婚約破棄編
レイラ・タイムアタックの朝は早い。
名門貴族タイムアタック家の令嬢でありながら、レイラが婚約者レオンハルトの屋敷で任されているのは、掃除、洗濯、食事の準備。使用人たちでさえ嫌がる雑用を、レイラは毎日黙々とこなしていた。
「レイラ!まだ皿洗いが終わっていないのか!」
厨房から怒鳴り声が飛んでくる。
「申し訳ありません。すぐに終わらせます」
冷たい水に手を浸し、レイラは爆速で皿を洗い直した。
白磁の縁に残っていた油膜が、薄く光っている。
その横で、料理人が鼻を鳴らした。
「貴族のお嬢様が皿洗いとはね。何の役にも立たないくせに、手間ばかりかけさせる」
レイラは答えず洗い終えた皿を超スピードで並べる。
「何をしている!」
「……何でもありません」
レイラはこんな自分でもいつか誰かの役に立つかもしれないと信じていた。
◇
夕方、レイラはレオンハルトの執務室へ呼び出された。
スピーディーに部屋に飛び込むと、彼は机の上の書類を睨んでいた。
レイラはその一枚に目を留める。東部街道の修繕費が削られている。冬の輸送を考えれば、危険な判断だった。
「レイラ、今夜の晩餐会に出席しろ。余計な発言はするなよ。お前は私の婚約者だ、私の言うことに従っていればいい」
レオンハルトは、もう彼女を見ていなかった。
レイラは速やかに廊下へ飛び出すと、執務室の扉の向こうから明るい笑い声が聞こえた。
「エリシア様がお越しです」
使用人の声に、レイラは急ブレーキのごとく足を止めた。
姉のエリシアは美貌、家柄、教養、そのすべてに恵まれ、社交界で華やかな存在として知られる女性だ。
エリシアは一度結婚したが、結婚生活がうまくいかずすぐに離婚してタイムアタック家に出戻って来たのだった。
レオンハルトが彼女に惹かれていることを、レイラはずっと前から知っていた。
◇
晩餐会の会場は無数の蝋燭に照らされていた。
楽団のBPM400程の音楽が流れ、貴族たちの笑い声と香水の香りが広間を満たしている。
レイラは壁際に立ちレオンハルトを探すと、すぐに見つかった。
隣にはエリシアがいる。
深紅のドレスをまとったエリシアは、集まった人々の視線を一身に集めていた。
レオンハルトは、彼女に向かって笑っている。
レイラには一度も見せたことのない笑顔だった。
やがて、レオンハルトが杯を掲げた。
「皆に伝えたいことがある!レイラ・タイムアタック!私は、貴様との婚約を破棄する!」
演奏が止まり、広間の視線がレイラに集まる。
次の瞬間、広間のあちこちからざわめきが起こり、レイラはただ立ち尽くしていた。
「……なぜ、ですか?」
ようやく出た声はひどくか細く、レオンハルトはレイラを鼻で笑った。
「なぜだと?お前はのろまで何の役にも立たない。家事しかできず、社交の場でもろくに話せない。私の妻になる資格などない!」
忍び笑いが聞こえ、レイラは指を握り込む。
家事しかできないレイラの気持ちを誰も知ろうとしなかった。
「私はもっとふさわしい女性を選ぶ。エリシア、私と結婚してほしい」
レオンハルトはエリシアの前へ進み出てエリシアへ手を差し出した。
見下ろしたエリシアの表情には、華やかな笑みの奥にわずかな硬さがあったが、彼女はやがて手を重ねる。
「ええ。よろしいでしょう」
広間に歓声が上がり、レイラは二人を見つめた。
わたくしがここにいる意味はもうない。
「レイラ、これで終わりだ。二度と私の前に姿を見せるな」
レオンハルトが振り返り、レイラはゆっくり頭を下げた。
「……承知しました」
それだけ告げると、レイラは目にも留まらぬ速さで広間を後にした。
◇
屋敷へ戻ったレイラは、自室の鏡の前に立った。
母の形見である銀の髪飾りが、掌の中で冷たく光った。
婚約と居場所を失い、これまで耐えてきた日々はいったい何だったのだろう。
レイラはベッドの端に腰を下ろした。
「……私は、本当に役立たずだったのかしら」
問いかけに答える者はいない。
涙は出なかったが、胸の奥に空洞が広がっていく。
そのとき、扉が叩かれた。
「レイラ様。旦那様がお呼びです」
猛スピードで書斎へ向かうと、父は沈痛な面持ちで一通の書状を差し出した。
「ハイスピード家の当主、マッハ殿からだ。お前との面会を希望している。先方は正式な申し入れをしている」
レイラは疾走する馬の紋章が刻まれた書状を見つめた。
また誰かに選ばれるのか、それとも利用されるのか。
怖さはあったが、ここに残れば何も変わらない。
レイラは顔を上げた。
「お会いします。私自身の目で確かめたいのです」
◇
5分後、レイラはハイスピード家の屋敷を訪れた。
広大な敷地の門前で、金髪碧眼の青年が待っている。
「レイラ・タイムアタック嬢。来てくれてありがとう」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
マッハ・ハイスピード。
若くして名門の当主となった彼は、整った顔立ちに冷静な表情を浮かべていた。
「君の婚約破棄については聞いている。私は、君を哀れんで呼んだのではない」
マッハはレイラの目をまっすぐに見た。
「君が私の領地に必要な人材だと考えている。先ほど、君がおそろしい速さで空いた食器をまとめていたのを見た。私でなければ見逃してしまう。あれだけ速かったのに仕事の内容は正確だった」
レイラは息を呑んだ。
わたくしを見てくれていた人がいた。
「君は非常に手際がよく、その上細やかな気配りにも長けている。私はそういう人間を求めている。どうかここで働いてもらいたい。望むなら、婚約者として迎えることも考えている」
レイラは目を見開いた。
「どうするかは君が自分で選べ。と言いたいところだが、あいにく私は君を手放すつもりはないぞ」
マッハは一歩近づき、碧眼が揺るぎなくレイラを捉える。
レイラは俯いた。
今までわたくしを必要だと言ってくれる人はいなかったけれど、この男はわたくしの仕事を見ていた。
レイラは顔を上げる。
「……わたくしを、ここへ置いてください。もう一度、自分の力を試してみたいのです」
「分かった。歓迎しよう」
マッハは頷いた。
差し出された温かな手をレイラは取った。
◇
ハイスピード家に移って1時間後。
「食器の後片付けと屋敷中のお掃除が終わりました。他になにかお手伝いできることはございますか」
レイラは報告のため執務室に駆け込んだ。
報告を受けたマッハは驚き目を見開いた。
次の瞬間、その表情は思いがけない贈り物を受け取った子どものような喜びにほどけていった。
「さすがだな、私が見込んだ通りだ。今日はもう休め」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
レイラはすぐに部屋を飛び出した。
翌朝、長年見過ごされていたハイスピード家の倉庫の整理整頓が完了していた。
「まだ日も昇っていませんよ。まさかお嬢様、これを全部お一人で……?」
倉庫番の男が目を丸くする。
「昨夜皆さんに手伝っていただいたおかげです。私はさっきここに来たばかりで、ちょちょっと整理しただけです」
「整理しただけって……物が多すぎて何年かかっても片付かなかったんですよ! 大変でしたよね、もしかして寝てないとか……?」
男は頭を抱えた。
「大丈夫ですよ、今までで一番よく眠れました。お気遣いありがとうございます。それでは、わたくしは朝食の支度をしてきますね」
その日の午前中、マッハはレイラを執務室へ呼んだ。
「領地運営補佐、要するに私の助手としての仕事を君に任せたい」
「わたくしに、そんな大役を……」
「能力に見合った役職だ。君が自分を過小評価する必要はない」
レイラは指先を震えさせつつ笑った。
「嬉しいです、ありがとうございます」
「礼は働きで返してくれればいい」
「それなら得意です、お任せください!」
マッハの口元もわずかに緩む。
◇
一方、レオンハルトの領地では、異変が積み重なっていた。
「なぜ穀物が足りない!」
倉庫の前で怒鳴るレオンハルトに、家臣が震える声で答える。
「街道の修繕費を削ったため、輸送が滞っています。冬が来る前に補修しなければなりません」
「何とかしろ!」
机を叩いたレオンハルトは、ふとレイラの姿を思い出した。
「……あの女」
しかし、隣にエリシアがいる自分にはもう関係ない。
そう言い聞かせた直後、さらなる報告が届いた。
東部の街道でサメの目撃情報が増えている。
レオンハルトは紙を握り潰した。
「こんなはずでは……」
同じ頃、ハイスピード家の執務室では、レイラが新しい輸送計画を広げていた。
「わたくしは馬車より速く走れます。さすがに重いものや嵩張るものは難しいですが、軽いものや急ぎのものはわたくしが運ぶことで、冬の輸送量を三割ほど増やせます。もし倉庫の配置も変えてよろしければ、作業時間も短縮できます」
レイラは地図の上に指を滑らせた。
道と道がつながり、数字が整然と並び替えられていく。
マッハは静かに彼女を見た。
「レイラ、君は本当にすごいな」
レイラの胸の奥に温かなものが広がり、思わず手が止まった。
「……ありがとうございます」
窓の外では真昼の光が大地を白く染め、石畳の隙間から立ち上る熱気が、景色をかすかに揺らしていた。
まだ過去の傷は消えていないが、レイラは新たな人生を歩み始めていた。
遠く離れた山の向こうで、山ジョーズの群れがゆっくりと動き出していることを、レイラはまだ知らなかった。




