第2話「商人の微笑」
「辺境の燻製が王都で評判だと聞きまして、ぜひ一度お目にかかりたいと」
穏やかな声が、執務室に響いた。
セシリアは机の向こう側に座る男を見た。
ヴィクトル・グレーヴェン。伯爵家の次男であり、王都で商会の経営に携わる人物。年の頃は二十代の後半だろうか。整った顔立ちに、人当たりの良い笑みを浮かべている。礼儀正しく、言葉遣いに淀みがない。
レオンハルトが執務机の上座に座り、腕を組んでいた。ヴィクトルの訪問を許可したのはレオンハルトだった。事前に届いた書面の内容を精査した上で、商談の席を設けた。
「グレーヴェン殿。提案の概要は書面で拝見した。改めて、口頭で聞こう」
レオンハルトの声は平坦だった。公爵として、商談の相手に対する定型の対応。
ヴィクトルは姿勢を正し、一礼した。
「ありがとうございます、公爵閣下。私どもの商会では、王都および近郊の市場に食料品を卸しております。辺境公爵領の燻製は、先日の取引で王都の商人の間でも話題になりました。加えて、発酵食品の開発も進んでいると伺っております」
セシリアの目がわずかに動いた。発酵食品のことまで把握している。完成の情報は、まだ王都に広く出回っていないはずだった。
「つきましては、燻製の大口取引に加え、発酵食品の完成後の販路確保、さらに交易路の拡充に関する提携をご提案いたします」
ヴィクトルが懐から書類を取り出し、机の上に広げた。数字が並んでいる。取引量、想定価格、輸送経路、商会側が負担する費用の内訳。
セシリアは書類に目を落とした。
数字は整っていた。整いすぎていた。
商会側が輸送費の大半を負担し、買い取り価格も市場の相場より高い。辺境公爵領にとって、極めて有利な条件だった。
「ヴィクトル様。一つ、伺ってもよろしいですか」
セシリアの声は丁寧だった。侯爵令嬢から伯爵家次男への言葉遣い。身分上はセシリアが上位だが、商談の相手として礼を失しない距離を保つ。
「もちろんです、セシリア嬢」
ヴィクトルの目がセシリアに向いた。穏やかな笑みのまま、視線は真っ直ぐだった。
「この条件ですと、商会側の利益率がかなり薄くなるように見受けられます。なぜこれほどの好条件を提示されるのですか」
ヴィクトルは一瞬、目を細めた。それは感心したような動きに見えた。
「さすがですね。ご指摘の通り、短期的な利益率は低く設定しております。ですが、辺境公爵領の特産品は市場に類似品がなく、長期的な独占供給が見込めます。先行投資として、初期の条件を優遇するのは商売の定石です」
論理は通っていた。商業的に筋が通る説明だった。
だが、セシリアの中に小さな引っ掛かりが残った。言葉にできない種類の違和感。この人の笑みの奥に、計算以外の何かがあるような。あるいは、計算しかないような。
判断がつかなかった。
レオンハルトは商談の間、ほとんど口を挟まなかった。腕を組み、ヴィクトルとセシリアのやり取りを無言で見ていた。
セシリアが質問をし、ヴィクトルが答える。条件を一つ一つ確認し、不明点を潰していく。セシリアの帳面には、確認済みの項目と未確認の項目が整然と書き分けられていった。
ヴィクトルはセシリアの質問に一つも詰まらなかった。全てに即答し、根拠となる数字を示した。交易に精通した人物であることは間違いなかった。
商談の大枠が固まった頃、日が傾き始めていた。
「本日のところは概要を確認いたしました。最終的な条件の詰めは、明日改めて」
セシリアがそう告げると、ヴィクトルは笑顔で頷いた。
「ありがとうございます。お時間をいただけて光栄です」
ヴィクトルが立ち上がり、レオンハルトに一礼した。
「公爵閣下、三日間の滞在をお許しいただき、重ねて御礼申し上げます」
「好きにしろ」
レオンハルトの返答は短かった。声の温度が、いつもより低い気がした。
セシリアはその声に違和感を覚えたが、商談の疲れのせいだろうと思った。
ヴィクトルが退室した後、使用人が宿舎への案内に立った。ヴィクトルの宿舎は城館の東棟に用意されていた。セシリアの部屋がある西棟とは、中庭を挟んで反対側だった。
午後の遅い時間、ヴィクトルは使用人の案内で領地の視察に出た。セシリアが同行し、作業場と燻製の工程、発酵食品の樽を順に見せた。マルガレーテがセシリアの後ろに控え、護衛騎士が少し離れて歩いた。
ヴィクトルは作業場の隅々まで目を配り、的確な質問を重ねた。
燻製に使う木材の種類。塩の産地と品質。発酵食品の仕込み期間と保管条件。一つ一つにセシリアが答え、ヴィクトルが頷く。
「あなたの手がけた事業は実に見事だ。この規模でこの完成度は、王都でもなかなかない」
ヴィクトルの声には率直な響きがあった。お世辞の色は薄く、実物を見た上での評価だった。
セシリアは「ありがとうございます」と答えた。胸の奥に、小さな温かさがあった。自分の仕事を正面から評価されることは、素直に嬉しかった。
ヴィクトルが足を止め、セシリアの方を向いた。
「取引の条件に一つ加えたいことがございます」
「何でしょうか」
「完成品の品質管理と市場調査のため、公爵家から定期的に王都へ人を送っていただきたいのです。市場の反応を直接確認し、次の生産に反映できれば、事業の精度は格段に上がります」
セシリアは眉をわずかに上げた。
提案としては合理的だった。生産者が市場を見る。当然の商業手法だ。だが、「公爵家から人を送る」という言い方に含みがあった。特定の誰か、ではなく、公爵家への提案という形を取っている。
「公爵閣下にお伝えし、判断を仰ぎます」
「ええ。お願いいたします」
ヴィクトルは笑みを浮かべた。目元は穏やかだった。だが、その笑みが目の奥まで届いているかどうか、セシリアには判断がつかなかった。
夜。
執務室にレオンハルトが一人で座っていた。
机の上には書類が広げられている。羽根ペンが右手にある。だが、ペン先は紙に触れていなかった。
ペンの軸を、指で弾いた。軽い音が執務室に響いた。
レオンハルトの目は書類に向いていた。だが、字を追っていなかった。
昼間の光景が、頭の中に残っていた。ヴィクトルがセシリアと並んで作業場を歩く姿。セシリアが質問に答え、ヴィクトルが頷く。二人の間に流れていた、対等な——商業の話が通じる者同士の空気。
ペンを置いた。
従者が茶を持って入ってきた。
「公爵様、夜の茶をお持ちしました」
レオンハルトは茶を受け取り、一口含んだ。
「ヴィクトルの宿舎は東棟にしたな」
「はい。セシリア嬢のお部屋とは反対側でございます」
「そうか」
それだけ言って、書類に視線を戻した。
ペンを取り直した。紙の上に文字を書き始めた。だが、最初の一画を引いたところで手が止まった。
数秒の後、レオンハルトは小さく息を吐き、ペンを走らせた。
執務室の灯りは、その夜遅くまで消えなかった。
王都。ランツァー伯爵邸。
ギルベルトは書斎の机の前に立っていた。
手に持っているのは、宮内省からの通達書だった。
ホーエンベルク男爵家に対する処分の確定通知。社交界への出入り禁止。王都屋敷の返上。リゼット・ホーエンベルクの領地蟄居。
文面を読み終えた後も、ギルベルトは通達書を手に持ったまま動かなかった。
リゼットとの関係が、完全に断たれた。
最後に会ったのは、あの日だった。男爵邸で問い質し、全てが嘘だったと知った日。あれ以来、一度も会っていない。手紙も来ない。来るはずもない。
通達書を机の上に置いた。
窓の外を見た。王都の屋根の向こうに、午後の空が広がっていた。
従者が書斎の扉を開けた。
「旦那様」
ギルベルトは振り返らなかった。
窓の外の空を見つめたまま、しばらく動かなかった。従者がもう一度「旦那様」と呼ぶまで、そこに立ち続けていた。




