第9話 続・親善試合
身長は二メートル近くあるだろうか。ぱっと見、直立したゴリラのように見える。
いや、むしろ異世界で斧を振り回すゴリラ種の亜人そのものに見えてきた。
「どうした? キレてんのかお前?」
リーダー(元カレ)がゴリラ種の亜人にふざけた感じで質問する。
「ええ。さっきからこいつ、どうも俺たちのこと舐めてるみたいなんで。一回わからせた方がいいと思って」
元カレは肩に回していた腕をほどき、もう一度ソファへと腰を落とす。
「好きにしろよ。どうも感触が鈍い……一度痛い目見たほうが今の状況を理解しやすいかもしれないな」
「ういっす」
ゴリラ亜人が目の前に立ちふさがった。
「いいか、イカれやろう。俺はキックボクシング習ってんだ。軽く一蹴りするだけで、お前の細い足の骨なんて簡単に折れる。運が悪けりゃ、ショックでそのまま意識が飛ぶかもしれねえ。……けどよぉ、安心しろ。気合いさえ入ってりゃ、死ぬこたぁねえはずだ」
その異常な空気に、四衣凪が悲鳴に近い声を上げる。
「本当にやめて! 何もそこまでしなくても――」
「ああ? お前、そいつに味方すんの?」
制止しようとした彼女の言葉は、元カレのドスの利いた声に無惨に掻き消される。
「一回ヤって、その陰キャに愛着湧いたのか?」
「違――!」
元カレは、ニヤニヤと下卑た笑みを深めていく。
煽りを受け、野生のゴリラっぽい男が更に怒りを露わにする。
「だいたいよぉ。お前みたいな陰キャ野郎が瑛瑠さん抱いたってだけで俺は不愉快なんだよ。普通は俺らに感謝の土下座だろ? 手土産の一つ持ってくるだろ? なあ!?」
なんだこいつ。ウホウホしてて聞き取りづらかったけど……もしかして、四衣凪のことが好きなのか。
「えっと、ごめん。さっきから何で怒っているのかな? バナナと四衣凪が好きってことまでは理解できたんだけど……」
――静寂。
俺への返答に迷っているのだろうか。
「もう死ねや」
野生のゴリラが低い声でつぶやく。
――次の瞬間。
巨大な右手が、空気を鋭く切り裂きながら、俺の側頭部目掛けて一直線に突き出される。
が、しかし。
怒気を放っていた割には、妙にスローな、欠陥だらけの軌道に見えた。
物理法則に従っただけの純粋な運動エネルギー。そこには魔力の加速も、異能による必中効果も感じられない。
あまりに無防備な暴力を前に、俺はただ困惑してしまった。
『おい、オムニレクス! どうしたらいい? これ、当たればいいのか?』
『……』
どうでもいい時には一方的に話しかけてくるくせに、また無視された。
――くそ! どうにでもなれ!
俺は男の懐に入り、ポケットにしまってあった十徳ナイフのグリップ部分で相手の顎を殴打する。
ドスン。と男は床へと倒れ込んだ。
「あ――しまった」
……ホール内が静寂に包まれる。
恐る恐る周囲を見ると、誰もが目を見開き、凍りついたようにこちらを注視していた。
まずい!
このままでは、俺が異世界帰りの元ハンターだとバレてしまう!
「ち、違うんだこれは! このゴリラが勝手に倒れ込んで――」
「どういうことだ!! 瑛瑠!!」
元カレの絶叫が、静寂を切り裂く。
そこには先ほどまでの余裕も、見下したような嘲笑も一切ない。剥き出しの感情だった。
「お前、何を連れて来たんだ?」
四衣凪は身を引こうとする本能を殺し、元カレを凝視しているようだった。
ここで目を逸らせば終わりだと言い聞かせるように。
「反抗的な目してんじゃねぇか、瑛瑠」
「わ、私はもう、あなたとは――」
言いよどむ彼女を遮るように、元カレがパンッ! と手を叩く。
四衣凪は弾かれたように肩を震わせ、言葉を失ってしまった。
「そういや瑛瑠。お前の友達の椎子と影山だけどよ、どこにいるかわかったぜ」
元カレが隣に座る男へ視線を向けると、深くフードを被ったその男は、無言でスマホを差し出した。
『あの男――』
ふいにオムニレクスの声が響く。
『ああ、あいつだけさっきから一言も発していない。人見知りで間違いないな』
『……いや、そんなことはどうでもいい。それより、あいつと戦うことになれば、即座に俺を呼べ』
それだけ言い残し、念話は一方的に途絶えた。相変わらず自分勝手な僕だ。
差し出されたスマホを受け取った元カレは、嫌な笑いを顔に張りつけたまま、逃げ場をふさぐような距離で、再生中の画面をじわじわと四衣凪の視界に割り込ませていた。
「影山はアダルトPPVデビューでおっさん達と仲良くやっているみたいだぜ。俺たちから逃げてどうなるかと心配していたけど、無事落ち着き所が見つかったみたいで、ホッとしたぜ」
大勢の男同士の絡み――。一人の男が大勢に襲われているように見える動画。それが何を示しているのかは俺にはわからない。
「――ッ!」
激しく明滅する画面の光が、四衣凪の顔を青白く照らし出している。
彼女の瞳が、恐怖で細かく震えていた。
「椎子の方はよぉ。なんと! 日本を飛び出して、ドバイで働いているみたいだぜ。すごいよなぁ。俺たちと同世代で、もう王族相手に商売しているんだから、大したもんだぜ」
元カレは、まるで親友の成功を自慢するかのように、楽しげに肩をすくめてみせた。
よほど四衣凪の友人の人生を狂わせたことを自慢らしい。
だが、異世界でもっと凄惨な光景を目にしてきた俺からすれば、とても興味の持てない話だった。
唯一、気になるとすれば、それを俺の隣で聞かされている四衣凪の顔が、どんどん青ざめていくくらいだ。
けれども、元カレのあまりに白々しい態度が、絶望に固まっていた彼女の心を、怒りで叩き起こす。
「あんたが――っ!」
喉を引き裂くような叫びが、周囲の空気を震わせた。
「そう、仕向けたんでしょうが!」
「はぁ? 一年で借金返せる仕事紹介してやった俺に、何その言い方?」
「何も知らない椎子にホスト遊び教えて! 借金背負わせて、しかも、外国になんて……」
涙を拭う彼女の指先が震えている。
噛みしめた唇からは、今にも血が滲みそうだった。
「酷い言いようだな。自己責任って言葉知っているか? 俺は紹介しただけで、選んだのは全部椎子だぜ? 俺を悪人みたいに言うの、ひどくない?」
「最低――」
呟かれた拒絶に、元カレの目が鋭く濁った。
「調子に乗るなよ瑛瑠。親父さんの不祥事だまってやってるんだぞ」
四衣凪は反論できずに、顔を背ける。
「俺はお前にとって恩人なんだぜ? そんな恩人に報いるのは当然だよな?」
元カレが、ひらひらと人差し指を動かす。
「横に座れよ。お前は俺の女だろ?」
その言葉に、俺は思わず口を挟んだ。
「ん? 元カレじゃなかったの?」
「そ、それは……」
四衣凪の視線が泳ぐ。
刹那。元カレたちの下劣な爆笑が響き渡った。
「ははっ! なんだ、そいつ何も聞いてねえのかよ。ウケる!」
元カレ(?)が何を言っているかわからない。
「とにかくこっちにこいよ。何も知らない可哀想な陰キャに本当のことを教えてやろうぜ」
四衣凪は震える足に力を込め、その場から動かない。
その態度が、男のプライドを逆なでした。
「こっちに来いって言ってるだろうが! お前も椎子みたいに人生終わらせるぞ、コラァ!」
怒鳴り声が、逃げ道を完全に塞ぐ。
張り詰めていた何かが切れたように、四衣凪はガクンと膝の力を失った。ふらふらと、意志のない足取りで歩き出し、最後は糸の切れた人形のようにずるずるとソファへ崩れ落ちた。
隣に座った彼女の肩を、元カレ(?)がこれ見よがしに抱く。
そのまま――。
卑猥な手つきで、四衣凪の胸へと手を伸ばした。
そのあまりに歪な光景に、俺はようやく、最悪の真実に気づいてしまった。
「そ、そういうことだったのか……」
狼狽する俺に気づき、元カレ(?)が鼻先で笑った。
「そういうこと。お前は瑛瑠に騙されて――」
「お前、まだ四衣凪にフラれたこと気づいていないんだな!」
――なぜか、この場がまた静まり返った。
先ほどまで皆で笑い合う和やかな雰囲気だったのに……。
「えっと、だな……そうじゃなくてお前は、俺たちに嵌めら――」
「どうりでおかしいと思ったんだ! 四衣凪が元カレとか言う割には、変に馴れ馴れしいし。ソファ座った瞬間、四衣凪の胸揉みだすし!」
自称彼氏の男は、ふっと深いため息をついた。
「……てめぇ、頭イカれてるな」
男は心底呆れたように吐き捨てる。
突然、取り巻き――さっきまで狂うように踊っていた男が話に割って入ってきた。
「リーダー。もういいっしょ。さっさとこいつを陰山の代わりにしましょうや」
嘲笑うような視線が俺を刺す。
「こいつ、ただのバカですよ。細かく説明してやらないと、自分が騙されてここまで来たことすら気づかないっすよ」
俺は、思わず首を傾げた。
「騙すって。四衣凪に騙されているのはお前のリーダーの方だろ?」
全員の息が止まった。
異様な沈黙。どす黒い殺気が、逃げ場をふさぐ重圧となって俺へと向けられていく。
そんな中、ダンサーの男が吐き捨てるように言葉を繋ぐ。
「……でしょ? さっさとボコって奴隷にしましょうや。そろそろ飯時ですし。俺、お腹すきましたよ」
「だな。とりあえず腕の一本でも折れや」
「ういっす!」
元カレの手間に陣取っていてたダンサーが、一歩、踏み出してきた。
「おいおい、物騒なこと言うなよ」
突如。逃げ場のない熱風が、俺の頬を撫でる。
ダンサーを見ると、その腕と足に、猛烈な炎の塊が螺旋を描きながら纏わりついていた。
「あれ? それ、魔法か?」
「お! バカだけあって魔法とかすぐに信じちゃうんだ。でも、それで正解。そう、これ魔法」
ダンサーは独特のステップを刻み、軽やかに、かつ鋭く間合いを詰めてくる。
「お前のラッキーパンチで倒れちまった龍之介は、俺たちの中で一番弱かったんだぜ? つまりどういうことかわかる?」
「……四天王の中で最弱、的な?」
俺の返答に、ダンサーが歪んだ笑みを深める。
「バーカ。もうお前の人生終了ってことだ――よ!」
螺旋状の炎を纏った鋭い蹴りが、空気を焼きながら迫ってきた。
魔法。
たしかにオムニレクスが魔力を感じると言っていたが、本当に魔法を使ってきたのには驚いた。
『――』
未だオムニレクスの反応はない。このダンサーでは食指が動かないってことか。
――だったら。
鼻先を掠める熱風。
俺は紙一重でその一撃をやり過ごし、十徳ナイフを構える。
「親善試合は続いているってことだよな。オムニレクス!」




