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病弱な幼馴染の嘘がバレた日  作者: 月雅
第2章

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第1話「春を待つ土地」

雪解けの水が、岩肌を伝って落ちていた。


細い筋になった水が、地面に届く前に風に散る。その飛沫が朝の光を受けて、一瞬だけ銀色に光った。


セシリアは作業場の入口に立ち、その光景を眺めていた。


辺境の冬は長い。だが今、大地のあちこちで雪が後退し始めていた。凍りついていた地面の端に、泥の色が覗いている。その泥の中に、小さな緑が一つ、二つと頭を出していた。


芽だった。


「お嬢様、樽の温度を確認してまいりました」


マルガレーテが作業場の奥から歩いてきた。手に帳面を持ち、数字を読み上げる。


「昨晩から大きな変動はありません。このまま推移すれば、あと数日で最終工程に入れるかと」


「ありがとう、マルガレーテ」


セシリアは帳面を受け取り、数字に目を走らせた。


発酵食品の仕込みを始めてから数ヶ月が経っていた。王都での商談を終え、辺境に戻ってからも、樽の管理は一日も欠かさなかった。温度、色、匂い。毎朝確かめるたびに、中身は確実に変化していた。


あと少しで、完成する。


胸の奥に、静かな高揚があった。


だが、焦りもあった。


最終工程の温度管理について、前世の記憶が曖昧だった。煮詰める時間と温度の関係。高すぎれば風味が飛び、低すぎれば保存性が落ちる。その境目の感覚が、霧の向こうにあるように掴みきれない。


セシリアは帳面を閉じ、樽の並ぶ棚に目を向けた。


「少量を先に取り分けて、温度を変えた試作を三つ並行してみましょう」


「三つ、ですか」


「ええ。一つは記憶にある温度で、もう二つは上下にずらして。どれが最も良い結果になるか、比較するの」


確信がないなら、試して確かめる。辺境に来てから身についた方法だった。


マルガレーテが頷き、作業場の奥に戻っていった。


セシリアは入口に残り、もう一度外を見た。


芽吹き始めた大地。溶け始めた雪。辺境に来た頃、ここは灰色一色だった。今は違う。わずかだが、色がある。


この土地が変わり始めている。自分が関わったことで。


その実感は温かかったが、同時に重くもあった。燻製の継続取引は順調だった。王都の商人との契約は守られている。だが発酵食品が完成しなければ、領地の経済は次の段階に進めない。


もっと早く。もっと確実に。


その声が頭の隅で鳴った。セシリアは一度目を閉じ、深く息を吸った。冷たい空気が肺を満たし、焦りを少しだけ押し戻した。


昼過ぎ、セシリアは城館に戻り、執務室の前で足を止めた。


扉が開いていた。


中にレオンハルトがいた。机に向かい、紙の束に目を通している。眉間にわずかな皺が寄っていた。いつもの無表情とは違う、何かを測るような目だった。


セシリアが軽く扉を叩くと、レオンハルトが顔を上げた。


「発酵食品の経過をご報告に参りました」


「入れ」


セシリアは一礼して執務室に入った。マルガレーテが扉の外に控える。


帳面を開き、温度の推移と試作の計画を簡潔に報告した。レオンハルトは無言で聞き、一度だけ頷いた。


「完成の見込みは」


「数日以内に最終工程に入れます。試作の結果次第ですが、早ければ十日ほどで」


「わかった」


短い返答の後、レオンハルトの視線が机上の紙に戻った。先ほどまで読んでいた報告書だった。


セシリアはその紙面を視界の端で捉えた。文字の詳細は読めなかったが、地図のような図が添えられていた。領地の北端、国境付近の地形図に見えた。


レオンハルトが口を開いた。


「国境の巡視に出る。明日の朝、発つ」


声の調子はいつもと変わらなかった。だがその一文を言う前に、紙面から目を上げてセシリアを見た。ほんの一瞬だった。


「今年は雪解けが早い。例年より早く小競り合いが始まる可能性がある。確認してくる」


セシリアは頷いた。


「お気をつけて。留守の間、作業場と帳簿の管理は私が」


「ああ。三日で戻る」


三日。


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく揺れた。


三日間、この城館にレオンハルトがいない。


「承知いたしました」


セシリアは一礼し、執務室を出た。


廊下を歩きながら、胸の揺れの正体を考えた。


領地の主が不在になることへの不安だろうか。国境の情勢が不穏だという話を聞いたせいだろうか。


それとも。


セシリアは考えを途中で止め、作業場に向かった。やるべきことがある。最終工程の準備。温度を変えた三つの試作。考えている暇はなかった。


翌朝、レオンハルトは近衛二人を従えて城館を発った。


セシリアは城館の窓から、馬が門を出ていくのを見た。濃い灰色の外套が風になびき、すぐに荒野の中に小さくなった。


見えなくなるまで、窓の前に立っていた。


自分でも理由がわからなかった。作業場に行かなければならないのに、足が動かなかった。


「お嬢様」


マルガレーテの声で、ようやく窓から離れた。


「参りましょう。試作の準備がございます」


「ええ……そうね」


作業場に向かいながら、セシリアは意識して背筋を伸ばした。


三日間。やるべきことをやる。それだけだ。


一日目は試作の仕込みに費やした。温度を三段階に分け、それぞれの樽に少量ずつ取り分ける。火加減の調整は領民の手も借りた。燻製の時から手伝ってくれている男たちが、セシリアの指示に従って竈の薪を調整した。


二日目、最も低い温度で仕込んだ樽の色が良い方向に変化した。中程度の温度のものも悪くない。最も高い温度のものは、やや風味が飛んでいた。


記録を帳面に書き留めながら、セシリアは小さく頷いた。方向は合っている。


だが、二日目の夜、自室で帳面を閉じた後、手持ち無沙汰になった。


いつもなら、この時間に執務室の灯りが見えた。窓から中庭を挟んだ向こう側、レオンハルトが遅くまで書類に向かっている気配。それが消えている。


城館が、少し広く感じた。


三日目の朝が来た。


セシリアは作業場で最後の試作品の確認を終え、結果を帳面にまとめた。


低温でじっくり仕上げたものが、最も風味と保存性のバランスが良かった。これを基準にすれば、量産の工程が組める。


完成だった。


試食した領民が目を丸くした。


「何だこれは。塩味の奥に、こう……深い味がある」


「舌に残る。汁物に入れたら美味くなりそうだ」


声が重なった。使用人のエルマーが腕を組んだまま近づき、匙で一口含んだ。咀嚼し、飲み込み、もう一口。


何も言わなかったが、匙を置かなかった。


セシリアの胸に、じわりと温かいものが広がった。


マルガレーテが隣で小さく拍手した。


「お嬢様、やりましたね」


「ええ。ようやく」


数ヶ月の試行錯誤が、形になった。辺境の自生する豆と、この土地の気候を使って作り上げた調味料。これが量産できれば、燻製に続く特産品になる。


その報告を、早くしたかった。


誰に。


答えは、考えるまでもなく浮かんだ。


午後、城館の門前に馬蹄の音が響いた。


セシリアは作業場にいた。音を聞いた瞬間、手が止まった。


帳面を置き、作業場を出た。足が勝手に動いていた。


門の前に出ると、三頭の馬が速度を落として近づいてくるところだった。先頭の馬に跨るのは、濃い灰色の外套を纏った長身の人物。


レオンハルトだった。


三日目の午後。約束の通りだった。


セシリアの足が、無意識に半歩前に出た。


門を出る一歩手前で、自分の動きに気づいた。報告を聞きたかっただけだ。発酵食品の完成を伝えなければならないから。


そう頭の中で整理した。


レオンハルトが馬を降りた。


その目が、真っ先にセシリアを捉えた。


一瞬だった。門の前に立つセシリアの姿を視認し、それから近衛に馬の手綱を渡し、領民への指示を出した。


その「真っ先」の視線に、セシリアは気づかなかった。


だが、少し離れた場所で馬を受け取った近衛の一人は気づいた。主人の視線が最初に向いた先を見て、さりげなく目を逸らした。


マルガレーテも気づいていた。セシリアの背後に立ち、主人の足が半歩前に出た瞬間を見ていた。小さく、音にならない息を吐いた。


レオンハルトがセシリアの前まで歩いてきた。


「国境付近の状況は、例年より早く動きがある。だが当面は問題ない。備えは要る」


簡潔な報告だった。巡視の結果を、立ったまま数文で伝える。いつも通りの、無駄のない言葉。


「承知いたしました。それと、レオンハルト様。ご報告がございます」


「何だ」


「発酵食品が完成いたしました」


レオンハルトの足が止まった。


セシリアを見た。数秒の沈黙があった。


「試食は」


「領民にも使用人にも好評でした。量産の工程も組めます」


レオンハルトは顎を引いた。短い動作だったが、その目の奥に、確かな光があった。


「よくやった」


低い声だった。その一言だけで、歩き出した。城館に向かう背中が、わずかに——ほんのわずかにだが、軽く見えた。


セシリアはその背中を見送りながら、自分の胸が温かいことに気づいた。


三日間、落ち着かなかったのは、領地の主がいなかったからだ。そう自分に言い聞かせた。


それ以外の理由は、今はまだ考えない。


夕刻、セシリアは執務室でレオンハルトと向かい合っていた。


発酵食品の量産計画と、国境情勢の報告。二つの議題を順に片付けていく。マルガレーテが隣室に控え、近衛が廊下に立つ。


量産の話が終わった後、レオンハルトが書類の束から一枚を取り出した。


「王都の商人から、新たな取引の打診が来ている」


「取引、ですか」


「商会を経営する伯爵家の次男だ。燻製と発酵食品の両方に関心があるらしい。詳細は書面で追って届く」


セシリアは眉をわずかに上げた。王都での商談以降、辺境の特産品に注目する商人が増えていることは聞いていた。だが、伯爵家の名が出たのは初めてだった。


「伯爵家の次男が商会を……」


「ヴィクトル・グレーヴェンという名だ。交易に手広いと聞く」


レオンハルトの声は淡々としていた。事実を伝えているだけの声だった。


セシリアは頷いた。


「書面が届きましたら、内容を精査いたします」


「任せる」


それだけで、話は次の議題に移った。


執務室を出たのは、日が完全に落ちた後だった。


自室に戻ると、机の上に封書が一通置かれていた。マルガレーテが受け取っていたものだった。


ヴァイスフェルト侯爵家の封蝋。父フリッツからの書簡だった。


封を切り、便箋を広げた。


父の簡潔な筆跡で、近況の報告と、一つの通達が記されていた。


ホーエンベルク男爵家に対する宮内省の処分が確定した。社交界への出入り禁止。王都屋敷の返上。リゼット・ホーエンベルクの領地蟄居。


セシリアは便箋を読み終え、一瞬だけ目を閉じた。


瞼の裏に、何かが過ぎった。茶会で涙を浮かべる姿。消え入りそうな声。「わたしのせいかもしれない」と震えていた、白い手。


あれは全て嘘だった。


三年分の嘘の上に築かれた同情と、その代償。


セシリアは目を開けた。便箋を折り畳み、引き出しに仕舞った。


「終わったこと」


小さく呟いた。


マルガレーテが寝支度の準備をしながら、静かに頷いた。


窓の外に目を向けた。春の夜はまだ冷えるが、風の匂いが変わり始めていた。凍てついた土の下から、何かが動き出す気配がある。


明日も、やるべきことがある。量産の工程を詰め、帳簿を整え、届くはずの書面に目を通す。


この場所で、自分の仕事を続ける。


それだけでよかった。それだけが、今の自分を支えていた。

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