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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第2章

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第6話「解けない言葉」

――この人は、何を言おうとしているのだろう。


セシリアは執務室の窓辺に立ち、中庭の向こうを見つめていた。


レオンハルトが国境から帰還して数日が経っていた。避難民は村に戻り始め、家畜の補填と防衛体制の再構築が進められている。城館には日常が戻りつつあった。


だが、新たな問題が浮上していた。


国境情勢の報告を王家に送る必要がある。隣国の辺境伯が例年を超える規模で兵を動かした事実は、辺境公爵の判断だけで処理できる範囲を超えていた。レオンハルト自身が王都に赴き、王家に直接報告する可能性が出てきている。


同時に、ヴィクトルとの事業提携の正式契約も王都で行う必要があった。書面のやり取りだけでは詰めきれない条件が残っている。


セシリアは帳面を抱えたまま、執務室の扉を叩いた。


「入れ」


レオンハルトは机に向かっていた。国境の報告書と、ヴィクトルとの契約に関する書類が、左右に分けて積まれている。その両方を同時に処理しなければならない状況が、机の上にそのまま表れていた。


「発酵食品の量産第一弾の工程表をお持ちしました。それと、ヴィクトルの契約書面で未確認の項目が三つ残っております」


「ああ」


レオンハルトは工程表を受け取り、目を通した。数字を追う目の動きはいつもと同じだったが、その合間に国境の報告書に視線が戻る。二つの課題が、この人の中でせめぎ合っている。


「王都に行く必要があるかもしれん」


レオンハルトの声は平坦だった。独り言のようでもあり、セシリアに向けた言葉のようでもあった。


「国境の件は書面だけでは不十分だ。王家への直接報告が要る。ヴィクトルとの契約も、同時に片がつく」


セシリアは頷いた。合理的な判断だった。一度の王都行きで、二つの案件を処理できる。


レオンハルトが報告書から目を上げた。


セシリアを見た。


「王都に同行するか、領地に残るか。お前が決めろ」


声は簡潔だった。いつもの、判断を委ねる口調。領地の運営に関わる決定を、セシリアの裁量に任せる。これまでもそうだった。


だが、今回は違った。


セシリアの胸の中で、その言葉が別の形に響いた。


王都に同行するか。領地に残るか。


業務の判断だ。事業の契約のために自分が王都に行くべきか、それとも量産体制の立ち上げのために領地に残るべきか。どちらにも合理的な理由がある。


だが、「お前が決めろ」の一言が、業務の枠を超えて胸に落ちた。


この人は、自分にどうしてほしいのだろう。


一緒に来てほしいと言えないから、「お前が決めろ」と言っているのだろうか。それとも本当に、業務上の判断を委ねているだけなのか。


セシリアにはわからなかった。


この人の言葉は、いつも短い。感情が滲むのは、言葉ではなく、行動の中にだけ。山道で手を差し伸べた時も、巡視から帰還した時に真っ先に自分を見た時も、この人は何も言わなかった。


だから、「お前が決めろ」が合理的な委任なのか、それとも不器用な人の精一杯の問いかけなのか、言葉だけでは判断がつかない。


セシリアは帳面を膝の上で握りしめた。


王都に行く合理的な理由はあった。ヴィクトルとの契約を自分の手で仕上げること。市場の反応を直接確認すること。事業の対外的な確立のために、自分が同席する意味は大きい。


だが、辺境を離れることへの抵抗は、前に感じた時よりもさらに強くなっていた。


量産体制の立ち上げは、まだ初期段階だ。自分がいなければ作業場の管理に支障が出る。領民に手順は教えてあるが、判断が必要な場面では自分が指示を出さなければならない。


それは事実だった。だが、それだけが理由ではないことを、セシリアはもう自覚しかけていた。


この場所を離れたくないのは、仕事があるからだけではない。


この人の傍を離れたくない。


その認識が、胸の奥で静かに輪郭を結び始めていた。名前をつけるには、まだ早い。だが、もう目を逸らせない場所まで来ていた。


沈黙が長くなっていた。


レオンハルトは何も言わず、セシリアの答えを待っていた。書類に目を落としてはいたが、ペンは動いていなかった。


「ご一緒いたします」


セシリアの声は、自分が思ったよりも落ち着いていた。


その瞬間、レオンハルトの手が書類の上で止まった。


ペンを持ったまま、指が微かに硬直した。一秒にも満たない、ごく短い停止だった。すぐにペンが動き始め、何事もなかったように書類に文字を書き始めた。


だがセシリアは、その一瞬を見逃さなかった。


「レオンハルト様、今……」


「何でもない。準備を進めろ」


声は平坦だった。だがペン先の動きが、ほんの少しだけ速かった。


セシリアは「承知いたしました」と答え、執務室を辞した。


自室に戻ると、マルガレーテが旅支度の準備を始めていた。


「お嬢様、王都へいらっしゃるのですね」


「ええ。ヴィクトル様との契約の件で」


「それだけですか」


マルガレーテの声が、穏やかに響いた。問い詰める調子ではなかった。ただ、知っている人の声だった。


セシリアは答えなかった。


マルガレーテは微笑み、衣装箱を開けた。


「公爵様は、お嬢様に来てほしかったのですよ」


断言だった。推測ではなく、確信の込もった声だった。


「なぜそう思うの」


「あの方が判断を人に委ねることは、ほとんどありません。領地のことも、国境のことも、ご自分で決められる方です。それなのにお嬢様にだけ『お前が決めろ』とおっしゃる。自分で決められないからではありません。お嬢様の口から聞きたいのです」


セシリアは窓辺に立った。


夜の辺境は暗かった。だが、空の端に薄い月が出ていた。


あの人は、言わないのではない。言えないのだ。


感情を「合理的判断」に言い換える癖。好意を行動でしか示せない不器用さ。それはこの人の弱さではなく、この人のやり方だった。


山道で手を差し伸べたこと。巡視から戻った瞬間に自分を見たこと。「判断は急ぐな」と言った時の声の揺れ。そして今日、「ご一緒いたします」と答えた瞬間に止まった手。


全て、言葉ではなかった。全て、行動だった。


セシリアはその「行動の言葉」を、初めて意識的に読み取った自分に気づいた。


以前は気づけなかった。気づこうとしなかった。自分の中にある感情に名前をつけることが怖くて、この人の行動の意味を見ないようにしていた。


今は違う。


見えるようになった。この人の不器用さが、何を包んでいるのかが。


その不器用さに、胸が温かくなった。


「マルガレーテ」


「はい、お嬢様」


「王都に着いたら、父上にお手紙を出しましょう。到着の日程をお知らせしないと」


「はい。フリッツ様もお喜びになるでしょう」


マルガレーテが便箋と封蝋を用意した。セシリアは机に向かい、父への書簡を書き始めた。


ペンを走らせながら、ふと耳に入った音があった。


廊下の向こうから、使用人の足音。そして、かすかな声。


「公爵様、旅支度のお荷物ですが、セシリア嬢の防寒具はどちらを」


近衛の声だった。旅の準備について確認しているらしい。


「厚い方だ。山越えの街道は夜冷える」


レオンハルトの声が聞こえた。短く、事務的な指示。


セシリアの手が止まった。


防寒具を、自分で選んでいる。


使用人に任せればいいことを、レオンハルトが自分で指示している。セシリアのための防寒具を。


マルガレーテもその声を聞いていた。セシリアの方を見て、何も言わなかった。ただ、口元がかすかに緩んでいた。


セシリアは便箋に目を戻した。


文字がにじんで見えた。涙ではなかった。ただ、胸が詰まっていた。


ペンを置き、窓の外を見た。


春の夜だった。辺境の空に、薄い月が架かっている。凍てついた大地は少しずつ溶け、あちこちに緑の芽が見える季節になっていた。


あの人は、言えないのだ。


だから行動で示す。防寒具を選び、手を差し伸べ、約束を守り、真っ先に自分を見る。


その全てが、この人の言葉だった。


セシリアはペンを取り直し、父への書簡を書き終えた。封蝋を押し、マルガレーテに渡した。


「明日、早馬で」


「はい、お嬢様」


寝台に入り、目を閉じた。


暗闇の中で、レオンハルトの手が書類の上で止まった瞬間を思い出した。


あの一瞬の停止が、この人の全てだった。


言葉にならない感情が、あの指先に宿っていた。


それを読み取れるようになった自分が、少しだけ誇らしかった。


眠りに落ちる前に、もう一つだけ思った。


王都で、この人の隣に立つ。


今度は、自分もちゃんと伝えよう。何を、とはまだわからない。だが、このままではいけないことだけは、わかっていた。

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