↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
消された天下人〜歴史から消えた男と、消えかけた男〜  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/36

第36話:久秀の密談

第36話:久秀の密談


 永禄六年八月上旬の摂津国・芥川山城は、息をすることすら苦しいほどの蒸し返すような深夜の熱帯夜に包まれていた。

 本丸の寝所の周囲では、遠くの生駒山系から響く不気味な遠雷の音がゴロゴロと山霊を揺らし、雨を含んだ湿った風が、城郭の廊下を湿らせていた。

 一見全快に向かうかに見えた三好義興の病状が、七月下旬の激しい吐血を境に急速に悪化し、もはや意識を取り戻すことすら稀となるほどの重態に陥っていた。

 病室から立ち上る苦い煎じ薬の匂いと、死の気配。

 その重苦しい暗雲の中で、芥川山城の城内には、不気味で醜い毒のような噂が、水面下で静かに広がり始めていたのだった。


「見たか……? さきに大和の松永弾正様が持参された薬湯を召し上がられてから、若君のお体の具合が一気に悪化されたのだ……」

「弾正様は大和の信貴山城で好き勝手な振る舞いをされ、三好家の実権を握ろうとしておられる。……まさか、若君を……『毒』で」

二の丸の廊下の陰や、奉行たちの詰所で、囁かれる悲痛な疑心暗鬼の声。

さきに三人衆と久秀の間に生じていた派閥対立と不信感が、義興の不自然な病状の急変と結びつき、「松永久秀毒殺説」という恐ろしい噂となって、城内を駆け巡っていたのだった。


悠真は、血に塗れた手拭いを洗う井戸の傍らで、その噂を聞いた瞬間、全身の毛穴が開くほどの激しい動揺と怒りに襲われた。

(毒殺……!? 本当に……本当に毒なのか!?)

悠真の脳裏に、後世の歴史書や軍記物で読んだ記述が蘇っていた。

軍記物においては、三好義興の死は「三好家乗っ取りを企む松永久秀による毒殺」として描かれることが多かった。

さきに久秀と対峙した際、久秀が見せた圧倒的な冷酷さと合理的思考。

もし、あの男が「義興様が存在することが、自らの権力握りに邪魔である」と判断したとしたら。

もし、自分が懸命に看護して熱を下げた義興に対し、久秀が陰で毒を盛っていたとしたら。

悠真の胸の中で、久秀に対する激しい疑惑と、抑えきれない殺意に近い怒りが燃え上がった。


深夜四刻(午前二時頃)。

悠真は自らの感情を抑えきれず、大和からの警固のために芥川山城の別室に滞在していた松永久秀の部屋へと突入した。

別室の中は薄暗く、一基の行灯の橙色の炎が、壁の屏風に大きな人影を投映していた。

火鉢の前に、上質な紫の絹の小袖を着た久秀が座し、静かに手元の茶碗にお湯を注いでいた。

久秀は悠真の荒い足音に気づいても驚かず、静かに顔を上げた。

「天野殿か。こんな夜更けにどうされた。……若君の病状に何か変化でもあったか?」

久秀の声は、いつもの如く穏やかで柔らかかった。


しかし、悠真はその態度に激怒した。

悠真は久秀の文机の前に歩み寄り、両手を畳に叩きつけるようにして前に乗り出した。

悠真の目は真っ赤に血走り、声は激しく震えていた。

「弾正さん!! あなたですか……!? あなたが義興様に毒を盛ったのですか!?」

部屋の空気が、一瞬で凍りついた。

行灯の炎がチチと不快な音を立てて揺れた。


久秀は、お湯を注ぐ手を静かに止めた。

そして、手にしていた竹の茶筅を文机の上に置くと、懐から一本の黒漆の扇子を取り出した。

バシッ!!

久秀は扇子を畳の上に強く叩きつけた。乾いた鋭い音が、静かな別室に響き渡った。

久秀の顔から、いつもの柔らかな笑みが完全に消え去っていた。

久秀の切れ上がった目の奥から、相手の魂を氷漬けにするような、冷徹で狂気的なまでの眼光が射し出ていた。

久秀は低い、氷のように冷たい声で言った。

「……天野殿。言わせておけば、随分と面白い戯言をぬかすな」

「戯言ではありません!」

悠真は叫んだ。

「城中では誰もが噂しています! あなたが持参した薬を飲んでから、義興様は血を吐いて倒れられた! さきに二の丸で『古い三人衆にこの国は任せられない』と言っていたあなたなら、若君を排除して三好家を乗っ取るために毒を盛ることだって考えつくはずだ!」


久秀は静かに立ち上がった。

その身から放たれる圧倒的な政治家の威圧感が、部屋全体を押し潰すように広がった。

久秀はゆっくりと悠真の前に歩み寄り、悠真を見下ろした。

久秀の声には、激しい怒りと、それ以上に深い「呆れ」が混ざっていた。

「天野殿。……そなたは未来の出来事を知る知恵者かと思っていたが……これほどまでに愚かな男であったとはな」

「なに……!?」

久秀は膝をつき、悠真の目の前に自らの顔を寄せた。


「良う考えよ、天野殿!」

久秀は悠真の胸元を力任せに掴み上げた。

「わしが若君に毒を盛るメリットが、この三好の国のどこにある!? 若君・義興様が死ねば、本丸におられる筑前守様(長慶)の心は完全に壊れ、正気を失われる! 筑前守様が倒れられれば、三好家は阿波の旧臣と大和のわしとの間で全面戦争となり、即座に六角や織田に食い荒らされて滅び去るのだぞ!」

久秀の激しい叫びに、悠真は言葉を失った。

久秀は自らの胸を強く叩いた。

「わしが最も望んでいるのは何だ!? 筑前守様の築かれたこの三好の天下が、百年の後まで揺るぎなく続くことなのだ! そのためには、筑前守様の跡を継ぐ、あの聡明で気品ある義興様がいなければ絶対に困るのだ! 若君の死を最も恐れ、最も悲しんでいるのは、他ならぬこの松永弾正なのだよ!!」


久秀の目から、一滴の涙が零れ落ち、畳の上に小さく弾けた。

久秀のその涙は、一切の偽りのない、本物の無念と情熱の涙であった。

悠真の思考が、完全に停止した。

久秀は本気で激怒していたのだ。そして、本気で義興の病を心配し、若き当主の死を恐れていたのだ。

久秀は悠真の手を振り払い、悔しそうに歯を噛み鳴らした。

「わしだって……若君を救いたかった! 大和から国一番の名医を呼び寄せ、堺の商人どもから金に糸目をつけずに最高級の南蛮薬を集めさせ、自ら薬湯を調合して差し上げたのだ!……それを、毒を盛っただと!? 馬鹿なことをぬかすな!」


久秀は自らの膝を強く握り締め、背中を丸めて肩を震わせた。

歴史上「下剋上の怪物」「主君殺しの悪人」として描かれ続けた松永久秀という男の、隠された素顔がそこにあった。

久秀は、誰よりも主君・長慶を敬い、三好家の完成された行政システムを愛していたのだ。だからこそ、その未来である義興の病に対し、己の膨大な権力も知恵も何一つ役に立たないことに、激しい無力感と恐怖を抱いていたのだった。


久秀は静かに顔を上げ、涙の滲んだ目で悠真を見つめた。

その声は、深く、悲しげであった。

「……天野殿。そなたも、本当は分かっておるのであろう?」

「え……?」

「若君を殺そうとしているのは、わしでもなければ、三人衆でもない。……この時代の『技術の限界』と……変えられぬ『この世の定め』そのものなのだと」


久秀の一言が、悠真の胸を鋭い刃物のように突き刺した。

悠真はガタガタと全身を震わせ、畳の上に平伏した。

自分の愚かさと浅はかさに対する、絶望的な羞恥が全身を駆け巡った。

後世の人間が都合良く作った「毒殺説」という簡単な物語に逃げ込み、久秀という一人の人間を犯人に仕立て上げることで、自分は「現代の知識があっても命を救えなかった」という圧倒的な自らの無力さから目を背けようとしていたのだ。

毒殺などではなかった。

進行性の重篤な内臓疾患という当時の医療では治せない病、そして何より三好義興を八月二十五日に死なせようとする「歴史修正力」という巨大な世界の意志。

その恐ろしい現実の前に、自分も、久秀も、長慶も、全員がただの小さく無力な存在に過ぎなかったのだ。


悠真は畳に顔を押し付け、声を殺して泣いた。

「……申し訳ありません……弾正さん……。僕が……僕が愚かでした……!」

久秀は静かに立ち上がり、行灯の炎をそっと整えた。

久秀の声には、もはや怒りはなく、どこまでも静かな諦念と覚悟が宿っていた。

「……良い。そなたの無礼は許す。……さあ、寝所へ戻られよ。若君に残された時間は……もう幾らも残されておらんのだからな」


久秀の足音が、夜の廊下に静かに消えていった。

悠真は一人、別室の畳の上で涙を流し続けていた。

外では、遠雷の音が不気味に響き渡り、芥川山城を覆う熱帯夜の闇が、さらに深く沈み込んでいた。

人間の陰謀を超えた、歴史の冷酷な秒針が、二十二歳の若き賢君・三好義興の最期の刻限へと向かって、容赦なく進み続けていたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。