
「あなたには敵わない」
声は穏やかだった。商人としての敗北宣言ではなかった。セシリアの意思の硬さに対する、計算を超えた敬意のようなものが、その一言に滲んでいた。
「辺境を離れないのは、事業のためだけではないのでしょう」
ヴィクトルの目が、一瞬だけ真剣になった。笑みの奥にある目が、初めてセシリアを真っ直ぐに見ていた。
セシリアは答えなかった。答える必要はなかった。
ヴィクトルは頷き、笑みを戻した。
「良い取引です。今後ともよろしくお願いいたします、セシリア嬢」
「こちらこそ、ヴィクトル様」
商館を出た時、午後の陽が石畳を照らしていた。前回と同じ光だった。だが、隣を歩く自分の足取りは、あの時より確かだった。
夜会は、王都の侯爵家の屋敷で開かれた。
セシリアがレオンハルトと共に会場に入った。
前回の夜会と同じように視線が集まった。辺境公爵と、その傍らに立つ侯爵令嬢。囁きが波のように広がる。
だが今回、セシリアの足は止まらなかった。背筋を伸ばし、真っ直ぐに歩いた。
レオンハルトが隣を歩いていた。
前回は、半歩前にいた。セシリアの前に立ち、視線を遮るように。
今夜は違った。レオンハルトはセシリアの横に並んでいた。
セシリアはその変化に気づいた。
「レオンハルト様、今日は前を歩かれないのですね」
声は軽かった。だが、心臓は速く打っていた。
レオンハルトは前を向いたまま、短く答えた。
「……視線を遮る必要がなくなった。お前は一人で立てる」
セシリアの心臓が、大きく跳ねた。
呼吸が浅くなった。次の言葉が出なかった。喉の奥が詰まり、目の奥が熱くなった。
レオンハルトも黙った。
二人は並んで歩いた。沈黙のまま、会場の中を進んだ。言葉は何もなかった。だがその沈黙の中に、声よりも確かなものがあった。
セシリアの後方で、マルガレーテが目を伏せた。睫毛が濡れていた。唇を引き結び、一歩一歩、主人の後ろを歩いた。
レオンハルトが「一つ、約束がある」と言いかけた。だが会場の奥から、知人の貴族が声をかけてきた。レオンハルトは言葉を止め、そちらに対応した。
約束。その一語が、セシリアの胸に残った。
続きは、まだ聞けていない。
会場の隅に、ギルベルト・ランツァーがいた。
壁際の柱に背を預け、杯を手に持ったまま動かずにいた。
セシリアの姿が見えた。レオンハルトの隣を、並んで歩いている。
前にこの場所でセシリアを見た時、レオンハルトは半歩前にいた。セシリアを庇うように、視線を遮るように。
今夜は横に並んでいた。
そしてセシリアは、一瞬もたじろいでいなかった。背筋を伸ばし、視線を正面に据え、堂々と歩いていた。あの頃の、壁際で微笑みを作って立ち尽くしていた人とは、別人のようだった。
ギルベルトの指が、杯の縁を握りしめた。
自分がかつて言った言葉が、頭の奥で響いた。
「強い君ならわかるだろう」
何度も言った。彼女の強さに甘えて、彼女の痛みを見なかった。強いから大丈夫だと、自分に都合よく信じた。
違った。
彼女は最初から強かった。だがその強さは、自分のために使われることはなかった。自分が、使わせなかったのだ。
ギルベルトは杯を置いた。中身には口をつけていなかった。
会場を出た。
夜の通りを一人で歩いた。従者が後ろからついてきたが、声はかけなかった。
石畳を踏む靴音だけが響いていた。
あの人は変わったのではない。あの人は最初からそうだった。変われなかったのは、自分の方だ。
ギルベルトは足を止め、夜空を見上げた。
春の月が、薄い雲の隙間から静かに光っていた。




