4.不穏な足音
一方的にクルスを振り切ってから暫くが経った。
母は相変わらず寝込み、厳格だった父が黙々と家事をする。昔では考えられない光景だ。
何も言わずに食卓を拭く父の大きかった背中がとても小さく見えてしまう。
父ももう白髪の混じる年齢なんだ。いつ何があってもおかしくないんだと、否応なしに見せつけてくる。
それでも父が家事をしてくれなければ、日銭を稼ぐ俺の手が回らない。家事だけなら何とかなっても母の看病がおぼつかなくなる。
早く定職につかなければと分かっているが、騎士団に妹を連れ去られた影響は就職にも響いていた。
本当は俺も騎士を目指すはずだった。
騎士が無理でもクルスの伝手で下働きをさせて貰えるはずだったのに……。
あの一件が俺の未来もぶち壊していった。
職もなく借金を背負い、今生きているのが奇跡のようだ。知り合いや近所の人も騎士と騒動のあった俺たちと深く関わろうとしない。父が騎士団に所属していなければ、聖都には住めなくなっていただろう。それは金がなくて下街に引っ越した後も変わらなかった。
やっとのことで働き口を見つけても噂を知れば首になる。そんなことを繰り返していくうちに就職を諦めるようになった。
借金を回収しようと追いかけてくる教会も邪魔をする。こんな状態で雇ってくれる場所なんて存在しない。あっても雇用先に迷惑を掛けてしまう。心配してくれる心優しい人にほど、頼みにくかった。
借金を一本化するために教会からお金を借りたのは間違っていたのだろうか。
昔は父のように犯罪者を追いかける緑梟騎士団に憧れていた。
犯罪者を追いかける父が誇らしく、あのようになりたいと強く思っていた。父が成果を上げる度、自分ごとにように誇らしかった。
そんな父ももう、騎士団を引退しても良い年齢に差し掛かっている。
もっと楽をさせてあげられるはずだったのに。
予定通り、ゆったりと引退して欲しかったのに。
俺にはそれができなかった。
悪い噂を打ち消せるほどの実力がなかった。
悔しくて、悔しくて。どれだけあがいても俺の剣は一般人から抜け出ず、あっと驚くような戦略も立てられない。
では魔法はどうかというと、魔力量も普通。魔法属性の親和性に至っては下位と、少し魔法が使える程度にすぎない。それでも水と火、2属性の適性があったから平民にしては少し抜き出ているらしい。
ただ、騎士になるには今一歩足りない。
平民から騎士になるのは厚い壁があった。
騎士はあくまでも爵位を継げなかった貴族の就職先のひとつだ。
平民向けに作られた職ではない。それなのに平民からも騎士を選ぶのは弾除けにするため。怪我の確立も貴族より圧倒的に高い。毎年のように亡くなる人もいる。
そんな騎士団で父が大きな怪我もせず、今まで生きているのは父が高い魔法適正を持っているからだろう。
体力勝負で一歩間違えれば怪我をする。怪我をしてしまえば碌な就職先がない。資格があったとしても今の俺には難しい職業だった。
俺が怪我をして使い物にならなくなれば家計が回らなくなる。たとえ怪我をしなくとも借金を返し終わる頃には定年だ。父と母、2人の面倒を見ながら40近い年齢で就職先を探すのは難しい。
老いた体で無理をすれば危険が増すばかりだ。
騎士に憧れていた分、内情が分かっているから選べない。
それどころか騎士団に所属している父への心配が増していく。
元気なうちに別の仕事について欲しい。
安全な場所で元気に働いていて欲しい。
厳しい現実とは逆の願いばかりが増えていく。
でも、騎士団ほど稼げる職はほとんどない。
借金のある間は父の稼ぎに頼る他なかった。
俺が定職に就けなかったばかりに。
現実は残酷で、自分の無力さだけが突きつけられる。俺にはもう、どうしたら良いのか分からなかった。
「……クルスのあの金。受け取っておけば良かったな」
そうすれば借金が返し終わったかもしれない。母の薬代になったかもしれない。
俺のスキルも……分かったかもしれない。
クルスの持っていた金貨がどれくらいの金額になるのか分からないけれど、少額ということはないだろう。
袋一杯に詰まっていたのだ。かなりの大金だったに違いない。
つぶやいたことで父が振り向くが、なんでもないと誤魔化して料理を渡す。
今日の夕飯はクズ野菜のスープと釘が打てそうなほど硬い黒パン、俺が魔法で出した水だけだ。味付けも塩だけなので美味しそうな匂いなんてしない。非常に味気ない、質素な食事だ。
木でできたコップや皿も欠けている。中にはヒビが入っているものもあるので新しいものを買わないといけないのに金がない。
完全に割れてしまったら買い替えられるだろうか。
木の器もある程度の値段がする。平民なら普通に変える食器すら、我が家では気軽に買うことができない。
誰かひとりでも病気や怪我をするれば回らなくなる。薄氷の上を歩き続けている気分だった。
母の分もスープも用意し、食べている間に冷ましておく。
傷口の痛みが酷いのか、最近は食べる量すら減っていた。
「ごちそうさま」
食事を掻き込み、食器を洗ってから俺は家を飛び出す。
今夜は父が非番なので母の面倒も父が看てくれるらしい。
非番の間くらい休めばいいのに父はそれをしない。
恋愛結婚でもなかったのに、一種の愛の形がそこにあった。
暗くなり、まだ少女とも呼べる瘦せ細った女がすえた臭いのする路地裏に立つ。
飲み屋の呼び込みをする声も昼間とはまるで違った。
欠けたレンガの道も昼と同じはずなのに恐ろしく見える。当然、子どもの明るい声なんてしない。
慣れた街なのにどこか闇に引きずり込まれそうな怖さがあった。
「イオ!!」
腕を掴まれて振り返るとクルスがいる。
こんな危ないところにクルスがいるとは思ってもいなかった。昼間でもこの街に不相応なのに夜はもっと犯罪に巻き込まれそうだ。ローブを被っていても持ち前の雰囲気が隠せていない。
「ばか! 何してるんだ、早く帰れ!」
慣れている俺でも夜は危険なのだ。気持ちが高ぶらなければ外へなんて飛び出さなかっただろう。
「一応変装してるし、大丈夫じゃない?」
「そんなわけないだろ!!」
にこにこ笑うクルスの正気を疑う。使用人は何をしているのだ。
犯罪に巻き込まれれば生きて帰れるか分からない。貴族に恨みを持つ人間なんて山ほどいる。直接手を出されていなくともお金を持っているだけで妬みを買うのだ。
「僕、イオに謝らないといけないと思って……」
目を伏せるクルスは焦る俺の気持ちが分かっていないのか、その場に立ち止まった。
腕を掴まれているので自然と俺もその場に留まる。
「それを聞いたらお前は帰るのか?」
クルスはてこでも動きそうにない。力では敵わないので、話を聞くことにした。
見上げても立ち止まるクルスの表情は分からない。濃厚な暗闇が辺りを覆っていた。
魔石を原動力にした街燈さえ、この地区には少ないのだ。夜目が利かなければ障害物さえ見えない。
俺の住む下街はあくまでスラムよりましという程度でしかなかった。
「イオの返答次第では帰るよ。ねぇ、シェリーに会いたいと思わない?」
「…………っ!」
聞こえた瞬間、時が止まったかのような衝撃が走る。
冗談にしてはたちが悪すぎた。




