第4話「約束の在処」
――この人は、何を考えているのだろう。
セシリアは執務室の椅子に座り、机の向こうのレオンハルトを見ていた。
ヴィクトルが発った翌日の午後だった。城館は静けさを取り戻し、作業場からは領民たちの声が遠くに聞こえている。マルガレーテが隣室に控え、廊下の奥に近衛が立つ。いつもの配置だった。
机の上に、ヴィクトルの最終提案をまとめた書類が広げられている。「公爵家から定期的に王都へ人を送る」という条件。品質管理と市場調査のための定期訪問。
セシリアは書類の数字を確認しながら、レオンハルトの言葉の端々に混じる硬さに気づいていた。
いつもの簡潔さは同じだった。だが、言葉と言葉の間の沈黙が、ほんの少し長い。声の温度が、ほんの少し低い。ヴィクトルが滞在していた三日間から続いている、あの微かな変化。
「この条件自体は悪くない。王都の市場を定期的に確認できれば、生産の精度が上がる」
レオンハルトの声は平坦だった。書類に目を落としたまま、事実を並べている。
「はい。輸送の効率化と、新たな販路の開拓にも繋がります」
セシリアは答えながら、レオンハルトの顔を見た。
視線が合わなかった。レオンハルトの目は書類の上にあった。いつもなら、セシリアが発言すれば一度は顔を上げる。それが今日はなかった。
セシリアの胸の中で、小さな不安が芽を出した。
「レオンハルト様」
「何だ」
「何かお気に召さないことがございましたか」
率直に聞いた。回りくどい聞き方はしなかった。この人には、真っ直ぐな問いが最も届く。辺境での日々で、それは学んでいた。
レオンハルトの手が、書類の上で一瞬止まった。
沈黙が落ちた。
一秒。二秒。三秒。
「……ない」
短い否定だった。声は変わらず平坦だった。
嘘だ。
セシリアにはわかった。この人が本当に何もない時は、「ない」とすら言わない。聞かれる前に次の話題に移る。わざわざ間を置いて否定するのは、そこに何かがある証拠だった。
だが、セシリアはそれ以上踏み込まなかった。
以前、レオンハルトの従者から聞いた言葉が胸にあった。「本人が話したいなら話す。聞き出すのは信頼ではない」。あの時のレオンハルトの姿勢は、今も変わっていない。
ならば、自分もそうする。
「承知いたしました」
セシリアは書類に目を戻した。
ヴィクトルの提案について、残りの条件を一つ一つ確認していった。レオンハルトは簡潔に応じ、修正すべき点を指摘した。事務的なやり取りが続いた。
だが、部屋の空気はいつもと違った。書類の上では合理的な議論が進んでいるのに、その下に、言葉にならない何かが沈んでいた。
王都への定期訪問。
セシリアの頭では、その合理性は理解できていた。発酵食品の完成品を市場に出す段階で、品質の確認と顧客の反応を直接見ることは重要だ。ヴィクトルの提案は、事業の成長にとって正しい選択だった。
そして、その訪問に最も適任なのは自分だと、頭ではわかっていた。発酵食品の製法を理解し、品質の判断ができ、商談の経験もある。他に適任者はいない。
だが、辺境を離れることへの抵抗が、想像以上に強かった。
もし自分がここを離れたら。
その考えが浮かぶたびに、胸の奥が冷たくなった。領地の運営は家臣団がいる。作業場の管理も、領民に手順は教えてある。自分がいなくても回る仕組みは、すでに作ってある。
では、なぜこれほど離れたくないのか。
セシリアは自分の中のその問いに、まだ答えを出せなかった。
会話の最後に、レオンハルトが不意に口を開いた。
「ヴィクトルの提案は悪くない」
書類をまとめながら、視線は紙の上にあった。
「だが、判断は急ぐな」
その声は穏やかだった。先ほどまでの硬さが、ほんの少しだけ緩んでいた。
セシリアの手が止まった。
判断を急ぐな。
事業の話だ。契約の条件を慎重に見極めろという、合理的な助言。それだけのはずだった。
だが、その一言の中に、事業とは別の何かを感じた。
何が、と聞かれれば答えられない。声の調子か。言葉を選ぶ間の微かな揺れか。あるいは、この人が「急ぐな」と言う時の、いつもとは違う柔らかさか。
セシリアは「承知いたしました」と答え、執務室を辞した。
廊下を歩きながら、胸の中であの声が反響していた。
自室に戻ると、マルガレーテが寝支度の準備を始めていた。
窓の外は暗く、春の夜風が冷たく吹き込んでいた。辺境の夜は、春が近づいてもまだ凍える。
セシリアは窓辺に立ち、暗い荒野を見つめた。
辺境に来てから、どれだけの時間が経っただろう。王都を発った日、馬車の窓から見えた灰色の景色。何もない土地だと思った。ここで自分に何ができるのかもわからなかった。
今は違う。
この作業場に、自分の仕事がある。この城館に、自分を必要としてくれる人たちがいる。この場所で、自分の力が形になっていく実感がある。
「私はここにいたい」
声に出したのは、無意識だった。
言ってから、自分の言葉に驚いた。唇が勝手に動いていた。
マルガレーテが毛布を整える手を止め、セシリアの方を見た。
「お嬢様、それはどういう意味の『いたい』ですか」
笑顔だった。穏やかで、どこか楽しそうな笑顔。
セシリアの顔に熱が上った。
「仕事の話です」
声が裏返った。自分でもわかるほど、はっきりと。
マルガレーテは「はい、はい」と笑い、毛布を整え続けた。それ以上は何も聞かなかった。
セシリアは窓から離れ、寝台に腰を下ろした。
仕事の話だ。ここにいたいのは、事業があるから。領地の経営を支える立場があるから。それ以外の理由なんて。
「判断は急ぐな」
レオンハルトの声が、頭の中で蘇った。
穏やかな声だった。あの一言を発する前の、ほんの一瞬の間。書類から目を上げなかったその横顔。
セシリアは毛布を引き上げ、目を閉じた。
あの声を反芻するたびに、胸の奥が温かくなった。温かくて、もどかしくて、名前のつけられない感覚だった。
ここにいたい。その言葉の本当の意味を、自分はまだわかっていない。わかりかけているのに、最後の一歩が踏み出せない。
眠りに落ちるまで、あの声が消えなかった。
翌朝、城館に急報が届いた。
セシリアが朝食の席についた時、レオンハルトはすでに執務室にいた。近衛の一人が廊下を早足で通り過ぎていった。
マルガレーテが情報を聞いてきた。
「国境付近の村から急使が来たそうです。隣国の辺境伯の兵が、例年より大規模に国境を越えて村の家畜を奪ったと」
セシリアの手が、茶杯の上で止まった。
レオンハルトが巡視の際に懸念していた事態だった。例年より早い小競り合い。兵の増員。段階的に緊張が高まっていた、その先にあるもの。
廊下の向こうから、レオンハルトの声が聞こえた。低く、鋭い。指示を出している声だった。普段の簡潔さは同じだが、そこに含まれる緊張の密度が違った。
セシリアは茶杯を置き、立ち上がった。
執務室に向かおうとして、足を止めた。国境の報告書は機密だった。内政助力者の立場で踏み込める領域ではない。
マルガレーテが隣に立ち、セシリアの顔を見た。
「お嬢様」
「わかっています」
セシリアは一度深く息を吸い、作業場に向かった。
自分にできることをする。それが、今この場所でセシリアに許された役割だった。
作業場に向かう廊下の途中で、辺境の取引先から最近届いた商人の書簡のことを思い出した。王都の噂話が末尾に添えられていた。「ランツァー伯爵家の嫡男は最近社交の場で元気がないようだ」と、一文だけ記されていた。
セシリアはその一文を思い出し、一瞬だけ足を緩めた。
だが、すぐに歩調を戻した。
過去は終わったこと。今の自分には、ここでやるべきことがある。
作業場の扉を開けた。
朝の冷気と、発酵食品の深い香りが混じった空気が、セシリアを迎えた。




