第1話「春を待つ土地」
雪解けの水が、岩肌を伝って落ちていた。
細い筋になった水が、地面に届く前に風に散る。その飛沫が朝の光を受けて、一瞬だけ銀色に光った。
セシリアは作業場の入口に立ち、その光景を眺めていた。
辺境の冬は長い。だが今、大地のあちこちで雪が後退し始めていた。凍りついていた地面の端に、泥の色が覗いている。その泥の中に、小さな緑が一つ、二つと頭を出していた。
芽だった。
「お嬢様、樽の温度を確認してまいりました」
マルガレーテが作業場の奥から歩いてきた。手に帳面を持ち、数字を読み上げる。
「昨晩から大きな変動はありません。このまま推移すれば、あと数日で最終工程に入れるかと」
「ありがとう、マルガレーテ」
セシリアは帳面を受け取り、数字に目を走らせた。
発酵食品の仕込みを始めてから数ヶ月が経っていた。王都での商談を終え、辺境に戻ってからも、樽の管理は一日も欠かさなかった。温度、色、匂い。毎朝確かめるたびに、中身は確実に変化していた。
あと少しで、完成する。
胸の奥に、静かな高揚があった。
だが、焦りもあった。
最終工程の温度管理について、前世の記憶が曖昧だった。煮詰める時間と温度の関係。高すぎれば風味が飛び、低すぎれば保存性が落ちる。その境目の感覚が、霧の向こうにあるように掴みきれない。
セシリアは帳面を閉じ、樽の並ぶ棚に目を向けた。
「少量を先に取り分けて、温度を変えた試作を三つ並行してみましょう」
「三つ、ですか」
「ええ。一つは記憶にある温度で、もう二つは上下にずらして。どれが最も良い結果になるか、比較するの」
確信がないなら、試して確かめる。辺境に来てから身についた方法だった。
マルガレーテが頷き、作業場の奥に戻っていった。
セシリアは入口に残り、もう一度外を見た。
芽吹き始めた大地。溶け始めた雪。辺境に来た頃、ここは灰色一色だった。今は違う。わずかだが、色がある。
この土地が変わり始めている。自分が関わったことで。
その実感は温かかったが、同時に重くもあった。燻製の継続取引は順調だった。王都の商人との契約は守られている。だが発酵食品が完成しなければ、領地の経済は次の段階に進めない。
もっと早く。もっと確実に。
その声が頭の隅で鳴った。セシリアは一度目を閉じ、深く息を吸った。冷たい空気が肺を満たし、焦りを少しだけ押し戻した。
昼過ぎ、セシリアは城館に戻り、執務室の前で足を止めた。
扉が開いていた。
中にレオンハルトがいた。机に向かい、紙の束に目を通している。眉間にわずかな皺が寄っていた。いつもの無表情とは違う、何かを測るような目だった。
セシリアが軽く扉を叩くと、レオンハルトが顔を上げた。
「発酵食品の経過をご報告に参りました」
「入れ」
セシリアは一礼して執務室に入った。マルガレーテが扉の外に控える。
帳面を開き、温度の推移と試作の計画を簡潔に報告した。レオンハルトは無言で聞き、一度だけ頷いた。
「完成の見込みは」
「数日以内に最終工程に入れます。試作の結果次第ですが、早ければ十日ほどで」
「わかった」
短い返答の後、レオンハルトの視線が机上の紙に戻った。先ほどまで読んでいた報告書だった。
セシリアはその紙面を視界の端で捉えた。文字の詳細は読めなかったが、地図のような図が添えられていた。領地の北端、国境付近の地形図に見えた。
レオンハルトが口を開いた。
「国境の巡視に出る。明日の朝、発つ」
声の調子はいつもと変わらなかった。だがその一文を言う前に、紙面から目を上げてセシリアを見た。ほんの一瞬だった。
「今年は雪解けが早い。例年より早く小競り合いが始まる可能性がある。確認してくる」
セシリアは頷いた。
「お気をつけて。留守の間、作業場と帳簿の管理は私が」
「ああ。三日で戻る」
三日。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく揺れた。
三日間、この城館にレオンハルトがいない。
「承知いたしました」
セシリアは一礼し、執務室を出た。
廊下を歩きながら、胸の揺れの正体を考えた。
領地の主が不在になることへの不安だろうか。国境の情勢が不穏だという話を聞いたせいだろうか。
それとも。
セシリアは考えを途中で止め、作業場に向かった。やるべきことがある。最終工程の準備。温度を変えた三つの試作。考えている暇はなかった。
翌朝、レオンハルトは近衛二人を従えて城館を発った。
セシリアは城館の窓から、馬が門を出ていくのを見た。濃い灰色の外套が風になびき、すぐに荒野の中に小さくなった。
見えなくなるまで、窓の前に立っていた。
自分でも理由がわからなかった。作業場に行かなければならないのに、足が動かなかった。
「お嬢様」
マルガレーテの声で、ようやく窓から離れた。
「参りましょう。試作の準備がございます」
「ええ……そうね」
作業場に向かいながら、セシリアは意識して背筋を伸ばした。
三日間。やるべきことをやる。それだけだ。
一日目は試作の仕込みに費やした。温度を三段階に分け、それぞれの樽に少量ずつ取り分ける。火加減の調整は領民の手も借りた。燻製の時から手伝ってくれている男たちが、セシリアの指示に従って竈の薪を調整した。
二日目、最も低い温度で仕込んだ樽の色が良い方向に変化した。中程度の温度のものも悪くない。最も高い温度のものは、やや風味が飛んでいた。
記録を帳面に書き留めながら、セシリアは小さく頷いた。方向は合っている。
だが、二日目の夜、自室で帳面を閉じた後、手持ち無沙汰になった。
いつもなら、この時間に執務室の灯りが見えた。窓から中庭を挟んだ向こう側、レオンハルトが遅くまで書類に向かっている気配。それが消えている。
城館が、少し広く感じた。
三日目の朝が来た。
セシリアは作業場で最後の試作品の確認を終え、結果を帳面にまとめた。
低温でじっくり仕上げたものが、最も風味と保存性のバランスが良かった。これを基準にすれば、量産の工程が組める。
完成だった。
試食した領民が目を丸くした。
「何だこれは。塩味の奥に、こう……深い味がある」
「舌に残る。汁物に入れたら美味くなりそうだ」
声が重なった。使用人のエルマーが腕を組んだまま近づき、匙で一口含んだ。咀嚼し、飲み込み、もう一口。
何も言わなかったが、匙を置かなかった。
セシリアの胸に、じわりと温かいものが広がった。
マルガレーテが隣で小さく拍手した。
「お嬢様、やりましたね」
「ええ。ようやく」
数ヶ月の試行錯誤が、形になった。辺境の自生する豆と、この土地の気候を使って作り上げた調味料。これが量産できれば、燻製に続く特産品になる。
その報告を、早くしたかった。
誰に。
答えは、考えるまでもなく浮かんだ。
午後、城館の門前に馬蹄の音が響いた。
セシリアは作業場にいた。音を聞いた瞬間、手が止まった。
帳面を置き、作業場を出た。足が勝手に動いていた。
門の前に出ると、三頭の馬が速度を落として近づいてくるところだった。先頭の馬に跨るのは、濃い灰色の外套を纏った長身の人物。
レオンハルトだった。
三日目の午後。約束の通りだった。
セシリアの足が、無意識に半歩前に出た。
門を出る一歩手前で、自分の動きに気づいた。報告を聞きたかっただけだ。発酵食品の完成を伝えなければならないから。
そう頭の中で整理した。
レオンハルトが馬を降りた。
その目が、真っ先にセシリアを捉えた。
一瞬だった。門の前に立つセシリアの姿を視認し、それから近衛に馬の手綱を渡し、領民への指示を出した。
その「真っ先」の視線に、セシリアは気づかなかった。
だが、少し離れた場所で馬を受け取った近衛の一人は気づいた。主人の視線が最初に向いた先を見て、さりげなく目を逸らした。
マルガレーテも気づいていた。セシリアの背後に立ち、主人の足が半歩前に出た瞬間を見ていた。小さく、音にならない息を吐いた。
レオンハルトがセシリアの前まで歩いてきた。
「国境付近の状況は、例年より早く動きがある。だが当面は問題ない。備えは要る」
簡潔な報告だった。巡視の結果を、立ったまま数文で伝える。いつも通りの、無駄のない言葉。
「承知いたしました。それと、レオンハルト様。ご報告がございます」
「何だ」
「発酵食品が完成いたしました」
レオンハルトの足が止まった。
セシリアを見た。数秒の沈黙があった。
「試食は」
「領民にも使用人にも好評でした。量産の工程も組めます」
レオンハルトは顎を引いた。短い動作だったが、その目の奥に、確かな光があった。
「よくやった」
低い声だった。その一言だけで、歩き出した。城館に向かう背中が、わずかに——ほんのわずかにだが、軽く見えた。
セシリアはその背中を見送りながら、自分の胸が温かいことに気づいた。
三日間、落ち着かなかったのは、領地の主がいなかったからだ。そう自分に言い聞かせた。
それ以外の理由は、今はまだ考えない。
夕刻、セシリアは執務室でレオンハルトと向かい合っていた。
発酵食品の量産計画と、国境情勢の報告。二つの議題を順に片付けていく。マルガレーテが隣室に控え、近衛が廊下に立つ。
量産の話が終わった後、レオンハルトが書類の束から一枚を取り出した。
「王都の商人から、新たな取引の打診が来ている」
「取引、ですか」
「商会を経営する伯爵家の次男だ。燻製と発酵食品の両方に関心があるらしい。詳細は書面で追って届く」
セシリアは眉をわずかに上げた。王都での商談以降、辺境の特産品に注目する商人が増えていることは聞いていた。だが、伯爵家の名が出たのは初めてだった。
「伯爵家の次男が商会を……」
「ヴィクトル・グレーヴェンという名だ。交易に手広いと聞く」
レオンハルトの声は淡々としていた。事実を伝えているだけの声だった。
セシリアは頷いた。
「書面が届きましたら、内容を精査いたします」
「任せる」
それだけで、話は次の議題に移った。
執務室を出たのは、日が完全に落ちた後だった。
自室に戻ると、机の上に封書が一通置かれていた。マルガレーテが受け取っていたものだった。
ヴァイスフェルト侯爵家の封蝋。父フリッツからの書簡だった。
封を切り、便箋を広げた。
父の簡潔な筆跡で、近況の報告と、一つの通達が記されていた。
ホーエンベルク男爵家に対する宮内省の処分が確定した。社交界への出入り禁止。王都屋敷の返上。リゼット・ホーエンベルクの領地蟄居。
セシリアは便箋を読み終え、一瞬だけ目を閉じた。
瞼の裏に、何かが過ぎった。茶会で涙を浮かべる姿。消え入りそうな声。「わたしのせいかもしれない」と震えていた、白い手。
あれは全て嘘だった。
三年分の嘘の上に築かれた同情と、その代償。
セシリアは目を開けた。便箋を折り畳み、引き出しに仕舞った。
「終わったこと」
小さく呟いた。
マルガレーテが寝支度の準備をしながら、静かに頷いた。
窓の外に目を向けた。春の夜はまだ冷えるが、風の匂いが変わり始めていた。凍てついた土の下から、何かが動き出す気配がある。
明日も、やるべきことがある。量産の工程を詰め、帳簿を整え、届くはずの書面に目を通す。
この場所で、自分の仕事を続ける。
それだけでよかった。それだけが、今の自分を支えていた。




