↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
消された天下人〜歴史から消えた男と、消えかけた男〜  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/36

第35話:病床の若君

第35話:病床の若君


 永禄六年七月上旬の摂津国・芥川山城は、身の危険を感じるほどの強烈な猛暑と、時折襲いかかる激しい立ち眩みのような夕立に洗われていた。

 本丸寝所の周囲を囲む鬱蒼とした雑木林からは、老蝉たちの「ジジジジ」という激しい初蝉の声が地鳴りのように響き渡り、山城全体を包む冷気は姿を消し、蒸せ返るような湿土の匂いが立ち上っていた。

 本丸の寝所の内部の空気は、さらに重苦しく淀んでいた。

 閉め切られた部屋の中には、高熱でうなされる人間の生臭い汗の匂い、激しい吐瀉物の匂い、そして修験者たちが焚き立てる護摩の苦い煙が充満し、健康な人間であっても立ち眩みを起こすほどの劣悪な環境であった。

 悠真は、芥川山城へ乗り込んだ直後、その光景を目にして激しい怒りを覚えたのだった。

 部屋の隅では、召し抱えの本道医師たちが患者の体力を奪う酷い「血抜き(瀉血)」を行おうとし、修験者や祈祷師たちが締め切った部屋の中で太鼓を叩き、怪しい呪文を唱え続けていたのだ。


「全員、外へ出ろ!! 加持祈祷で病が治るか! 部屋を閉め切って煙を吸わせたら、呼吸が止まってしまうだろ!」

悠真は怒声を張り上げ、立ちすくむ医師や祈祷師たちを力任せに部屋から追い払ったのだった。

悠真はすぐに小袖の袖を高く捲り上げ、小姓たちに向かって矢継ぎ早に指示を下した。

「障子を全て開けて風を通せ! 井戸から冷たい水を汲んできて、一度必ず鍋で沸騰させろ! 生水は絶対に飲ませるな!」

悠真は自ら井戸へ走り、汲み上げた清らかな水に晒布を浸して硬く絞ると、分厚い布団の上で高熱に身をよじらせる義興の枕元へひざまずいた。

手拭いを義興の額に当て、首筋、胸元、そして脇の下や股の付け根へ丁寧に押し当てていった。

現代の救急看護における「主要血管の直接冷却」の手法であった。

さらに悠真は、病室に入る小姓や家臣たちに対し、井戸水と粗塩で両手を何度も洗い流す「手指の衛生管理」を徹底させた。

さきに堺の今井宗久へ請負通宝手形を差し出して手配させた、解熱用の巨大な氷の塊が、木箱に敷き詰められて部屋の四隅に置かれると、病室の湿った熱気がすうっと下がり始めた。


「天野殿! 堺から安宅様のお使いで、南蛮の薬種が届いたぞ!」

廊下から駆け込んできたのは、淡路から急ぎ駆けつけた安宅冬康の側近であった。

二重の漆箱の中から取り出されたのは、南蛮船からもたらされた最高級の「沈香」「熊胆(ゆうたん)」「朝鮮人参」、そして熱を冷ますための特別な「紫根(しこん)」であった。

悠真は自ら炭火の前に座し、一度煮沸して冷ました清らかなお湯で薬種を慎重に煎じ詰めていった。

部屋の中に、薬草の独特の芳しい苦い香りが広がっていった。

悠真は煎じ上がった薬湯を人肌の温度まで冷ますと、義興の頭を優しく抱き起こし、木製の匙で一口ずつ、その乾いた唇の間から流し込んでいった。

義興の喉がゴクリと鳴り、苦い薬湯が体内へと吸い込まれていった。

悠真は一秒も目を離さず、義興の手を握りしめ、手拭いを絞り替えて冷やし続けた。


不眠不休で看病を続けて三日目の朝。

奇跡が起きたかのように見えた。


氷による主要血管の冷却と、適切な薬湯の投与、そして風通しの良い清潔な環境整備により、義興の全身を包んでいた恐ろしい高熱が、すうっと急速に引き始めたのだった。

赤黒く腫れ上がっていた義興の頬に、本来のみずみずしい血色が戻り、ゼーゼーと苦しげであった荒い喘鳴が、静かで穏やかな呼吸へと変わっていったのだ。

正の刻(正午頃)、義興はゆっくりと目を開けた。

その瞳には、さきに混濁していた濁りは消え、元通りの澄んだ知的な光が宿っていた。

「……あ……天野……殿……」

義興が、か細い、しかしハッキリとした声で悠真の名を呼んだ。

「義興様! お気づきになられましたか!」

悠真は涙を浮かべて身を乗り出した。

義興は薄く微笑み、自らの手を持ち上げてみせた。

悠真が慌てて背中に抱き枕を当てて支えると、義興は自らの手を見つめ、感慨深げに呟いた。

「……熱が引いたな。……体の奥を焼き尽くしていたあの激痛が……嘘のように消えている。……天野殿の看病は、実に心地がよいな」


義興は、悠真が作らせた特製の「葛粥(くずがゆ)」を、自らの手で匙を持ち、一匙、また一匙と美味そうに口に運んだ。

三日ぶりに食べ物を喉に通した義興の姿に、控えていた小姓や奉行たちから、歓喜の泣き声が漏れた。

「若君がお粥をお召しになられた! 熱が下がられたぞ!」

安宅冬康も部屋に入り、涙ぐみながら義興の肩を抱きしめた。

「義興、よくぞ耐えた! 天野殿の手厚い看病のおかげだぞ!」

義興は悠真の手を温かく握り締め、力強い目で言った。

「天野殿。……わしは命を拾ったようだ。そなたのおかげだ。……これで、また飯盛山へ戻り、父上の側で仕事ができる。ありがとう、天野殿」


悠真の胸の中に、激しい歓喜と圧倒的な達成感が爆発した。

(勝った……! 勝ったんだ!)

悠真は心の中で拳を強く握り締めた。

歴史の確定した事実。永禄六年八月二十五日の三好義興の死。

自分は現代の公衆衛生と医療の知識を総動員し、冷やし、薬を処方し、あの恐ろしい歴史修正力の壁を打ち破って、三好義興というかけがえのない命を救い出したのだ!

義興が生きていれば、三好政権は絶対に破滅しない。長慶の心は救われ、新しい平和な世がやってくる。

悠真は溢れ出る感動の涙を拭い、義興に向かって深く頭を下げた。

「義興様……! 本当によかったです……! 本当に……!」


しかし。

歴史の持つ真の恐怖は、悠真の浅はかな歓喜を嘲笑うかのように、すぐ目と鼻の先でその牙を研いでいたのだった。


七月下旬。

一見、全快に向かい、寝所で書類を開くまでになっていた義興の病状が、ある夜を境に、致命的な破滅へと向かって崩れ去った。

七月二十日深夜。

激しい雷鳴が芥川山城の夜空を叩き割ったその瞬間。

「ガハッ……! ぐあぁぁぁぁっ!?」

突如として、寝所から義興の凄惨な絶叫が響き渡った。

悠真が慌てて部屋に飛び込んだ時、畳の上は地獄絵図と化していた。

義興は分厚い布団の上で胸を掻きむしり、口から大量の真っ赤な吐血を撒き散らしていたのだった。

畳が赤黒い血液で染まり、部屋中に刺すような生の血の臭気が充満した。

義興の全身の皮膚は、さきを遥かに上回る恐ろしい熱を帯び、目を見開いたまま激しい痙攣(けいれん)を起こしていた。


「義興様! 義興様ぁぁっ!!」

悠真は叫び、氷の手拭いを義興の額に当てた。

しかし、氷は義興の額に触れた瞬間、ジュウと音を立てるかのように一瞬でぬるま湯へと変わった。

どれほど冷やそうと、どれほど南蛮の薬湯を流し込もうと、義興の体内から噴き出す恐ろしい高熱と吐血を止めることはできなかった。

悠真は冷や汗を流しながら、義興の体を抱き抱え、激しい恐怖に震えた。

なぜだ。なぜ急に病状が悪化したのだ。衛生管理も完璧にし、熱も一度は下がったはずではないか。

悠真の頭の中で、冷酷な現実が突きつけられていた。


当時の医学や、現代の簡単な公衆衛生管理程度では、根本的な治療が絶対に不可能な「病の本質(進行性の胃癌、または重篤な内臓疾患)」が、義興の体内を蝕み続けていたのだ。

一度熱が下がったのは、単なる一時的な症状の停滞に過ぎなかったのだ。

現代の高度な外科学的処置や抗生物質が存在しないこの時代において、人間の肉体の深臓で進行する病魔を止める術など、どこにも存在しなかったのだ。

どれほど知識があろうと、どれほど情熱があろうと、この時代の「医療の技術的限界」という巨大な壁を乗り越えることはできなかったのだ。


義興は血を吐き続け、やがてぐったりと悠真の腕の中で意識を失った。

その顔は、死人のように蒼白にへこみ、唇は紫色に変色していた。

悠真は血に濡れた自らの手を見つめ、歯がガチガチと鳴るほどの絶望に打ちのめされた。

(ダメなのか……。僕の知識なんて……何の役にも立たないのか……!)

その時、悠真の脳裏に、不吉な疑惑がふっとよぎった。

一見全快に向かっていた義興が、なぜこれほど唐突に、吐血を伴う致命的な重態に陥ったのか。

ただの病気なのか。

それとも……後世の軍記物が語るように、誰かが……誰かが義興様の食事や薬湯に『毒』を盛ったのではないか。

悠真が血塗れた手で震えていると、暗い廊下の向こうから、雷鳴の光に照らし出された一人の男の影が、静かに近づいてきていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。