第5話「剣と盾」
五年前、この城館の主は病の床にあったという。
セシリアがそれを知ったのは、レオンハルトが国境の防衛に発った朝だった。
城館の廊下で、古参の使用人エルマーともう一人の使用人がすれ違いざまに言葉を交わしていた。
「公爵様が出られた。五年前を思い出すな」
「あの時は先代が倒れて、城館に主がおらんかった。若様が戻った時にはもう……」
声が小さくなり、二人はセシリアに気づいて口を閉じた。エルマーが軽く頭を下げ、足早に去っていった。
セシリアは廊下に立ったまま、その言葉を胸の中で反芻した。
五年前。レオンハルトが二十歳で家督を継いだ年。父を病で亡くした年。その時もこの城館は主不在だったのだと、使用人たちの短い会話が教えてくれた。
出発は早朝だった。
レオンハルトは近衛二人を従え、国境付近の防衛に向かった。家畜を奪われた村の状況確認と、隣国の辺境伯の兵への対応。出発前、レオンハルトはセシリアの元を訪れた。
城館の玄関広間で、セシリアはレオンハルトと向かい合った。マルガレーテが後方に控えている。
「留守を頼む」
短い言葉だった。いつもと変わらない簡潔さ。だがその目は、セシリアの顔を真っ直ぐに見ていた。
「承知いたしました。お気をつけて」
セシリアは一礼した。声は落ち着いていた。
レオンハルトは頷き、踵を返した。外套の裾が風に翻り、門を出ていく。馬蹄の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
胸の奥に、冷たいものが差した。
不安の正体は、もうわかっていた。「領地の主がいない不安」ではない。あの人がいない不安だ。
だが、今はそれを脇に置く。やるべきことがある。
国境付近の村から、避難してきた領民が城館に到着したのは、その日の午後だった。
家畜を奪われた農家が数世帯。年寄り、女、子供が馬車に揺られてきた。男たちの一部は村に残り、被害の確認を続けているという。
セシリアは作業場の帳面を閉じ、城館の広間に向かった。
避難民たちの顔は疲弊していた。長い移動と、突然の災禍。子供がぐずり、年嵩の女が不安げに周囲を見回していた。
「まず温かいものを。燻製の備蓄から出しましょう。発酵食品を溶いた汁物も」
セシリアは厨房の使用人に指示を出した。燻製の肉を薄く切り、根菜と共に煮込む。発酵食品を加えれば、深い味のある汁物になる。冷えた体を温めるには十分だった。
帳面を広げ、備蓄の残量を確認した。燻製と発酵食品の在庫。通常の領地運営に必要な分と、避難民への配分。数字を頭の中で組み替える。前世の記憶にある食料管理の知識が、ここで役に立った。余裕は多くないが、数日分の食料は確保できる。
使用人たちが動き始めた。セシリアの指示に従い、食料を運び、寝床を整え、避難民を落ち着かせていく。
だが、それだけでは足りなかった。
避難民の受け入れは一時的な対応だ。村の復旧、家畜の補填、今後の防衛体制。それらはレオンハルトが戻ってから決める事柄だ。セシリアにできるのは、今この瞬間の食料と寝床を確保すること。
それはわかっていた。
わかっていたのに、手が止まらなかった。
帳面の数字を何度も確認し、翌日の食事の献立を組み、備蓄の配分を細かく調整した。日が暮れても作業場と厨房の間を行き来し、マルガレーテが声をかけるまで食事を取らなかった。
「お嬢様、少しお休みになってください」
マルガレーテの声は穏やかだったが、その目は真剣だった。
「もう少しだけ。明日の分の配分をまとめてしまいたいの」
「お嬢様」
マルガレーテの声が、強くなった。
「またあの顔です」
セシリアの手が止まった。
あの顔。辺境に来て間もない頃、発酵食品の試作に没頭し、食事を忘れ、眠りを削った時の顔。レオンハルトに「無理をするな。命令だ」と言われた、あの時の。
「私は大丈夫。領民の方々が落ち着くまでは」
「大丈夫ではありません」
マルガレーテがセシリアの帳面をそっと閉じた。
「お嬢様は今、役に立たなければいけないと思っていらっしゃるでしょう」
声は静かだった。十年仕えた侍女の目が、主人の内側を真っ直ぐに見つめていた。
セシリアは言葉を失った。
図星だった。
レオンハルトがいない。領地に危機が迫っている。自分にできることは限られている。だからこそ、できることを全力でやらなければ。ここにいる意味がなくなる。
その焦りが、体を動かし続けていた。
マルガレーテがセシリアの手を取った。冷えた指先を、温かい手が包んだ。
「お嬢様。あなたは役に立つから大切なのではありません」
セシリアの呼吸が止まった。
視界がにじんだ。それが先に来た。言葉の意味を頭が理解するより先に、涙が目の縁に溜まった。
「公爵様もきっとそう思っておいでです。あの方がお嬢様を見る目を、わたしは毎日見ています」
マルガレーテの声は穏やかだった。だが、その奥に揺るがない確信があった。
セシリアは唇を噛んだ。
涙がこぼれそうだった。こぼれたら、止められない気がした。
「……ありがとう、マルガレーテ」
声が震えた。小さく、かすかに。
マルガレーテは微笑み、セシリアの手をそっと離した。
「今夜はお休みください。明日、わたしが朝の配分を確認いたしますから」
セシリアは頷いた。頷くことが精一杯だった。
寝台に入っても、マルガレーテの言葉が胸の中で響いていた。
役に立つから大切なのではない。
信じたかった。その言葉を、心の底から信じたかった。
だが、まだ完全には届かない。三年間、自分の価値を疑い続けた日々が、体の奥に残っている。レオンハルトの「お前がいなければ困る」という言葉は嬉しかった。だがそれは、「役に立つから」の延長ではないのか。
違う、とマルガレーテは言った。
あの方がお嬢様を見る目を、わたしは毎日見ている、と。
目を閉じた。暗闇の中で、レオンハルトの顔を思い浮かべた。冬の湖面のように冷たい目。だがその目が自分を見る時の、ほんのわずかな温度の変化。
信じたい。
まだ完全には信じられない。でも、信じたいと思えるようになった。
それだけで、今は十分だった。
数日後の午後、城館の門前に馬蹄の音が響いた。
セシリアは避難民の食事の配分を確認していた。数日間の食料管理が功を奏し、避難民は落ち着いていた。子供たちが城館の中庭で走り回る声が聞こえるほどに。
馬蹄の音を聞いた瞬間、セシリアは手を止めた。
帳面を机に置き、城館の門に向かった。
なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。馬蹄の音だけでは、誰が戻ったのか判断できない。斥候かもしれない。商人の馬車かもしれない。
だが、足が勝手に動いた。
門の前に立った。
三頭の馬が、街道の向こうから近づいてくるのが見えた。先頭の馬に跨る長身の影。濃い灰色の外套。
レオンハルトだった。
セシリアの肩から、力が抜けた。自分でも気づかないうちに、肩に力が入っていたのだと知った。
レオンハルトが馬を降りた。
怪我はないようだった。だが、疲弊が見えた。目の下にわずかな隈があり、外套の裾に泥が跳ねていた。数日間、馬上と野営を繰り返していたのだろう。
レオンハルトの目が、門の前に立つセシリアを捉えた。
その瞬間、レオンハルトの肩の力が、目に見えて抜けた。
張り詰めていた背筋がほんの少しだけ緩み、顎の角度が僅かに下がった。外套の下で握られていた拳が開いた。
ほんの一瞬の変化だった。すぐにいつもの姿勢に戻り、近衛に馬の手綱を渡した。
だがセシリアは、その一瞬を見た。
この人は、自分の姿を見て安堵した。
その認識が胸に落ちた時、熱が広がった。
「……避難民は」
レオンハルトの声が聞こえた。いつもより柔らかい声だった。業務の確認だった。だが、その声の温度が違った。
「全員無事です。食料の備蓄で対応しました。お帰りなさいませ」
最後の一言は、業務の報告ではなかった。
セシリアの口から自然に出た言葉だった。辺境に来て初めて、この人にその言葉を伝えた。
レオンハルトの目が、一瞬揺れた。
睫毛が動き、瞳の奥に何かが光った。驚きとも、安堵とも違う、名前のない光だった。
「ああ」
一言だけ返して、レオンハルトは歩き出した。
その「ああ」の中に含まれた温度を、セシリアは聞いた。
低い声だった。短い言葉だった。だがその響きの中に、疲弊と安堵と、もう一つ別の何かが混じっていた。
セシリアの胸が熱くなった。
目が潤みそうになるのを堪えて、レオンハルトの背中を追った。
門の内側で、マルガレーテが二人の姿を見ていた。セシリアが門前で待っていたこと。レオンハルトが馬を降りた瞬間に肩の力を抜いたこと。「お帰りなさいませ」と言ったセシリアの声。「ああ」と答えたレオンハルトの声。
マルガレーテは何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んだ。




