第2話:恩師の遺品
第2話:恩師の遺品
冷たい雨が、人文学部棟の泥で汚れた窓ガラスを斜めに叩き続けていた。十一月上旬の湿った空気が、コンクリートの壁面から染み出し、古い廊下の四隅に重く淀んでいる。
天野悠真は、三号館四楼の最奥にある『史学科・中世史研究室(宗方)』と書かれたアクリル板の前で足を止めた。板の角は黄ばみ、留め具のネジには赤い錆が浮いている。先週までそこにあったはずの、小気味よい煙草の匂いと、ラジオから流れるクラシック音楽の低音は跡形もなく消え去っていた。
鍵穴に真鍮の鍵を差し込み、手首をひねる。カチリと乾いた金属性の音が響き、重い木製ドアが内側へと開いた。
途端に、特有の匂いが悠真の鼻腔を突いた。埃をかぶった古い和紙の匂い、乾いた墨の匂い、そして宗方繁樹教授が愛煙していたショートホープの微かな残り香。十畳ほどの室内には、天井まで届く三面の書棚が隙間なく並び、収まりきらなかった研究書や史料集、学会の紀要が、足の踏み場もないほど畳の上に塔のように積み上げられていた。
「天野さん、すみませんが今日中にこの二箱分だけでもまとめてもらえますか。来週には次の特任の先生が搬入を始めることになっていますので」
廊下から顔を出したのは、学部事務課の若い職員だった。黒い事務服の袖口を気にしながら、素っ気ない口調で言った。その手には、引き払い用のダンボール箱と太いガムテープが握られている。
悠真は深く深く息を吸い込み、喉の奥に固まる苦みを抑えながら答えた。
「……わかりました。大事な史料や寄託文書もありますから、分類しながら作業します」
「助かります。あ、不用品はゴミ袋に入れて廊下に出しておいてください。大学の資産登録がある機器以外は、処分してかまいませんので」
職員は一礼もせずに踵を返し、パタパタと慌ただしい足音を廊下に残して去っていった。
一人残された部屋で、悠真は積み上がった書籍の塔の前にひざまずいた。
宗方繁樹が急死したという報せを受けたのは、一週間前の日曜日の早朝だった。享年六十七。死因は急性心不全。前日まで元気に飯盛山城跡の現地調査に赴いており、自宅の書斎で倒れているのを家族が発見したときには、すでに体温は失われていたという。
葬儀は身内だけでしめやかに執り行われ、非常勤講師に過ぎない悠真は、告別式の焼香の列の末尾にひっそりと並ぶことしかできなかった。棺の中で白い菊花に囲まれた宗方の顔は、生前の険しい頑固さを嘘のように失い、ただの小さく萎びた老人の皮膚へと変わっていた。
悠真にとって、宗方は単なる大学の指導教授ではなかった。
学会の主流派から「三好研究など単なる局所的実務の追認に過ぎない」と冷遇され、博士号を取得した後も無職に近い非常勤の立場に甘んじていた悠真を、唯一「研究者」として扱い続けてくれたのが宗方だった。
記憶が、鮮やかに蘇る。この部屋の小さなパイプ椅子に腰掛け、宗方が出してくれた冷めたインスタントコーヒーを啜りながら、夜遅くまで議論を交わした日のことだ。宗方は常に安物の煙草を口にくわえ、細い目をさらに細くしながら、ダミ声で悠真に語りかけていた。
『天野君、史料をそのまま信じるなよ。史料の裏にある人間を読むんだ。文字を書いた奴がどんな顔をし、何を恐れ、何を隠そうとして墨を擦ったのか。それを想像できない奴は、ただの古文書解読機であって歴史家じゃない』
『先生、でも今の学会では、客観的な目録作成と編纂作業だけが評価されます。僕のような実務文書の分析は、ただの細分化だと切り捨てられます』
『ふん、馬鹿どもが。三好長慶という男の凄さが分からん奴らに、戦国史を語る資格はない。信長がやったとされる商業保護も文書政治も、全部あの男が飯盛山と堺で完成させたことだ。世間が忘れても、俺と君が覚えていればいい。歴史ってのはな、残った記録の量じゃない、伝える人間の情熱で繋がるんだよ』
宗方の分厚い手が、悠真の肩をドシリと叩いた時の感触が、今も皮膚に残っていた。
悠真は目頭の熱さをこらえ、ダンボール箱の底に新聞紙を敷きつめた。書棚から一冊ずつ本を取り出し、丁寧に埃を払って箱へと収めていく。『大日本史料』『室町幕府文書集』『三好家文書目録』……宗方が四十年にわたる研究生活の中で繰り返し開いたのであろう書籍の背表紙は、どれも手脂で黒ずみ、頁の端が擦り切れていた。
作業を始めて二時間が経過した頃、悠真の手が書棚の最下段、古いスチール製のファイルボックスの奥で止まった。
他の書籍の陰になり、半分埃に埋もれるようにして転がっていたのは、一冊の緑色の測量野帳だった。コクヨの安価なハードカバーのノートで、表紙は長年の汗と雨水で湿り、端がボロボロに毛羽立っていた。
悠真はその野帳を手に取り、指先で埃を拭った。表紙には宗方の荒々しい筆跡で『飯盛山現地調査・二〇二三年十月』と書かれている。宗方が倒れる直前、最期に山へ持ち登っていたフィールドノートだった。
パラパラと頁を繰る。
そこには、宗方が長年培ってきた精密な測量スケッチと、ビッシリと書き込まれた鉛筆のメモが並んでいた。飯盛山城の複雑な曲輪群、土塁の傾斜角度、楠木正行像付近の地形、そして千畳敷郭の寸法。宗方のノートは、そのまま第一級の現地調査資料だった。
だが、中ほどまで頁を進めたとき、悠真の指がピタリと止まった。
十月十五日の日付が打たれたページから、急激に筆致が変わっていたのだ。それまでの整然とした鉛筆書きではなく、途切れ途切れの、まるで手が激しく震えているかのような万年筆の青ブラックのインクで、乱雑な線と文字が躍っていた。
『北郭・高櫓下の石垣群。解せぬ。何故ここにこの積み方がある?』
次のページには、特定の石垣の断面図が描かれていた。野面積みの石垣の中に、明らかに後世の加工痕を持つ、楔の跡が残る角石が一つだけ歪に組み込まれているスケッチだった。
『年代が合わない。永禄年間の三好期の技術ではない。かといって豊臣期の改修でもない。加工の痕跡があまりに新しく、かつ、古すぎる。まるで……時代と時代の隙間から落ちてきたような不連続感。昨日まで、こんな石はここに存在しなかったはずだ』
悠真は眉をひそめた。宗方は考古学的な時代鑑識において、学会でも屈指の正確さを誇る学者だった。その宗方が「存在しなかったはずだ」と書いている。
さらに頁を繰る。文字は一層荒くなり、インクの大きなシミが紙面を汚していた。
『風もないのに、石垣の奥から音が聴こえる。いや、音ではない。声だ。人が紙を繰る音、筆を走らせる音、実務の息遣い。……誰かがそこで、莫大な仕事を続けている。三好筑前守か? 奴らは消えていない。歴史から削除されたのではない。ただ、誰も見ようとしない場所に留まっているのだ』
そして、ノートの最後のページ。
そこには、調査当日の夜に書かれたと思われる、掠れた赤万年筆の文字が、紙面全体を覆うように大きく躍っていた。
『史料を信じるな。史料を書いた人間を読め。君なら気付くと思ったがね、天野君。飯盛山の石垣には、一つだけ年代の合わない郭がある。我らを忘れるな、と声が聞こえる。忘れ去られた者たちの生が、あそこに集積している。俺は明日、もう一度あの場所へ行かねばならない』
そこで記述は途絶えていた。
次のページは白紙のまま、破れかけた背表紙へと続いていた。宗方はこのメモを書いた翌朝、自宅で息を引き取ったのだ。
窓を叩く雨音が、急に強くなった気がした。冷たい風が古びたサッシの隙間から吹き込み、部屋の中に残っていた宗方の煙草の匂いをさらっていく。
悠真は野帳を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
背筋に、氷の刃を押し当てられたような鋭い寒気が走る。
これは、老学者の死直前の譫言なのだろうか。心不全を引き起こす前兆として、脳に酸素が行き届かなくなり、幻覚や幻聴を見たのだろうか。あるいは——宗方は本当に、飯盛山の山中で「何か」に触れてしまったのだろうか。
「……我らを、忘れるな」
悠真は宗方の赤インクの文字を、擦れる声でなぞった。
『消された天下人』三好長慶。そして、その政権の下で名前も残さずに消えていった無数の奉行や足軽たち。宗方は最期の瞬間、歴史の暗闇の底から届く彼らの悲鳴を聞いたというのだろうか。
「天野さん、まだ終わらないんですか? もう閉館の時間になりますよ」
廊下から、先ほどの事務職員の声が飛んできた。手入の行き届かない廊下の蛍光灯が、チカチカと不吉に明滅している。
悠真はハッと我に返り、手にしていた緑色の野帳を素早く自分の鞄の奥深くへと滑り込ませた。
「……すみません、すぐ出ます。本箱の整理は終わりました」
ダンボール箱の蓋を閉じ、ガムテープを叩きつけるように貼る。バリバリという粘着テープの乾いた音が、誰もいなくなった研究室に虚しく響いた。
部屋を出るとき、悠真はもう一度だけ室内を振り返った。
主を失ったデスクの上には、宗方が使っていた古い萬年筆と、乾ききったインク瓶がポツンと残されていた。窓の外の暗闇から叩きつける雨は勢いを増し、ガラスを黒く濡らし続けていた。悠真は静かにドアを閉め、鍵を回した。カチリという音が、宗方繁樹という人間の存在がこの大学から完全に抹消されたことを告げる合図のように聞こえた。
その夜、悠真は築四十年の木造アパートの狭い自室で、卓上ライトの青白い光の下、宗方の野帳を開いていた。
外は相変わらずの土降りの雨だった。トタン屋根を叩く不規則な雨音が、部屋の狭さをいっそう際立たせている。万年筆のインクが染み込んだ緑の小冊子は、悠真の安机の上で静かな異彩を放っていた。
悠真は、自分の部屋の貧しい光景を見回した。
畳の端は擦り切れ、壁紙は煙草のヤニで黄色く変色している。卓上には半額シールが貼られたコンビニの弁当の空き容器と、飲みかけのペットボトル。本棚に入りきらない史料のコピーが、床の上に危険な角度で傾いている。
恋人の佐々木葵からの返信は、三日前から途絶えていた。最後に届いたメッセージは『お仕事頑張ってね』という、短く、心のこもっていない一行だけだった。葵が自分から離れつつあることを、悠真は肌で感じていた。三十二歳になっても職を得られず、将来の展望もなく、古い古文書の解読にしか没頭できない男に、付き合い続けられるほど彼女も若くはないのだ。
大学での地位もなく、愛する者からの信頼も失いかけ、唯一自分を人間として認めてくれた恩師すらも失った。
「……僕も、消えていくんだな」
呟きは、雨音の中に儚く消えた。
悠真は野帳の最後のページ、宗方の遺言とも言える赤インクの文字を指先でそっとなぞった。紙の凹凸が、指腹にかすかな抵抗を与える。
『飯盛山の石垣には、一つだけ年代の合わない郭がある』
宗方は死の直前、何を見たのか。なぜ、研究者としての理性を捨ててまで『声が聞こえる』などという非科学的な言葉を書き残したのか。
もし、これが老教授の単なる狂気や妄想でないとしたら。
歴史という巨大なデータベースの隙間に、本当に「残されなかった者たち」の領域が存在しているのだとしたら。
悠真の胸の奥で、小さく萎びかけていた研究者としての執念が、熱を帯びて微かに疼き始めた。自分自身が社会から消されかけているからこそ、歴史の闇に消された者たちの気配に、異常なまでの親近感を覚えずにはいられなかった。
悠真はノートを閉じ、固く口を結んだ。
明日、飯盛山へ行こう。
宗方が最期に踏み込み、そして倒れたあの山へ。そこに何があるのか、自分の目で確かめなければ、自分もまたこのまま無意味な灰となって消えてしまう気がした。
アパートの外では、雨が夜の深まりとともに冷たさを増し、冷気を含んだ風がガラス窓をガタガタと揺らし続けていた。悠真は卓上ライトを消し、暗闇の中で静かに目を閉じた。視界の裏側に、あの緑色の野帳に書かれた血のような赤インクの文字が、いつまでも消えずに浮かんでいた。




