第4話:飯盛山の石垣
第4話:飯盛山の石垣
十一月下旬の早朝の空気は、刃物のように冷たく尖っていた。
JR学研都市線の四條畷駅で電車を降りた天野悠真は、擦り切れた合成皮革の鞄を肩にかけ直し、四條畷神社の長い石段を見上げた。鳥居の向こうに聳える飯盛山は、赤や黄に色づいた雑木林の衣を纏い、朝靄の中に静かにその山容を横たえていた。
境内の玉砂利を踏みしめる音だけが、静寂の中に響く。神社横の登山道入口には『国史跡・飯盛城跡ハイキングコース』と書かれた比較的新しい木製の案内板が立っていた。案内板には、三好長慶のイラストとともに、飯盛城が畿内を掌握した巨大山城であった旨が簡略に説明されている。
悠真はその案内板の前で足を止め、薄く息を吐き出した。白く染まった吐息が、冷気に溶けて消えていく。
「……観光地の史跡か」
呟いた声には、自嘲のの色が混じっていた。
一般の登山客や歴史ファンが訪れ、山頂の楠木正行の銅像を見上げ、眼下に広がる大阪平野の眺望を楽しんで帰っていく。それが、現代社会における飯盛城の受容のされ方だった。そこに、莫大な帳面を精読し、夜遅くまで文書の発給に追われていた三好長慶の泥臭い生の痕跡を感じ取る者はほとんどいない。
悠真はコートのポケットに手を突っ込み、宗方教授の緑色の測量野帳の感触を指先で確かめた。ハードカバーの角が、悠真の掌に固く押し当てられる。
山道に入ると、舗装されたアスファルトは途絶え、湿った粘土質の土と、積もったクヌギやコナラの落ち葉が足を捉えた。サクサクと落ち葉を踏み鳴らしながら、悠真は一人山を登り始めた。
勾配が急になるにつれ、悠真の息が荒くなった。運動不足の足腰が悲鳴を上げ、膝が微かに笑い始める。太腿の筋肉が張り、額から冷や汗が酷く吹き出した。だが、悠真は足を止めなかった。肉体の苦痛が、かえって胸の奥を吹き荒れる孤独と敗北感を一時的に忘れさせてくれた。
恋人に去られ、大学でのポストを失い、出版社から研究を全否定された自分には、もう戻るべき場所などどこにもなかった。この山のどこかに眠っているはずの「答え」に辿り着かなければ、自分という人間はただの灰となって消え去るだけだった。
一時間ほど登り、史跡整備された千畳敷郭の広場に出た。
広場には木製のベンチが並び、眼下には霞んだ大阪のビル群が広がっていた。遠く遠方に淀川が白く光り、近畿自動車道を走るトラックの微かな走行音が、風に乗って低く届いていた。
悠真はベンチに座り込まず、ポケットから宗方の野帳を取り出した。
ページを繰り、宗方が最期にスケッチを残した『北郭・高櫓下の急斜面』のページを開く。
通常のハイキングコースは、千畳敷から山頂の楠木正行像へ向かう主郭ルートに伸びている。宗方が書き残した場所は、その整備されたルートから完全に外れ、北側の断崖へと滑り落ちる急斜面の先だった。立ち入り禁止の木杭が打たれ、黄色い虎ロープが張られている。
悠真は周囲を見回した。早朝の山中に、他の登山客の姿はなかった。
悠真は意を決し、黄色いロープを跨ぎ越えた。
ロープの向こう側は、人が足を踏み入れなくなって久しい鬱蒼としたシダ植物とササの群落だった。湿った土の匂いと、腐敗した倒木の匂いが急激に濃厚になる。靴底が腐葉土に深く沈み込み、油断すると滑り落ちそうになる傾斜だった。
雑木林の枝が悠真のコートを引っ張り、顔にカシの葉が掠れた。悠真は両手で木の幹を掴み、泥にまみれながら斜面を慎重に下っていった。
「……どこだ。先生は何を見たんだ」
息を乱しながら、野帳のスケッチと目の前の地形を見比べる。
急斜面を五十メートルほど下ったところで、突如として視界が開けた。
そこは、山背の影になった薄暗い凹地だった。太陽の光が届かず、冷ややかな湿気が淀んでいる。その凹地の奧、巨大な赤松の根元に、それはひっそりと佇んでいた。
石垣だった。
悠真は息を呑み、足止めた。
長さ十メートル、高さ三メートルほどの小規模な石垣の面。表面は分厚い緑の苔に覆われ、シダの葉が網の目のようにへばりついていた。一見すれば、飯盛城の各所に残る、自然石をそのまま積み上げた典型的な野面積みの石垣に見えた。
だが、悠真が目を見張ったのは、その石垣の中央やや下部に配置された、一つの大きな角石だった。
悠真は吸い寄せられるように石垣へと歩み寄った。シダをかき分け、膝を泥に染めながら、その角石の前にかがみ込んだ。
ポケットからハンカチを取り出し、石の表面を覆っていた分厚い苔を夢中で削ぎ落とした。
湿った苔が剥がれ落ち、露わになった石の表面を見た瞬間、悠真の背筋に冷たいものが走った。
「……な、なんだこれは」
その角石には、明らかに人工的に穿たれた四角い窪み——『矢穴』の跡が残っていた。石を割り出すために楔を打ち込んだ、加工の痕跡だった。
悠真の手が激しく震えた。歴史研究者としての知識が、頭の中で鋭い警報を鳴らしていた。
矢穴技法を用いて石垣の角石を加工する技術が普及したのは、織田信長が安土城を築城した天正年間以降、あるいは豊臣期の大坂城築城以降のことである。三好長慶が飯盛城を居城とした永禄年間の石垣は、加工を施さない自然石を組み直す野面積みが主流であり、このような整然とした矢穴跡を持つ加工石が使われるはずがなかった。
だが、この石垣の積み方は、間違いなく三好期の古い野面積みの構造の中に完全に組み込まれていた。後から誰かがこの石だけを嵌め込んだのではない。石垣全体が、この加工石を中心に組み立てられているのだ。
「年代が合わない……。永禄の技術の中に、織豊期の技術が混ざっている……」
悠真は宗方の野帳を開いた。宗方の万年筆の文字が飛び込んでくる。
『年代が合わない。永禄年間の三好期の技術ではない。かといって豊臣期の改修でもない。加工の痕跡があまりに新しく、かつ、古すぎる。まるで……時代と時代の隙間から落ちてきたような不連続感。昨日まで、こんな石はここに存在しなかったはずだ』
宗方の観察は、完璧に正しかった。
この石垣は、考古学的にも歴史学的にも、存在してはならない「歪み」そのものだった。
「先生……あなたはこれを見たから……」
悠真は震える指先で、矢穴の刻まれた角石の表面に触れた。
石は、氷のように冷たかった。しかし、その冷たさの奥底から、微かな、本当に微かな「振動」のようなものが、悠真の指腹を通じて伝わってきた。
まるで、巨大な機械が深層で唸りを上げているかのような、低い脈動。
その瞬間だった。
突如として、悠真の耳から全ての「音」が途絶えた。
風が木々を揺らす音も、頭上で鳴いていたカラスの声も、遠くの高速道路を走る車のエンジン音も、潮が引き去るように一瞬で消え去った。完全なる、圧倒的な沈黙。自分の鼓動の音すら聞こえなくなるほどの、不気味な無音の世界。
「……え?」
悠真が驚いて顔を上げたとき、光の性質が変わっていた。
冬の朝の澄んだ太陽の光が消え、視界全体が乳白色の濃厚な「霧」によって覆い尽くされつつあった。霧は地面から沸き上がるように急速に立ち込め、周囲の雑木林の姿を一つ、また一つと白い闇の中に呑み込んでいく。
温度が急激に下がった。吐く息が一瞬で真っ白になり、肌に触れる空気に湿った泥の匂いと、焦げた薪の匂いが混ざり始めた。
足元の感触が変わる。
踏みしめていた腐葉土の柔らかさが消え、滑らかな、水を含んだ粘土質の粘り気のある泥へと変化していく。悠真の履いていたスニーカーが、ズブリと重い泥の中に深く沈み込んだ。
「な、なんだ……何が起きているんだ!?」
悠真は慌てて引き返そうと足を動かしたが、泥がまとわりついて自由が利かない。視界は完全に濃霧に閉ざされ、前後左右の感覚すら失われていた。
耳の奥で、キーンという激しい高音が響き始めた。
その高音の向こう側から、掠れた「音」が聴こえてきた。
ザッ、ザッ、という、大勢の人間が重い足取りで湿った土を踏み鳴らす音。
カサ、カサ、という、乾いた和紙を乱雑に繰る音。
カン、カン、という、遠くで鉄と鉄が打ち合わされる甲高い音。
そして、低い男たちの怒号と、吐息の音。
それらは現代の山には存在し得ない、生々しい「生活と労働の気配」だった。
悠真は目眩に襲われ、膝をついた。両手が冷たい粘土質の泥の中に没する。泥の中から、古い墨の匂いと、生臭い汗の匂いが立ち上ってきた。
「あ……ああ……」
頭痛が悠真の脳を割るように襲った。
石垣の表面に触れていた右手が、激しい熱を帯び始めていた。矢穴の刻まれた石垣が、まるで生き物のように湿り気を帯び、悠真の手を内側へと引き込もうとしているかのようだった。
宗方の言葉が、頭の中で旋風のように吹き荒れた。
『史料を信じるな。史料を書いた人間を読め。我らを忘れるな、と声が聞こえる。忘れ去られた者たちの生が、あそこに集積している』
濃霧の向こう側から、巨大な「影」が悠真に向かって倒れ込んでくる感覚があった。
現代という時代の輪郭が、溶け去っていく。自分が積み重ねてきた三十二年間の時間が、足元の泥の中に解け出していく。
悠真は叫ぼうとしたが、喉が引きつり、声にならなかった。視界が真っ白な光の中に塗り潰され、悠真の意識は深い、底のない暗闇へと急速に落下していった。石垣に触れた右手残った、和紙のザラザラとした感触だけが、悠真の途切れゆく意識の中に強く刻まれていた。




