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消された天下人〜歴史から消えた男と、消えかけた男〜  作者: チャプタさん


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第5話:霧の中の足音

第5話:霧の中の足音


 頬を突く冷たさと、強烈な生の土の匂いで、天野悠真は意識を取り戻した。

 視界を埋めていた真っ白な光が引き去り、代わりに目の前に広がっていたのは、黒く湿った泥と、腐りかけた落ち葉の層だった。口の中にジャリッとした不快な砂の感触が広がり、激しくむせ返った。

「う、あ……」

 悠真は両手を泥に突き、必死で身体を起こした。全身が氷水に浸かったように冷え切っていた。ダウンジャケットのナイロン生地は、水を含んだ黒泥でドロドロに汚れ、お気に入りのスニーカーは原形をとどめないほど泥に没していた。

 メガネのレンズが白く曇っていた。服の袖でレンズを拭い、周囲を見回した悠真は、その場で息を詰まらせた。

 さっきまでそこに存在していたはずの、木製のハイキングコースも、黄色い虎ロープも、整備された階段も、すべて跡形もなく消え去っていた。

 代わりに広がっていたのは、太い赤松やカシの巨木が鬱蒼と生い茂る、見渡す限りの原生林だった。木々の間には、綿のように分厚い灰白色の朝霧が低く立ち込め、数十メートル先すら見通せない。下界に見えていた大阪平野のビル群も、送電線のタワーも、車道の音すらも完全に消滅していた。残されているのは、湿った風が葉を揺らすサワサワという音と、遠くで聞こえる山鳥の不気味な鳴き声だけだった。

「な……なんだ、ここは……どうなっているんだ」

 悠真は震える手でポケットを探り、スマートフォンを取り出した。画面の電源ボタンを押すが、液晶には粗い砂嵐のようなノイズが一瞬走っただけで、そのまま怪しく明滅してフリーズした。電波のピクトアイコンは完全な圏外を示しているどころか、端末の時計すら「00:00」を指して停止していた。

 現実感が急速に削ぎ落とされていく。

 悠真は立ち上がろうとしたが、足元が滑り、再び泥の中に膝をついた。その時だった。


 朝霧の奥から、湿った土を踏み荒らす足音が近づいてくるのが聞こえた。

 ザクッ、ザクッ、ザクッ。

 それは一人の足音ではない。大勢の人間が、重い荷を担ぎながら泥道を力任せに歩いてくる音だった。足音に混じり、荒い吐息と、かすかな金属の触れ合うカチャカチャという乾いた音が届く。

「誰か……誰かいるのか!?」

 悠真は救いを求めるように声を張り上げた。

 霧が割れ、木々の隙間から人影が姿を現した。

 悠真の思考が、完全に停止した。

そこに現れたのは、現代の登山客でも、警察官でもなかった。

先頭に立っていたのは、身の丈五尺(約150センチ)ほどの小柄だが筋肉質の男だった。頭には粗末な黒塗りの竹陣笠をかぶり、日焼けして真っ黒に垢じみた顔には、数本の深い擦り傷が走っている。胴には、煤けた竹と粗末な鉄板を紐で綴り合わせた素懸けの腹当を巻き、股立(ももだち)を高く取った汚れた木綿の袴から、毛深い脚が丸出しになっていた。足元は泥塗れの草鞋である。

 その男の手に握られていたのは、長さ一丈(約3メートル)を超える長い竹柄の素槍だった。先端の鉄の穂先が、薄い朝日に濡れて鈍い鈍色に光っている。

 男の後ろから、同じような粗末な身なりの男がもう一人、竹束を背中に担いで姿を現した。

「……誰だ、貴様は!」

 先頭の男が、粗野で低い声を張り上げた。言葉には、現代の大阪弁とは異なる、独特の崩れた畿内方言の訛りがあった。

男は槍の穂先を悠真の胸元にピタリと向け、すり足で泥を踏みしめながら近づいてきた。後ろの男も竹束を泥の上にドサリと下ろし、腰の脇差の柄に手をかけた。

「あ……あ……」

 悠真は声が出なかった。

 目の前の男たちから漂ってくる匂いが、あまりにも生々しかった。長期間風呂に入っていない人間の強烈な汗の臭気、濡れた藁の匂い、安っぽい煙の匂い、そして刺すような体臭。時代劇の衣装とは根本的に異なる、生身の人間が泥と血の中で生きている「匂い」そのものだった。

「与作どん、こいつは何だ? 異人か? 南蛮のバテレンみてえな妙な着物を着てやがるぞ」

 後ろの男——権六と呼ばれた若者が、悠真の羽毛ジャケットと合成ゴムのスニーカーを指さしながら、怯えと好奇心が混ざった目で見つめた。

「黙ってろ権六。細川の隠密かもしれん。……おい、動くな! 動いたら突くぞ!」

 与作が槍柄を前に突き出した。穂先の刃先が、悠真のダウンジャケットの胸元に押し当てられた。

 プチリ、という小さな音とともに、ナイロン生地が呆気なく切れ、中から白鳥の羽毛が数根、朝霧の中に舞い散った。

 悠真の全身の毛穴が一斉に開いた。

本物の鉄だ。研ぎ澄まされた刃物だ。刃先には細かな刃零れがあり、そこには乾いた赤黒い錆のようなものが付着していた。それが本物の血液の痕であることを、悠真の直感が理解した。

「待ってください! 僕は隠密じゃありません! 天野と言います! 大学の……いや、歴史の研究者で、飯盛城の調査をしていて!」

 悠真は両手を上げ、必死で現代語で叫んだ。

だが、与作と権六は互いに顔を見合わせ、さらに警戒を強めただけだった。

「ダイガク? イチシ? 何をたわけた事をぬかしておる。妙な言葉を使いおって……やはり南蛮の妖術師か、細川の放った忍びか!」

「与作どん、斬っちまいましょうぜ! 筑前様が飯盛山にお入りになってから、山の中は警戒が厳しいんだ。変な奴を生かしておいて、後でわしらが叱責されたら叶いませぬ!」

 権六が脇差を抜き放った。鈍い鉄の刀身が、シャリという音を立ててサヤから滑り出る。

「待て、勝手に殺せば塩田の頭に怒られる。縄をかけろ! 本丸の奉行所へ引っ立てて、取り調べてもらう!」

 与作が叫ぶと同時に、権六が泥を跳ね返して悠真に飛びかかってきた。

「うわっ!?」

 悠真は逃げようとしたが、泥に足を取られて無様に転倒した。権六の硬い膝が悠真の背中にドスンと乗り、強烈な衝撃で肺の中の空気が吐き出された。

「がはっ……!」

「おとなしくしやがれ、この妙な服の奴め!」

 権六は悠真の腕を後ろ手にねじ上げ、腰から外した太い太麻の荒縄を容赦なく首と手首に巻き付けた。

 縄の粗い繊維が、悠真の皮膚を激しく擦りむいた。ザラザラとした麻の痛みと、ギチギチと締め上げられる圧迫感が腕に奔る。現代の安全な世界で生きてきた悠真にとって、純粋な「暴力」と「捕縛」の痛みは、脳を直接殴られるような衝撃だった。

「立て! 立てねえか!」

 与作が悠真のジャケットの首元を掴み、力任せに引き起こした。

 悠真は膝をガクガクと震わせながら、どうにか立ち上がった。両腕は後ろ手に固く縛られ、動かすこともできない。

「歩け! 妙な真似をしてみろ、後ろから突くぞ!」

 与作が槍の柄で悠真の背中をガツンと叩いた。重い木柄の衝撃が脊椎に響き、悠真は悶絶しそうになりながら前へ足を踏み出した。

 泥道を歩かされながら、悠真の頭の中は激しいパニックと、一筋の冷たい現実認識が交錯していた。

南蛮の服。細川の隠密。塩田の頭。筑前様。飯盛山。

それらの単語が、悠真の頭の中で知識のデータベースと合致していく。

筑前守——三好長慶。

細川——かつての管領・細川晴元の一派。

永禄三年(1560年)、三好長慶は河内・畠山高政を破り、飯盛山城を修復して新たな居城とした。まさにその時期、飯盛山は反三好勢力である細川方や畠山方の隠密を警戒し、厳重な戒厳体制下に置かれていたはずだった。

「う、嘘だ……そんなはずがない……タイムスリップなんて……映画や小説じゃあるまいし……」

 悠真はつぶやいたが、縄が皮膚を酷く締め付ける痛みも、鼻をつく泥と汗の匂いも、背中に押し当てられている鉄の槍先の冷たさも、すべてが圧倒的な「現実」だった。

「おい、与作どん。筑前様が昨日お入りになってから、本丸の奉行衆はてんてこ舞いらしいぜ。年貢の勘定だの、城下の関銭の改定だので、夜も明かりが消えねえってよ」

「当たり前だ。筑前様は畿内九ヶ国をお治めになるお方だぞ。そこらの田舎領主とは格が違うんだ。わしら足軽だって、粗相をしたら即首が飛ぶんだからな」

与作と権六が、悠真のすぐ後ろで交わしている会話。

それは、歴史書の行間からでは絶対に読み取ることのできない、戦国時代の生身の人間たちの日常の会話だった。

悠真は息を乱しながら、泥だらけのスニーカーで山道を登らされていた。

朝霧が少しずつ薄れ、木々の隙間から、巨大な山城の威容が姿を現し始めていた。

山肌を削り取って作られた何重もの郭。土嚢と木柵で厳重に補強された土塁。そして、そのあちこちから立ち上る、兵糧を炊く煙と、武具を修繕する金槌の音。

そこは、四百年前の戦国時代——三好長慶が天下を統治していた、飯盛山城そのものだった。

悠真は自分の置かれた圧倒的な恐怖と同時に、歴史研究者としての深い戦慄を覚えていた。自分は、歴史の教科書を読む存在から、歴史の「現場」の中に投げ込まれてしまったのだ。

「ほら、見えてきたぞ。大手門の検問所だ。塩田の頭に渡して、お前の正体を暴いてもらうからな!」

与作の手が、悠真の肩を強く押し弾いた。悠真は足をもつれさせながら、黒い巨大な木造の大手門に向かって、泥の中を進んでいった。

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