策略編
山ジョーズは山サメの一種だ。
全長五メートルを超える巨体や岩肌のように硬い皮膚、幾重にも並んだ鋭い歯、そして地面の中を泳ぐように進む奇妙な生態が特徴だ。
土砂をかき分け岩盤を砕き、ときには山道の下を通って人里へ現れる山ジョーズを、街道沿いの領主たちは決して軽視しない。
「山ジョーズの群れが、こちらへ向かっているだと?」
「はい。東部街道付近で、少なくとも二十頭以上が確認されました。山の斜面を下り、こちらの領地へ向かっているとのことです」
「討伐隊を出せ」
「すでに東部の村へ向かわせております。しかし、街道の修繕が滞っているため、移動に時間がかかっております。食糧の備蓄も十分ではなく……」
「そんなことは聞いていない! 山ジョーズが来るなら、さっさと追い払え! それが貴様らの仕事だろう!」
レオンハルトが机を叩くと、家臣の肩が跳ねた。
「追い払うだけでは、被害が広がる可能性がございます。山ジョーズは群れで行動すると、地中を掘り進めながら建物の基礎を崩すことがあり――」
「ならば建物を守れ!」
怒鳴り声が、古びた執務室に響いた。
家臣はそれ以上何も言わず、深く頭を下げる。
レオンハルトは椅子に腰を落とし、乱暴に報告書をめくった。
かつてなら、こうした事態が起きる前に必要な物資と人員が整えられていた。
家事をレイラが一手に引き受けていたため、使用人たちをレオンハルトの補佐に専念させることが可能だったのだ。
だが、レイラは今はもういない。
「……あの女がいれば、どうにかしたというのか」
胸の奥に悔しさが湧いた。
自分が追い出した女に頼らなければならない。
そう考えてしまったことが、何よりも腹立たしかった。
レオンハルトは報告書を握り潰す。
「私の領地を、あの女に笑われてたまるか」
◇
同じ頃、ハイスピード家の執務室には、山ジョーズの目撃情報を記した地図が広げられていた。
机の上には街道の見取り図、倉庫の在庫表、複数の報告書が並んでいる。
「北東の山道で確認されたのですね」
レイラは地図に小柄なその身を乗り出した。
マッハは地図を見下ろしながら答えた。
「討伐隊はすでに派遣した。ただし山ジョーズは地中を進む。正確な位置を把握するのは難しい。正面から迎え撃てば、別の場所へ回り込まれる可能性もある」
「では、住民の避難経路を先に確保するのはどうでしょう。こちらの街道は、昨日補修が完了しています。道幅も十分ですし、倉庫から食糧を運び出す際にも使えます。山ジョーズが南側から来た場合は、住民を西へ誘導し、この丘を一時避難所にするのがよいかと」
レイラは地図の西側を指で示した。
「丘の周囲には、古い採石場があるな」
「はい。現在は使われていませんが、地盤が固く、山ジョーズが掘り進むには時間がかかるはずです。ただし、崩落の危険がないか確認する必要があります」
「君がそう言うと思って、先に調査を命じておいた。安全は確認済みだ」
レイラは一瞬目を丸くし、それから微笑んだ。
「それは助かります」
「君の仕事が速すぎるからな。こちらも先回りしなければ追いつかない」
「……え?わたくし、そんなに速いでしょうか」
「今朝は倉庫番のソセキを見なかっただろう?君が昨夜、倉庫の棚をすべて入れ替えたせいで、自分の仕事がなくなったと嘆いていた」
レイラは気まずそうに目を逸らした。
「ソセキには庭の掃除を任せた。今朝から彼は庭の石を種類別に並べ始め、今、非常に生き生きしている。心配はいらないだろう」
あまりにも真剣な口調だったため、レイラの唇から小さな笑いがこぼれたが、地図の端に記された赤い印が目に入り、その笑みはすぐに消えた。
「マッハ様。山ジョーズの進行方向が少しおかしくありませんか?通常、山ジョーズは水場や餌場を求めて低地へ下ります。ですが、この群れは街道を避けるように進んでいる。こちらの領地へ向かう理由が、単なる移動ではないように見えます」
マッハの目が細くなった。
「誰かが誘導していると?」
「その可能性はあります」
「なるほど、山ジョーズは特定の匂いに反応する。昔、山間部の村で獣の脂や血液を使って群れを誘導した事例があったらしい。誘導は十分可能だろう。となると狙いはこの屋敷か。調査する価値はありそうだ。警備隊へ連絡し、倉庫、穀物庫、橋、避難所の周囲を重点的に調べさせよう」
マッハはすぐに立ち上がった。
「わたくしも行きます」
「君は屋敷に残れ」
レイラは即座に首を振った。
「いいえ。現場を見なければ、正確な判断ができません。それに、わたくしは皆様より速く移動できます」
「危険だ」
「わたくしはお役に立てます。それにわたくしは、もう誰かの後ろで震えているだけの人間にはなりたくありません」
レイラの指先はわずかに震えていたが、その手は地図から離れない。
マッハは黙ってレイラを見つめ、静かに頷く。
「分かった。ただし単独行動はするな、私の指示を聞け。それから、無茶をするな」
「承知しました。粉骨砕身、頑張ります」
「それは、無茶をする人間の返事だ」
◇
その日の昼下がり、レオンハルトは屋敷の地下室にいた。
カビの匂いが鼻につく。
壁際には使われなくなった道具や木箱が積まれ、その手前に黒ずんだ獣脂と血の匂いを染み込ませた布の入った容器が並んでいた。
「本当に、これであの屋敷を壊せるのだろうな」
レオンハルトが尋ねると、雇われた男は深く頭を下げた。
「山ジョーズは匂いに引き寄せられます。ハイスピード家の敷地内に餌を撒けば、群れは建物の下を掘り進むでしょう。基礎が崩れれば、屋敷も無事では済みません」
「レ〜オレオレオレオッ! 完璧な作戦だ! 基礎を崩壊させた後はマッハを殺しレイラを連れ戻せ。あの女は、私の領地に必要な人間だった」
レオンハルトの声が冷たくなり、男の表情がわずかに強張った。
レオンハルトは、自分に言い聞かせるように続けた。
「私が捨てたのではない。あの女が私の価値を理解できなかっただけだ。マッハさえいなくなれば、レイラは戻ってくる。あの女は誰かに必要とされなければ生きていけない」
蝋燭の炎が揺れ、地下室の壁に二人の影が伸びた。




