第3話「評価と温度」
セシリアは発酵食品の樽の蓋を開け、匙で中身をすくった。
ヴィクトル滞在二日目の朝だった。作業場には朝の冷気が残り、樽の表面にうっすらと結露がついている。
「この色の変化が、発酵が正しく進んでいる証拠です。仕込みから完成まで、色と匂いの推移を毎日記録しています」
セシリアが帳面を広げると、ヴィクトルは身を乗り出して数字の列に目を走らせた。
「日ごとの温度変化まで記録されているのですか。これは……素晴らしい管理だ」
ヴィクトルの声に、昨日と同じ穏やかさがあった。だが今日は、それに加えて熱が混じっていた。商人としての興味が、礼儀の皮を薄くしている。
「この精度で品質を維持できるなら、王都の市場でも安定供給が可能ですね。買い手が最も嫌うのは品質のばらつきですから」
「ええ。ですので量産の際にも、この記録方法を作業者全員に徹底させるつもりです」
ヴィクトルが頷いた。その目がセシリアの帳面から顔に移り、一瞬止まった。
「失礼ですが、セシリア嬢。こうした管理手法は、どなたかに学ばれたのですか」
セシリアの指が、帳面の縁で止まった。
「書物と、実地での試行錯誤です」
嘘ではなかった。だが全てでもなかった。前世の記憶から浮かんだ知識を、この土地の素材で試し続けた結果がこの帳面だった。それを正直に説明する術はない。
ヴィクトルはそれ以上追及しなかった。「なるほど」と軽く頷き、視線を樽に戻した。
作業場を出て、燻製の保管庫、塩の貯蔵室、乾燥棚を順に回った。マルガレーテがセシリアの後ろに控え、護衛騎士が少し離れて歩く。ヴィクトルは一つ一つの工程に質問を重ね、セシリアがそれに答えた。
「輸送中の温度管理が課題になりますが、木箱に乾草を詰めて断熱すれば、七日間の馬車輸送にも耐えうると見ています」
「七日間。辺境から王都までの所要日数と一致しますね。実に合理的だ」
ヴィクトルが感心したように言った。その横顔を見ながら、セシリアは不思議な感覚を覚えていた。
自分の知識と手腕を、正面から評価し、対等に議論できる相手。それは新鮮だった。領民たちは感謝してくれるが、商業の細部について議論できるわけではない。レオンハルトは提案を聞き、判断し、実行に移してくれる。だが商業の技術論を交わす相手ではなかった。
ヴィクトルとの会話には、知的な刺激があった。
その刺激を心地よいと感じる自分に、セシリアはわずかな違和感を覚えた。
能力を評価されることが嬉しい。それは自然なことだ。だが、その嬉しさの中に、何か引っ掛かるものがあった。言葉にできないまま、歩き続けた。
昼前、領地の外れにある山道を視察していた時だった。
発酵食品の原料となる豆の自生地を確認するため、作業場から馬で半刻ほどの場所まで来ていた。山道は石が多く、足場が悪い。
ヴィクトルがセシリアの隣を歩きながら、豆の収穫量と今後の生産計画について話していた。
「自生のものだけでは、量産には限界がありますね。計画的な栽培に切り替えるには畑の確保が——」
不意に、セシリアの足元の石が動いた。
段差に足を取られかけた瞬間、ヴィクトルが手を差し伸べた。自然な所作だった。山道で同行者に手を貸す、それだけの動作。
「お気をつけください」
セシリアは「ありがとうございます」と答え、その手を取ろうとした。
指先がヴィクトルの掌に触れかけた、その瞬間だった。
別の手が、セシリアの前に差し出された。
無言で。何の前触れもなく。
セシリアの目が上がった。
レオンハルトがそこにいた。
視察の同行を途中で切り上げたはずだった。執務室に戻ったと聞いていた。だが今、山道の上手に立ち、セシリアの前に手を出していた。
セシリアの動きが止まった。
ヴィクトルの手と、レオンハルトの手。二つが同時に目の前にあった。
一瞬の沈黙。
セシリアはレオンハルトの手を取った。
考えたわけではなかった。体が動いた。指がレオンハルトの掌に触れた瞬間、硬い手のひらの熱が伝わった。
レオンハルトはセシリアの手を引き、段差を越えさせた。
それだけだった。越えた瞬間に手を放し、何事もなかったように歩き出した。振り返りもしなかった。
セシリアは放された手をぼんやりと見下ろした。
指先にまだ、あの手の感触が残っていた。
無意識に、その手を握りしめた。
ヴィクトルは一歩引いた位置で、静かに微笑んでいた。何かを言う様子はなかった。その笑みの奥に何があるのか、セシリアには読めなかった。
マルガレーテはセシリアの斜め後ろを歩きながら、主人の握りしめた右手を見ていた。そして、その数歩前を無言で歩くレオンハルトの背中を見た。小さく息を吐いた。
午後、レオンハルトは執務室に戻った。
国境付近の斥候からの報告が届いていた。隣国の辺境伯が兵を増員しているという内容だった。
レオンハルトは報告書に目を通し、近衛に追加の斥候を出すよう指示した。
視察への同行は、途中で切り上げた。国境の報告が理由だった。少なくとも、そう自分に言い聞かせた。
机の上に、ヴィクトルとの商談に関する書類が残っている。セシリアがまとめた帳面の写しもあった。
レオンハルトは書類を手に取り、目を落とした。読み進めようとしたが、文字が頭に入らなかった。
山道でヴィクトルがセシリアに手を差し伸べた光景が、視界の奥にこびりついていた。
それ自体は何でもない。段差の多い山道で、同行者に手を貸す。当然の行為だ。
だが、あの瞬間に体が動いた。考えるより先に、自分の手をセシリアの前に出していた。
合理的な判断ではなかった。
レオンハルトは書類を机に戻し、窓の外を見た。国境の方角に、灰色の雲が低く垂れ込めていた。
夜。セシリアの部屋。
マルガレーテが寝支度の準備をしながら、いつもより一拍遅くセシリアの顔を見た。
「お嬢様」
「何かしら」
「今日の視察で、公爵様がお戻りになりましたね。執務室にいらっしゃるはずだったのに」
セシリアは髪を解きながら、鏡に映る自分の顔を見た。
「国境の報告が一段落したから、様子を見に来てくださったのでしょう」
「そうでしょうか」
マルガレーテの声が、柔らかくなった。
「わたしには、お嬢様がヴィクトル様と楽しそうにお話しされていたのが、面白くなかったように見えましたけれど」
セシリアの手が止まった。
鼓動が、一つ大きく跳ねた。
「まさか」
声は否定していた。だが、頬に熱が上った。鏡の中の自分の顔が、わずかに赤い。
マルガレーテは微笑んだ。それ以上は何も言わなかった。
レオンハルトが途中で戻ってきた理由。国境の報告が一段落したから。それが最も自然な説明だ。そうに決まっている。
だが、あの手のひらの温度が、まだ右手に残っている。
何事もなかったように手を放し、振り返りもせずに歩いたあの背中。あれが、レオンハルトのやり方だった。言葉ではなく、行動で。いつもそうだ。
もし、マルガレーテの言う通りだったなら。
その可能性を考えた瞬間、胸の奥が甘く痺れた。
セシリアは鏡から目を逸らし、髪を結い直した。手が震えていた。
「明日は滞在最終日ですね。ヴィクトル様との条件の詰めを仕上げなければ」
話題を変えた。意図的に、仕事の話に。
マルガレーテは「はい、お嬢様」と頷いた。その目が笑っていた。
翌朝、ヴィクトル滞在三日目。
レオンハルトがセシリアを執務室に呼んだ。
「ヴィクトルの最終提案を確認する。『公爵家から定期的に王都へ人を送る』という条件について、二人で詰めたい」
業務上の要請だった。ヴィクトルの提案を公爵家としてどう受けるか、事前にセシリアとすり合わせる。合理的な手順だ。
だが、普段のレオンハルトなら、こうした確認は翌朝に回す。日が落ちてから、わざわざセシリアを呼び出すことは珍しかった。
セシリアは「承知いたしました」と答え、帳面を手に執務室に向かった。
マルガレーテが隣室に控えた。
執務室の灯りが、夜遅くまで灯っていた。
翌朝、ヴィクトルは出発の支度を整え、城館の門前でセシリアに向き直った。
「三日間、大変お世話になりました。正式な契約書は王都で整えましょう」
一礼の後、ヴィクトルの笑みがわずかに深くなった。
「その際は、ぜひセシリア嬢にもお越しいただきたい」
セシリアは丁寧に頷いた。
「公爵閣下のご判断を仰いだ上で、お返事いたします」
「ええ。お待ちしております」
ヴィクトルが馬車に乗り込む前に、ふと足を止めた。
視線が遠くを見るように細められた。
「書物で学ばれたにしては、あまりに実践的だ」
小さな声だった。独り言のような呟き。セシリアに向けたものかどうかも曖昧な、静かな言葉だった。
セシリアの指先が、一瞬冷えた。
だがヴィクトルはすぐに表情を戻し、「では、また」と笑顔で一礼した。馬車の扉が閉まり、車輪が動き出した。
セシリアは門前に立ったまま、遠ざかる馬車を見送った。
あの呟きに、悪意は感じなかった。だが、自分の知識の出所に疑問を持った人間が現れたのは初めてだった。
答えを持たない問いが、胸の中に小さな棘として残った。




