第3話:消えた名前
第3話:消えた名前
国道沿いに面したファミリーレストランの二人掛けテーブルには、冷え切ったふたつのコーヒーカップが並んでいた。表面に浮いた乏しい油脂の膜が、天井の蛍光灯の白々しい光を反射して、歪んだ七色に光っている。
ドリンクバーの機械が定期的に吐き出すブザー音と、隣のボックス席から聞こえる幼い子供の歓声が、天野悠真の耳の奥を不快に叩き続けていた。
「……ごめんね、悠真さん。私、もう待てないと思う」
佐々木葵は、自身の細い指先でグラスの結露をなぞりながら、静かにそう言った。声に感情の大きな波はなかった。それがかえって、彼女の中で答えが完全に固まり、二度と覆らないところまで結晶化していることを物語っていた。
悠真は両手を膝の上で固く握りしめた。黒いスラックスの生地越しに、かじかんだ自分の指の冷たさが伝わってくる。
「葵……もう少しだけ、時間が欲しいんだ。今書いている論文が評価されれば、来期の専任の公募で面接に残れる可能性がある。宗方先生も、僕の研究を高く評価してくれていて——」
「宗方先生は、先週亡くなられたんでしょ?」
葵の短い言葉が、悠真の言葉をナイフのように遮った。
葵は視線を上げ、まっすぐに悠真の顔を見た。彼女の瞳には、かつて悠真の研究への情熱を眩しそうに見つめていた頃の温もりは消え失せ、ただ冷徹な現実を映し出す薄い膜のようなものが張られていた。
「宗方先生が亡くなって、悠真さんを庇ってくれる人は大学にもう誰もいない。それくらい、私にだってわかるよ。悠真さんは『研究』って言うけれど、三十二歳にもなって非常勤のコマ数で毎月の家賃に怯えて、いつ打ち切られるか分からない公募のために、私との未来を先送りし続けるの? 私だって、普通に生活がしたい。友達みたいに、休日に買い物をしたり、将来のことをちゃんと考えたりしたいの」
悠真は口を開きかけたが、声にならなかった。
喉の奥がカラカラに乾き、舌が上顎にへばりついて動かない。葵の指摘は、一つとして間違っていなかった。
葵は大手総合商社の事務職として、着実にキャリアと貯金を重ねていた。彼女が身につけている上質なウールのコートや、整えられた指先を見るたび、悠真は自分が古文書の埃と湿気の中に置き去りにされた、過去の遺物であるかのような惨めさを抱いていたのだ。
「悠真さんの情熱は尊敬してる。嘘じゃないよ。一つのことにそこまで打ち込めるのは、すごいと思う。でもね……世間はそんなもの、誰も求めてないんじゃないかな。誰も知らない昔の人の名前を調べるために、悠真さんが自分の人生を削っていくのを、私はもう見ていられない」
葵はテーブルの脇に置かれていた伝票を静かに手に取った。
「今日は私が出しておくね。荷物、アパートに残ってるのは近いうちにまとめて引き取るから。……体に気をつけてね、悠真さん」
葵は一度だけ深く深く会釈をし、立ち上がった。ベージュのコートの裾がひらりと揺れ、彼女の愛用していた柑橘系の淡い香水が、一瞬だけ悠真の鼻腔を掠めた。
自動ドアがひらく音がして、葵の姿が国道沿いの夜の街灯の中に消えていった。
悠真は残された冷えたコーヒーを口に含んだ。エグみの強い苦みだけが、舌の表面にねっとりと残った。自分という存在が、彼女の人生の記憶から静かに擦り落とされたことを、悠真は確信していた。
それから二時間後、悠真は神田神保町の裏通りにある古びた喫茶店の奥の席にいた。
壁には煙草のヤニで黄ばんだ古い絵画が掛けられ、卓上の灰皿には使い古されたマッチ擦りが置かれている。悠真の目の前に座っていたのは、歴史書の専門出版社『青史書房』のベテラン編集者、津田であった。
津田は分厚い眼鏡の奥の目を細めながら、悠真が持ち込んだA4用紙五十枚におよぶ企画書『三好政権下における畿内行政機構の展開とその構造』を手元でパラパラと繰っていた。指先で紙面を撫でる音が、喫茶店のジャズの音量にかき消されるように響く。
「天野さん、ご足労いただいて申し訳ない。……で、結論から言ってしまうとね、この企画、うちの企画会議では通せませんでした」
津田は申し訳なさそうに眉をひそめ、企画書を丁寧に揃えて悠真の前へ押し戻した。
悠真は身体を前に乗り出した。両手がテーブルの上の木目に強く押し付けられる。
「津田さん、なぜですか! 以前お話しした時、三好長慶の行政文書に関する新しい視点なら、単行本として一石を投じられるとおっしゃっていたじゃないですか。長慶は信長に先駆けて堺を保護し、高度な官僚制と合用システムを構築した人物です。既存の戦国史観を塗り替える一冊になります!」
津田は小さくため息を吐き、水の入ったグラスに視線を落とした。
「天野さん。専門書として論文集で出すなら、それは素晴らしい研究だと思いますよ。だがね、うちは出版社なんです。本を刷って、書店に並べ、買ってもらわなきゃ会社が潰れるんです」
「買ってもらえます! 長慶の実像を知れば、読者は——」
「読まないんですよ、誰も」
津田の声が、静かだが決定的な重みを持って悠真の言葉を切り裂いた。
「いいですか、天野さん。今の歴史本市場で売れるのは何だと思います? 織田信長、徳川家康、武田信玄、せいぜい上杉謙信です。読者が求めているのは、分かりやすい英雄のドラマなんですよ。一騎当千の武将が敵を打ち破り、天下を奪う物語です。……『三好長慶』という名前を出して、一般の読者のうち何人が顔を思い浮かべられますか? 百人に一人もいませんよ」
「知られていないからこそ、書く価値があるんじゃないですか!」
悠真の声が思いがけず大きくなり、周囲の客がちらりとこちらを振り返った。悠真は慌てて声を落としたが、胸の奥から湧き上がる熱い感情を抑えきれなかった。
「長慶は、信長がやったとされる革新的な政策のほとんどを、すでに十数年前に完成させていたんです。堺の町衆に自治を許し、宗教摩擦を抑え、合戦ではなく文書と計算で畿内を治めた。信長の前座なんかじゃない! 彼の仕事があったからこそ、近世の扉が開いたんです! その事実が、世間から忘れ去られたままでいいはずがありません!」
津田は静かに眼鏡を外し、クロスでレンズを拭き始めた。その手つきは驚くほど手慣れており、悠真の悲痛な訴えを何度も聞き流してきた編集者特有の冷徹さを漂わせていた。
「天野さん。価値があることと、売れることは別なんです。そして、売れない本は出せない。初版で二千部刷って、半分以上が返本されて倉庫で裁断される未来が見えている本を、うちは出版できません。どれだけ素晴らしい功績があろうとね、人々に知られず、語られず、買われない名前は、出版業界においては『最初から存在しない』のと同じなんですよ」
『最初から存在しないと同じ』。
津田の放った一言が、悠真の頭の中で不吉な打楽器のように重く響き渡った。
「……どうしても、駄目ですか」
「申し訳ない。もし天野さんが『信長から見た三好政権の限界』とか、『家康の天下統一における三好流行政の残影』という切り口で書いてくれるなら、もう一度検討しますよ。あくまで主役は信長か家康ですがね」
「……結構です。それじゃあ、長慶自身の生を描いたことになりませんから」
悠真は押し戻された企画書を重い手つきで鞄へと収めた。企画書の角が折れ、白い紙面にしわが寄っていた。
「天野さん、お気持ちは分かりますがね、歴史ってのは結局、勝者と有名人のためにあるんですよ。残らなかった人間には、残らなかった理由がある。それを無理に掘り起こそうとしても、誰も幸せになりませんよ」
津田は伝票を掴んで立ち上がり、レジへと向かった。悠真は一人、古びた喫茶店の席に取り残された。壁の時計がカチ、カチと無情な音を刻み続けていた。
喫茶店を出ると、神保町の街は雨上がりの冷気に包まれていた。
舗装されたアスファルトの表面が、濡れた光を反射して黒く光っている。街灯の下を、傘をたたんだサラリーマンや学生たちが、肩をすぼめながら早足で通り過ぎていく。誰も悠真のことなど見ていない。誰一人として、彼が抱えている絶望と虚無に関心を払う者はいなかった。
悠真はあてもなく夜の街を歩き続けた。
靖国通り沿いの大型書店の明かりが見えた。自動ドアをくぐり、歴史書のコーナーへと足が勝手に向かっていた。
平積みされているのは、色鮮やかな帯が巻かれた『織田信長・覇王の真実』『徳川家康の天下奪取術』『武田信玄と武田勝頼』といった書籍ばかりだった。新刊棚のどこを探しても、三好長慶の名前をタイトルに掲げた本は一冊も存在しなかった。書棚の奥の、文庫本の背表紙の隙間に、わずかに『三好一族』という古い研究文庫が挿さっているだけだった。
本屋を出て、ガード下の暗がりへと足を進める。上を通過する中央線の電車が、ガタゴトと地響きを立てて夜の空気を揺らした。
恋人を失った。研究者としての未来を拒絶された。そして、自分が人生をかけて光を当てようとした三好長慶という男もまた、この巨大な消費社会の中で完全に「消された名前」として処理されていた。
悠真は自分のコートのポケットに手を突っ込んだ。指先に触れたのは、昼間宗方教授の研究室から持ち出してきた、あの緑色の測量野帳だった。
手垢で湿ったハードカバーの感触。指先を滑らせると、背表紙の擦り切れが皮膚に引っかかる。
「……誰も、残そうとしない」
悠真は足を止め、街灯の光の下でポケットから野帳を取り出した。
ページをひらく。最後のページに刻まれた、宗方繁樹の血のような赤万年筆の文字。
『史料を信じるな。史料を書いた人間を読め。君なら気付くと思ったがね、天野君。飯盛山の石垣には、一つだけ年代の合わない郭がある。我らを忘れるな、と声が聞こえる』
忘れるな、という声。
それは宗方教授の声であり、長慶の声であり、そして社会の隅に追いやられて消えていこうとする、悠真自身の魂の叫びでもあった。
誰も長慶の名前を残そうとしないなら。誰も自分の研究に価値を見出さないなら。
自分がこの目で確かめに行くしかない。
宗方が最期に目撃し、そして何かを感じ取ったあの飯盛山城跡へ。そこに何が眠っているのか。本当に歴史の闇の底から届く声があるのか。
もし、それがただの老学者の錯覚であり、妄想に過ぎなかったとしても構わない。そこへ行き、何も見つけられないなら、自分もまた静かに歴史の表舞台から消え去ればいいだけのことだ。
悠真は野帳を胸のポケットに深く押し込み、固く口を結んだ。
夜の冷たい風が、悠真の頬を撫でて吹き抜けていった。遠くのビル群の明かりが、まるで消えかかった星のように、かすかに点滅していた。悠真は駅の改札へと向かい、明日の早朝の列車に乗るための切符を買い求めるべく、自動券売機へと足を進めた。




