第6話:泥の匂いと鉄の音
第6話:泥の匂いと鉄の音
大手門の巨大な冠木門を潜った瞬間、悠真の鼻腔を突いたのは、生臭い湿土と、焼けた鉄、そして無数の男たちの汗が放つ圧倒的な体臭だった。
後ろ手に縛られたまま、与作と権六に左右から脇を固められて歩く悠真の目に映ったのは、彼が思い描いていた「戦国時代の城」とは根本的に異なる光景だった。
そこには、絢爛豪華な幟をなびかせた華やかさも、甲冑を纏った武者たちが整然と陣を敷く整粛さもなかった。広大な下郭全体が、まるで巨大な土木工事の現場そのものだった。
数百人の人夫や足軽たちが、半裸になって泥にまみれ、掛け声とともに巨木を引き揚げていた。「ソレ、引け! 押し上げろ!」という粗野な叫び声が飛び交い、太い麻縄がギチギチと音を立てて軋んでいる。脇では、鍛冶師たちが鞴を煽り、真赤に熱した鉄の板を大鎚で叩き打っていた。カン! カン! と耳を刺す高音が、山霊に反響して不気味に響き渡る。
さらに奥の曲輪では、石積み職人たちが楔を打ち込んで割った自然石を、牛に引かせて修復中の土塁へと運んでいた。牛の鼻から吹き出す白い吐息と、泥に塗れた車輪の軋み音。
歴史の教科書には描かれない、城を支える「日常の労働」の圧倒的な奔流に、悠真は眩暈を覚えた。
「ほら、もたもた歩くな! 塩田の頭がお待ちだぞ!」
与作が槍の柄で悠真の背中を突いた。悠真は泥に足を滑らせながら、下郭の一角に設けられた板敷きの平屋建ての番所へと引き立てられた。
番所の入口には、太い松の丸太で作られた長机が置かれ、その上には山積みの和紙や木簡、そして墨の入った器が並んでいた。
机の後ろに座っていた男が、悠真たちの足音に気づいて顔を上げた。
小頭・塩田であった。四十代半ばと思われるその男は、日に焼けた浅黒い顔に深い皺を刻み、鋭い目つきで悠真を凝視した。腰には刀とともに、細長い竹製の筆筒と帳面が挿されている。
「与作、権六。その奇妙な着物の奴は何だ。北の笹郭で見つけたのか?」
塩田の声は、長年の指示出しで潰れた低いダミ声だった。
「へい、塩田の頭! 北の山道でうろうろしておりやした! 南蛮の服を着て、妙な言葉を喋りやす。細川の隠密か、南蛮の妖術師かと」
与作が威勢よく報告すると、塩田は立ち上がり、ゆっくりと悠真に歩み寄った。
塩田は言葉を発せず、悠真の全身を品定めするようにじろじろと見回した。破れたダウンジャケットから覗く白い羽毛、ジーンズの生地、そしてスニーカーのゴム底。最後に、塩田の手が悠真の顔に伸ばされ、鼻先に乗っていた眼鏡をひっ掴むように奪い取った。
「あ……っ!」
視界が急激にボやけた。悠真は慌てて顔を上げたが、塩田は眼鏡を光にかざし、透明なレンズを不思議そうに指で弾いた。
「ガラスか。……ほう、こんな薄いガラスを平らに削るとは、南蛮の職人の技か。おい、こいつの持ち物を改めろ」
権六が悠真の肩から擦り切れた合成皮革の鞄を引ったくり、中身を板敷きの机の上にぶちまけた。
ノートパソコン、スマートフォン、ボールペン、和紙の史料コピー、大学のIDカード、そして宗方教授の緑色の測量野帳。
塩田はボールペンを拾い上げ、ノック部分をカチカチと押してみせた。先端から小さな鉄の芯が出し入れされるのを見て、微かに眉を動かした。次に宗方の野帳を開き、そこに書かれたびっしりとした細かな文字とスケッチを凝視した。
「……文字が書けるのか、お前は」
塩田が悠真を見据えて尋ねた。
悠真は眼鏡のない霞んだ視界の中で、必死で頷いた。
「はい! 書けます! 僕は……天野と申します! 細川の隠密ではありません! 昔の文献や文書を調べる研究者です! 害を与えるつもりは一切ありません!」
塩田は悠真の言葉を途中で遮るように、鼻で冷たく笑った。
「言葉が妙に丁寧だな。だが、細川の忍びでもなければ、南蛮の使者でもなさそうだ」
塩田は悠真の前に屈み込み、悠真の腕の皮膚を強い力で掴んだ。
「手にタコ一つねえ。弓を引いた痕も、刀を握った手脂もねえ。武士の腕じゃねえな。かといって、百姓の泥のついた爪でもねえ。お前、なんのために飯盛山へ入った。何を食べ、どう生きてきた奴だ?」
悠真は言葉に詰まった。
「現代の大学で非常勤講師をしていました」と答えたところで、この時代の人間に理解できるはずがない。手にタコもない、筋肉もない、生きるための直接的な労働をしてこなかった自分の軟弱な身体が、この男には一目で見抜かれていた。
権六が脇差を握り直した。
「頭、斬りましょうぜ。怪しい奴を生かしておく理由もございませぬ」
悠真の心臓が跳ね上がった。生きた心地がしなかった。ほんの一言、この塩田という男が頷くだけで、自分という人間はここで首を撥ねられ、歴史の闇へと消え去るのだ。
しかし、塩田は悠真の鞄から出てきたノートパソコンやボールペンを横目に触れ、小さく首を振った。
「斬るまでもない。……細川の隠密なら、もっとマシな体を送ってくるわ。ただの道に迷った奇妙な漂流者か、南蛮の落ちこぼれだろう。それにな、今斬ったら、血の始末と死体の処理で人手が余計にとられる」
塩田は悠真の胸元を力任せに小突き、後ろの兵糧庫を指差した。
「今、城内は阿波からの兵糧米の運び込みで手がいくらあっても足りんのだ。与作、そいつの縄を解け。米俵の搬入をやらせろ。一日働かせれば、嘘をついているか本気で役に立たない奴か分からぁ」
「へい! 逃げたら斬って良いですか?」
「構わん。一歩でも柵の外へ出たら、後ろから突け」
与作に荒縄を切られた悠真は、両腕の血が急激に通い始める痺れと激痛に呻きながら、下郭の兵糧蔵へと引き立てられた。眼鏡は塩田の手元に没収されたままで、世界はぼやけて見えた。
兵糧蔵の前には、数台の大八車(当時は板車や担ぎ担架)が横付けされ、そこにはぎっしりと米俵が積み上げられていた。一俵でおよそ四斗(約60キログラム)。現代の悠真が一度も持ったことのない重量だった。
「ほら! 何ぼさっとしてやがる、天野とやら! 担げ!」
与作が米俵を一つ、悠真の肩へ無理やり押し付けた。
「ぐああっ!?」
ズシリと膝に襲いかかる圧倒的な重さに、悠真の腰がくだけた。泥の中に激しく膝をつき、顔面から土に突っ込んだ。肩骨が粉砕されたかのような激痛が走り、呼吸が止まった。
「使えねえ奴だな! 腰を入れるんだよ、腰を! 足を開いて、重心を下に落とせ!」
与作が呆れ顔で悠真の背中を蹴り、コツを怒鳴りつけた。
悠真は泥を吐き出しながら、必死で歯を食いしばった。ここで「できません」と言えば、一秒後には背中から槍で突かれて死ぬ。生き残るためには、この米俵を持ち上げるしかなかった。
膝に力を込め、太腿の筋肉を断裂しそうな勢いで踏ん張り、どうにか米俵を肩に担ぎ直した。粗い麻縄の繊維がジャケットの上からでも肩に喰い込み、皮膚が擦り剥けるのが分かった。
一歩、また一歩と、ぼやけた視界の中で泥を踏みしめて歩く。
十歩歩いただけで、全身から滝のような汗が吹き出し、視界が真っ赤に染まった。肺が焼けつくように痛い。
だが、二俵、三俵と運ぶうちに、悠真の頭の中で冷たい研究者としての観察眼が目覚め始めていた。
周りを見渡すと、足軽や人夫たちはただ無闇に働いているわけではなかった。
兵糧蔵の入口には別の奉行が座り、運ばれてくる米俵の「極印(刻印)」を確認し、木簡に筆で数字を刻んでいた。「阿波国那賀郡より三十俵」「讃岐十河領より五十俵」……。運ばれた米は即座に分類され、湿気を防ぐための嵩上げされた敷木の上に整然と積み上げられていく。
さらに、兵糧を運んできた船頭や商人に対し、奉行は領主の手形(受領書)を渡し、堺で銭に換金するための「預かり証」を発行していた。
それは、完璧にシステム化された「物流と会計の現場」だった。
悠真は肩の激痛に耐えながら、息を荒らげて思った。
歴史の教科書や小説では、戦国時代といえば「合戦」と「裏切り」ばかりが強調される。しかし、現実は違う。この城を動かしているのは、朝から晩まで米を運び、数を勘定し、木簡に記録を記し続ける、名もなき仕事人たちの「労働」なのだ。
三好長慶という天下人は、この莫大な労働と計算の頂点に立ち、国家という巨大な機械を回し続けているのだ。
「おい天野! 手を休めるな! あと五十俵入ってくるぞ!」
与作の叫び声が響いた。
悠真は泥に塗れた顔を上げ、汗で濡れた手で次の米俵に手をかけた。激痛と疲労の中で、悠真は自分が生きていること、そして四百年前の「現場」の中に自分自身が組み込まれたことを、痛烈なまでの実感として噛み締めていた。




