第7話:巨城の日常
第7話:巨城の日常
夕闇が飯盛山の曲輪群を包み込む頃、悠真の肉体は完全に限界を迎えていた。
両手のひらの皮が擦り剥け、生血と黄色い組織液が混ざり合って泥とこびりついていた。肩の筋肉は破裂しそうなほど赤紫に腫れ上がり、一歩足を踏み出すたびに背骨から腰にかけて刺すような激痛が走る。
「おい、天野とやら。そこまでにしろ」
兵糧蔵の陰から現れた塩田が、低く声をかけた。塩田の手には、昼間に没収された悠真の眼鏡が握られていた。塩田は眼鏡を悠真の胸元へ無造作に押し戻した。
「頭……これは……」
「持っていけ。下郭の作業は終わりだ。……お前の鞄の中から出てきた『道具』と『紙』について、二の丸のお方がお改めになる。ついて来い」
悠真は震える指先で眼鏡を受け取り、泥を袖で拭って耳にかけた。
歪んでいた世界が、一瞬で鮮明な輪郭を取り戻した。
山肌に沿って幾重にも築かれた高石垣、整然と並ぶ多門櫓、そして本丸へと続く急勾配の木造階段。暮れなずむ空を背景に浮かび上がる飯盛城の威容が、悠真の目に焼き付いた。
塩田の後をついて二の丸へと続く長坂を登る。
下郭の泥と汗と怒号の充満する工事現場とは一転し、二の丸の郭内に入ると、空気の質が劇的に変わった。
そこには、青々とした新しい畳の匂いと、静謐な張りつめた気が満ちていた。平屋建ての巨大な建造物——二の丸の評定衆詰所であった。
塩田が重い引き戸を開け、悠真を中へと促した。
悠真は息を飲んだ。
広大な百畳ほどの広間に、三十人を超える武士たちが整然と座していた。
彼らは甲冑を着ていなかった。質の良い小袖や羽織を身に纏い、灯火の油皿が発する橙色の光の下で、ひたすら手元の紙面に向かっていた。
部屋全体を支配していたのは、独特の音と匂いだった。
パチ、パチ、パチ、パチ。
算盤の珠が弾かれる乾いた甲高い音が、規則正しく響いている。中国から伝来したばかりの大型の大黒算盤を、奉行たちが熟練した指つきで弾いているのだ。
サ、サ、サ、サ。
太い筆が和紙の表面を滑り、墨を擦りつける音が絶え間なく重なり合う。
そして、部屋全体に濃密に立ち込める、磨り下ろされたばかりの墨の芳しい匂いと、乾燥した和紙の匂い。
そこは、現代の省庁の執務室や大企業の巨大なオフィスそのものであった。武功を競う戦場ではなく、計算と文書によって畿内九ヶ国を統治する「巨大な行政中枢」の現場だった。
「塩田か。……それが例の、北の山道で捕らえたという奇妙な男か」
広間の上段、一段高く設えられた文机の前から、一人の男が顔を上げた。
三十代後半と思われるその男は、隙のない整った身なりをし、切れ上がった鋭い目つきで悠真を凝視した。額が広く、知的な眉根を寄せていた。腰には朱塗りの鞘の脇差を差し、手には手垢で黒ずんだ大きな三好家の朱印判を握っていた。
岩成主税助友通——後に三好三人衆の一人として歴史に名を刻む、三好政権の最高幹部・行政官であった。
「へい、岩成様。下郭で米俵の運び込みをやらせましたが、体はまるで使いものになりませぬ。ですが……鞄の中身が怪しゅうございますので、お届けいたしました」
塩田が深々と頭を下げ、悠真の鞄を友通の文机の横へと置いた。
友通は机の上に並べられた悠真の持ち物——ボールペン、印刷された史料コピー、そしてノートパソコンを指先で慎重に触れた。
友通の目が留まったのは、悠真が大学の講義用に作成したA4のプリント(三好家領国における関銭徴収一覧表)だった。そこには、和紙の古文書を解読して現代の表組みに直した数字と、アラビア数字による計算式が精緻に印刷されていた。
友通はプリントを持ち上げ、灯火にかざした。
「……文字の印刷か。南蛮の活版のようでもあるが、紙が異様に薄く、白い。そして、この横に並んだ奇妙な記号は何だ?」
友通がアラビア数字(1, 2, 3……)を指差した。
悠真は膝をついたまま、頭を下げて答えた。
「……それは、数を示す記号です。遠い土地で使われている計算のための文字でございます」
友通は眉を微かに動かした。
「数だと? カンジの漢数字ではなくか」
友通は文机の上から、一枚の白紙の和紙と、墨のたっぷり含ませた筆を取り出し、悠真の目の前に差し出した。
「お前、文字が書けると言ったな。この計算をしてみせろ」
友通は脇の奉行から差し出された一枚の調書を読み上げた。
「河内国交野郡の三つの村から納められた作徳米(年貢米)。一番の村は百二十石四斗。二番の村は八十五石六斗。三番の村は六十四石二斗。……ここから、関銭として一石につき三分、さらに兵糧引きとして全量の二分を控除した残りの米の総量は幾らになる。……奉行の計算では、二百五十五石四斗と出ているが、合っているか」
周囲の奉行たちが一斉に筆を止め、悠真に視線を注いだ。
当時の計算は極めて複雑だった。一石=十斗=百升の三進・十進が交ざり合う単位換算に、パーセンテージ(分)による控除を、算盤を用いて弾き出すのは熟練の奉行でも時間がかかる作業だった。
悠真の頭の中で、研究者としての血が激しく脈打った。
(これは試験だ。ここで正解を出せなければ、僕はただの怪しい不法侵入者として処分される!)
悠真は差し出された筆を握り締めた。手が震えたが、指先に力を込めた。
和紙の上に、筆先で素早く縦横の罫線を引き、アラビア数字で数値を書き並べた。
百二十点四、八十五点六、六十四点二。合計、二百七十点二石。
そこから関銭三分(3%=八点一〇六石)と兵糧引き二分(2%=五点四〇四石)、合計五分(5%=十三点五一石)を控除する。
二百七十点二マイナス十三点五一。
悠真は現代の算術の筆算を用い、わずか三十秒ほどで答えを導き出した。
悠真は筆を置き、友通を見上げてはっきりと告げた。
「……奉行様の計算は間違っております。正しくは、二百五十六石六斗八升でございます。一石二斗八升、奉行様の計算の方が少なくなっております」
広間が、静まり返った。
算盤を弾いていた奉行たちから、小さなざわめきが漏れた。先ほど計算を担当した若手奉行が顔を青くし、慌てて算盤の珠を弾き直した。
数分後、若手奉行の手がピタリと止まり、額から汗を噴き出させながら友通に向かって平伏した。
「い……岩成様!……申し訳ございませぬ! この者の言う通りでございます! 私の算盤の珠の置き違いで、一石二斗八升の誤差が出ておりました……!」
広間の空気が、一変した。
友通は悠真が和紙に書いたアラビア数字と筆算の痕跡を凝視した。その目から、怪しむような色は消え、代わりに深い驚愕と知的関心が浮かび上がっていた。
「……わずか数息の間で、算盤も使わずに一石の誤差を見抜いたというか。この奇妙な数記号を使ってか」
「はい。この書き方を用いれば、計算の過ちを後から目で確かめることも容易でございます」
悠真は必死で訴えた。
友通はゆっくりと立ち上がり、悠真の前に歩み寄った。友通は悠真の泥と血に汚れた手を取り、その細い指先とつぶれた血豆をじっと見つめた。
「手は武士のものでも百姓のものでもない。だが……その頭の中には、十人の奉行に匹敵する算術と文字の知恵が入っているわけか」
友通は塩田に向かって振り向いた。
「塩田。この男の下郭での作業を解く。今日より、二の丸の右筆補佐として召し抱える。着替えと部屋を与えよ」
「はっ……! 岩成様、よろしいのですか?」
「構わん。我が三好家が求めているのは、刀を振り回すだけの猪武者ではない。国を止めずに動かす、文字と算術のできる人間だ」
友通は悠真を見下ろし、口元に微かな笑みを浮かべた。
「天野と言ったな。明日から二の丸で帳面をつけろ。間違いは許さんぞ」
悠真は畳に額をこすりつけ、深く頭を下げた。
安堵の思いと同時に、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
現代社会では、何一つ評価されず、非常勤講師のコマ数すら奪われかけていた自分が。
この四百年前の戦国時代において、自分の積み重ねてきた「歴史と文字の知識」によって、命を救われ、居場所を与えられたのだ。
広間には、再び算盤のパチパチという音と、筆が和紙を撫でるササという音が響き始めていた。
灯火の揺れる光の中で、悠真は自分が歴史の傍観者から、三好政権という巨大な行政国家の「当事者」へと一歩を踏み出したことを、深く噛み締めていた。




