解決編
夕方、山ジョーズの群れは予想より早くハイスピード家の領地へ到達した。
地面の下から低い振動が伝わってきて、街道沿いの小石が跳ね、井戸の水面が細かく震えた。
「来ます!」
警備隊の一人が叫んだ直後、地面が大きく盛り上がった。
土砂が噴き上がり、巨大な影が地中から飛び出す。
山ジョーズが口を開き、幾重もの歯が陽光を反射した。
悲鳴が上がり、避難誘導に当たっていた人々が一斉に西側へ走り出した。
「慌てないでください! こちらです! 丘の上へ向かってください。押さずに前の人についていって!」
レイラは時速200キロで人々の間を縫うように走り、転びかけた子どもの手を取った。
山ジョーズが地面を掘り進み、街道の一部が崩れ落ちる。
レイラは振り返り、崩落の速度と人の流れを見極めた。
「そちらは危険です! 右へ! 荷車を捨てて、道を空けてください!」
レイラは次々と人々の進路を変えていった。
その動きは速いだけではなく、道幅、地面の傾斜、避難する人々の数、山ジョーズの進行方向などをすべてを一瞬で見て、最も安全な道を選んでいる。
「彼女の指示に従え! 隊列を崩すな!」
少し離れた場所で、マッハが剣を手に叫んだ。
そのとき、二頭の山ジョーズが丘の反対側へ回り込もうとした。
レイラはすぐに気づいた。
「こちらは任せてください! 少しだけ先に行きます!」
「レイラ! 待て!」
マッハの声が飛ぶが、レイラはすでに地面を蹴っていた。
風が頬を切る。
一頭目が進路を変え、鼻先を地面から突き出した。
レイラはその動きを読み、横へ跳ぶ。
山ジョーズの巨体が地面をえぐり、土と小石が背後へ飛び散った。
着地した瞬間さらに加速し、音速を超え、レイラは音を置き去りにした。
二頭目が大きな口を開いた。
正直、恐怖で足がすくみそうだったが、レイラは止まらない。
山ジョーズの頭部が迫る直前、低く身を屈め、開いた口の横をすり抜けた。
歯と歯の間を、風が通り抜ける。
ほんの一瞬遅ければ、腕を噛み砕かれていた。
レイラは地面を転がり、すぐに立ち上がった。
「……危ないところでした」
自身の声が、妙に落ち着いて聞こえた。
山ジョーズが振り返り、レイラもまた周囲を見渡した。
丘の麓には使われなくなった採石場へ続く細い道があり、その先には古い石壁が残っていた。
レイラは石壁と山ジョーズの位置を見比べ、足元に落ちていた金属製の杭を拾い上げる。
「こちらへ来てください」
山ジョーズが低く唸るその正面にレイラはわざと立つ。
山ジョーズが突進し、レイラは石壁へ向かって走った。
背後から地面を砕く音が迫り、土砂が飛び、空気が震えた。
あと十歩、五歩……
石壁の直前で、レイラは急停止して身体を横へ投げ出した。
勢いを殺せなかった山ジョーズが、石壁へ激突する。
轟音とともに古い石が崩れ、山ジョーズの巨体が瓦礫の下でもがいた。
「一頭、足止めしました!」
叫んだ直後、背後から別の気配が迫り、振り向けば巨大な口が視界を覆っていた。
レイラが足元を見ると崩れた石壁の隙間、その先に続く狭い採石場の通路。
人間なら通れる、迷わずレイラは隙間へ飛び込んだ。
背後で歯が噛み合う音が響き、石壁が砕け、土埃が舞い上がった。
レイラは狭い通路を駆け抜け、途中の横穴へ滑り込む。
山ジョーズの鼻先が通路を塞ぎ、巨体が壁にぶつかって岩が落ちてきた。
息を殺し、落下する石を避けながら奥へ進むと、通路の先は崖の上へ繋がっていた。
見下ろすと山ジョーズの群れが領地の外縁部に集まっており、その中心にはいくつもの黒い布袋が置かれていた。
「あれは……誘導用の餌?」
自然に迷い込んだのではなく、誰かが意図的にここへ呼び寄せたのだ。
布袋の近くには人影があった。
男は山ジョーズの様子を確認すると、急いで領地の外へ向かっている。
「待って!」
レイラが叫ぶと男が振り返った。
距離は遠いが、レイラは崖の斜面へ足をかけた。
小石が靴の下で崩れ、風がスカートの裾を大きく翻す。
レイラは身体を低くし斜面を駆け下りた。
石を踏み、枝を避け、崩れた地面を跳び越える。
男は逃げたが、一瞬で距離が縮まった。
「な、何だ、この速さは! 来るな!」
男が振り返り、短剣を抜いた。
「止まりなさい!」
男が腕を振り刃が空を切った。
レイラは身体を反らして刃先をかわし、そのまま懐へ入り込む。
手首を掴み、腕を捻った。
「なっ……!」
短剣が地面に落ちる。
レイラは男を蹴り飛ばし、男は岩にめり込んだ。
そのまま男に近づき襟首を掴んで問うた。
「誰の命令ですか」
「……知らない」
「では、警備隊の方々にお聞きいただきましょう。わたくしよりも、きっと丁寧に尋ねてくださいます」
「待て! やめろ!」
そのとき、遠くから馬の蹄音が響いた。
「レイラ!」
マッハが警備隊を引き連れ、丘を駆け下りてくる。
「こちらの方が、山ジョーズを誘導する餌を設置していました」
レイラが報告するとマッハは短く頷いた。
男を警備隊へ引き渡したあと、マッハはレイラの腕に目を向けた。
「よくやった。怪我は?」
「ありません。少々、服が汚れただけです」
白い袖には土が付き、裾は裂けていた。
「君は身の危険を顧みないのだな。私のそばにいろ。私の目の届かないところへ勝手に走っていくな。君がどれほど速くても私が君を守れる距離にいてほしい」
低い声に、レイラは返事を失った。
マッハの手がそっと彼女の肩に触れる。
まっすぐな碧眼がレイラを捉え、レイラは目を伏せた。
「……申し訳ありません」
「謝罪ではなく、約束しろ」
レイラは顔を上げた。
「分かりました。次からは、必ずご報告します」
「次がある前提なのか」
「山サメがまだ残っていますので」
「そういうところだぞ」
マッハは深く息を吐いた。
レイラの手を離そうとはしなかった。
◇
「レオンハルト様。エリシア様が、離婚を申し立てております」
エリシアはすでに荷物をまとめ、タイムアタック家へ戻る準備を進めていた。
レオンハルトが彼女の部屋へ駆け込むと、エリシアは鏡の前で髪を整えていた。
美貌は変わらないが、その顔には疲労が滲んでいる。
「どういうことだ!」
「もう聞いたでしょう、離婚するのよ。わたくしの美貌、家柄、社交界での評判、それをあなたは選びました。それが悪いとは言いませんが、あなたはわたくし自身を見ていなかった」
エリシアは鏡越しにレオンハルトを見て、ゆっくり振り返った。
「わたくしが何を恐れているのか、何を失いたくないのか。そんなことには興味がなかったのでしょう」
「お前はわがまますぎる!」
「そうね。前の結婚でわたくしは何もかも失いました。だから今度こそ誰にも見下されたくなかった。誰よりも美しく、誰よりも大切に扱われたかった」
エリシアはあっさり認め、髪飾りに触れる。
「あなたがそれを与えてくれると思ったのです。わたくしを選んだのだから、わたくしのすべてを受け入れてくださるのだと」
「ならば、なぜ離婚する!」
「あなたがわたくしを選んだ理由が、わたくしを愛していたからではないと分かったからです。あなたは、レイラを捨ててわたくしを選んだ自分に酔っていただけ。わたくしを見ているようで、わたくしの向こう側にある何かを見ていた」
エリシアは涙声で答え、鞄を閉じた。
「レイラの話をするな!」
「あなたが、いつも彼女の話をしているのでしょう。レイラがいればよかった、レイラならできた。あなたの口から、何度その名前を聞いたでしょう?あなたはわたくしを選んだのではなく、レイラを捨てたかっただけです」
「黙れ!」
レオンハルトが拳を振り下ろす。
「エリシア!」
叫び声を背に、エリシアは振り返らなかった。
扉が閉じる音は、レオンハルトの人生から何かが切り離される音のように響いた。
◇
レオンハルトの領地は急速に荒廃していった。
街道の修繕費を削った結果、輸送網は崩壊した。
穀物の価格は高騰し住民たちは隣領へ流出する。
山ジョーズの襲撃によって東部の村は大きな被害を受け、領主への信頼は失われた。
さらにハイスピード家への襲撃計画が明らかになり、多額の賠償金が命じられた。
屋敷も家宝も土地の一部も差し押さえられ、それでも借金は残った。
かつて周囲にいた家臣たちは別の領主へ仕官し、友人たちは距離を置いた。
社交界でレオンハルトの名を口にする者もいなくなり、終いにはレオンハルトは鉱山へ送られた。
地下は暗く、空気は冷たい。
つるはしを握る手にはすぐに豆ができ、岩を砕くたびに腕と肩が痛んだ。
汗と煤が肌にまとわりつき、喉の奥には粉塵が溜まる。
「休むな!」
監督役の声に追われ、レオンハルトはつるはしを振り下ろした。
「私は貴族だぞ……この私が鉱山で働くだと……? 借金なんて領民の税金を増やしてそれで払えばいいじゃないか、そもそもなぜ私が借金を返さねばならぬのだ……」
岩に刃が食い込み、鈍い音が響く。
その音を聞きながら、彼はレイラの姿を思い出した。
冷たい水の中で皿を洗う姿、荷物を抱えて走る姿、怒鳴られても黙って頭を下げる姿。
「……あの女、私のものだったはずなのに」
レオンハルトはつるはしを握り直した。
呟きに答える者は誰もおらず、頭上から岩の粉が落ちてきた。
◇
翌日、ハイスピード家の領地には穏やかな秋が訪れていた。
山ジョーズの群れはすべて討伐され、壊れた街道や建物の修繕も進んでいる。
建物の一部は崩れ、街道には深い亀裂が残った。
家を失った住民もいたが、それでも人々は少しずつ日常を取り戻していた。
レイラが窓の外へ目を向けると、庭では使用人たちがツツジを植え、その隣ではソセキが石を大きさごとに並べている。
「レイラ様!この石はこちらでよろしいでしょうか!」
「少しだけ右へ寄せていただけますか」
「承知しました!」
ソセキは心底嬉しそうに石を動かした。
余談だが、石と砂で山水を表現したこのハイスピード家の庭園は社交界で大いに話題になった。
この斬新な様式はカレサンスイと呼ばれ、ソセキ・ドリームウインドウは売れっ子の作庭家として名を馳せることになる。
さて、微笑む今のレイラには、間違えたときに立ち止まりやり直す場所がある。
以前のレイラなら、誰かの役に立てているかどうか、自分の判断が誰かを傷つけてはいないか、自分の力を過信していないかをいつも不安に思っていた。
今もときどき不安が胸の奥から顔を出し、過去の傷は都合よく消えてくれない。
「レイラ、王都からだ。日程が決まった」
扉の向こうから声がしてマッハが入ってくる。手には一通の書状を持っていた。
書状を慎重に開くとそこには、二人の婚姻を正式に認める式典の日程が記されていた。
「明日ですか?」
「早すぎるか?」
「いえ。準備そのものは、わたくしが全速力で進めれば」
「そこではない。君は結婚式まですべて一人で終わらせるつもりか」
マッハは額に手を当てた。
「皆様のお力をお借りします」
「ぜひそうしてくれ。ところで、レイラ。私と結婚することを、本当に望んでいるか」
マッハは一歩近づき、レイラは書状を机へ置く。
「わたくしは、マッハ様といたいです。わたくしが失敗したときも、傷ついたときも、わたくし自身を見てくださる。わたくしが自分で決めて動くことを、止めるだけではなく、信じようとしてくださる。マッハ様と生きていきたいです」
必要とされるからでも、役に立てるからでもない。
レイラはマッハの碧眼を見つめ、マッハはレイラの手を取った。
「私も君と生きていこう。君を守らせてほしい」
マッハは指先に口づけ、レイラは小さく笑った。
「これからもどうぞよろしくお願いします。ですが、わたくしはとても速いので、マッハ様が置いていかれないようにお気をつけください」
「望むところだ」
◇
結婚式当日、王都の大聖堂は秋の陽射しに包まれていた。
花が通路の両側に飾られ、窓から差し込む光が床に淡い模様を描いている。
レイラは純白のドレスに袖を通していた。
裾には細かな刺繍が施され、銀糸が光を受けて輝いている。
髪には、母の形見である銀の髪飾りをつけていた。
鏡に映った自分を見つめ、レイラは飾りにそっと触れる。
「レイラ様、お時間です」
裾を整え、背筋を伸ばす。
扉の先には、白い礼装に身を包んだマッハが立っていた。
いつも以上に端正な彼は、レイラの姿を見た瞬間、冷静な表情をわずかに崩した。
「……君らしい、そして美しいな」
「ありがとうございます」
マッハが手を差し出し、レイラはその手を取った。
二人は並んで大聖堂へ歩いていく。
扉が開くと柔らかな光が足元へ流れ込み、参列者たちが振り返った。
「互いを伴侶とし、喜びの日も苦難の日も、ともに歩むことを誓いますか」
「誓おう」
マッハに続き、レイラも顔を上げた。
「誓います」
指輪が交換され、マッハの指がレイラの手を包んだ。
司祭が二人の結婚を宣言すると、大聖堂に拍手が広がった。
「これからも、私のそばにいてほしい」
マッハが告げ、レイラは微笑んだ。
「はい。ですが、わたくしが先に走ってしまったら、追いついてくださいね」
「必ず追いつく」
大聖堂の外では秋風が吹き、白い花びらが舞い上がり、青空の下を軽やかに流れていく。
遠く離れた鉱山では、レオンハルトが今日も岩を砕いている。
エリシアはタイムアタック家へ戻り、傷ついた過去と向き合いながら、新しい人生を探している。
レイラはマッハと並んでゆっくりと、確かな足取りで歩いていた。
「今日くらいは、私とゆっくり歩こう」
レイラはしばらく彼の顔を見つめ、それから柔らかな笑みを浮かべた。
「……承知しました」
二人は大聖堂の階段を下りていく。
祝福の声が響く中、レイラは歩調を落とした。
レイラが婚約破棄されてからわずか5日のことだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
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