第34話:忍び寄る影
第34話:忍び寄る影
永禄六年六月上旬の飯盛山城は、天と地を白く繋ぎ止めるような、しとどな梅雨の長雨に閉ざされていた。
生駒山地の深い緑を湿らせる雨は、昼なお暗い灰色の雲から休むことなく降り注ぎ、幾重にも重なる曲輪の土塁を黒く重い泥濘へと変え、木造建築の屋根樋からは濁った水柱が滝のように落ち続けていた。
二の丸の執務室の内部も、不快な湿気と冷気によって満たされていた。
畳は水分を含んで足元に重く吸い付き、文机の上に置かれた手漉き美濃紙は湿気を吸ってしんなりと濡れ、筆を落とせば墨汁が紙面にじわじわと滲み広がってしまう状態であった。
行灯の油皿に浸された燈心草が、チチと湿った音を立てて小さな橙色の炎を揺らし、部屋全体に焦げた菜種油の匂いが淀んでいた。
悠真は、あかぎれの残る指先で算盤を弾き、堺から届いた夏用の被服や塩の買付調書を整理していた。
さきに摂津の芥川山城へ赴き、若き当主・三好義興と語り合った秋の日の記憶が、悠真の胸の中に温かく残っていた。
「わしが三好の家を継ぎ、父上の作ったこの平和な国を、もっと温かく豊かな世へと育てていくのだ」と高櫓の上で目を輝かせていたあの二十二歳の若武者。
彼が長慶の跡を継げば、この三好政権は絶対に大丈夫だという確信が、悠真の仕事を支える大きな励みとなっていた。
しかし、その穏やかな日常を叩き潰す不吉な足音が、雨の街道を越えて迫りつつあった。
午後申の刻(午後四時頃)、二の丸の重い楠の引き戸が、乱暴に叩き開けられた。
ガラガラッ!
雪崩れ込んできたのは、雨除けの油紙を頭からかぶり、全身を黒泥と激しい汗で濡らした、芥川山城からの緊急の伝令の侍であった。
侍は二の丸の湿った畳の上に膝から崩れ落ち、肩を激しく上下させながら、喉を締め付けられたような悲痛な叫び声を上げた。
「二の丸へ注進! 芥川山城の若君・三好義興様、三日前より突如として原因不明の激しい高熱を発し、激しい嘔吐と腹痛に見舞われ……現在、床に伏しておられます!」
広間が、一瞬にして凍りついた。
中堅奉行の塩田の手から、握っていた算盤がポロリと落ち、畳の上を虚しく転がった。
「な……なんだと……!? 義興様が……病だと!?」
塩田が叫び、周囲の奉行たちが一斉に顔を青ざめさせた。
伝令の侍は、床に顔を擦り付けながら涙声を上げた。
「召し抱えの本道医師たちが薬湯を処方し、修験者による加持祈祷を執り行いましたが、お熱は上がる一方! お食事も一切喉を通らず、お吐き吐血を繰り返され、意識が混濁し……誠に重態に御座候!」
悠真の全身の血液が、頭の先から足の先まで一瞬で引き去っていく感覚があった。
視界が真っ白に明滅し、耳の奥底でキーンという甲高い高音が鳴り響いた。
悠真は文机の端を強く掴み、どうにか身体を支えた。
(嘘だ……! 嘘だと言ってくれ……!)
悠真の脳裏に、歴史研究者として蓄積してきた「確定した史実」の記憶が、鮮血の如き鮮やかさで蘇っていた。
永禄六年八月二十五日。三好義興、病死。享年二十二。
さきに京の相国寺や芥川山城で悠真が出会い、父・長慶のために新しい国を作ろうと熱く語っていたあの聡明で温かい若武者が。
あとわずか二ヶ月ののちに、史実通りの病によって、二十二歳の若さで命を落とすのだ。
(始まったんだ……! 義興様を襲う死のカウントダウンが……!)
悠真の胸が、激しい過呼吸と嘔吐感に締め付けられた。
十河一存の急死、三好実休の久米田での戦死。そして、三好家の未来そのものであるこの三好義興まで失われれば、当主・長慶の精神は完全に砕け散り、三好政権は二度と立ち直ることのできない自壊の深淵へと転がり落ちていく。
本丸の長慶執務室の方向からも、小姓たちの慌ただしい走る足音が聞こえていた。
最愛の息子の危態を聞いた長慶の絶望と衝撃は、察するに余りあるものであった。
悠真はガタガタと膝を震わせながら、立ち上がった。
(ダメだ……! 黙って指を咥えて見ているなんて、絶対にできない!)
悠真は二の丸の仕事の手を止め、塩田の前に駆け寄り、畳の上に深く頭を下げた。
「塩田様! 僕を……僕を芥川山城へ行かせてください!」
「天野殿!? 貴殿が芥川へ行ってどうするのだ! 医術の心得もないというのに!」
「僕には……僕には堺の商人たちとの繋がりがあります! 今井宗久様や津田宗達様から、南蛮や明国から届いた最高級の薬種(沈香、熊胆、人参、紫根)を一括で買い集め、腕利きの医師とともに芥川へ急行します! お願いです、行かせてください!」
悠真の迫真の叫びと、目から溢れ出る熱い涙に、塩田は圧倒された。
塩田は力強く頷いた。
「分かった! 筑前様(長慶)へはわしからお伝えする! 天野殿、若君を……義興様をどうかお救いしてくれ!」
悠真は早馬で堺へ伝令を飛ばし、今井宗久へ莫大な請負通宝手形を差し出して南蛮の薬種と解熱用の氷を一括調達させると、自らも馬に跨がり、土降りの雨が打ち叩く街道を芥川山城へ向かって疾走した。
雨水が悠真の顔を容赦なく叩き、視界を奪おうとした。
しかし、悠真の胸の中には、燃え上がるような執念と狂気が吹き荒れていた。
(変えてやる……! 歴史が義興様を八月に死なせようとしているのなら、僕はどんな手を使ってでもその運命を叩き潰してやる! 歴史研究者という傍観者の仮面なんて、もうどうでもいい! 義興様を……あの笑顔を絶対に救ってみせる!)
雨の山道を駆け上がり、芥川山城の本丸寝所へと飛び込んだ。
寝所の周囲には、加持祈祷を行う修験者たちの不気味な太鼓と呪文の声が重く響き、室内には濃密な生の汗と吐瀉物の匂い、そして苦い煎じ薬の煙が充満していた。
部屋の奥、分厚い布団の上に横たわっていたのは、三好義興であった。
悠真は息を呑み、言葉を失った。
さきに高櫓の上で「父上の重荷を半分下ろして差し上げたい」と明るい笑顔で語っていた、あの美しく華やかな面影はどこにもなかった。
義興の顔は青白く腫れ上がり、痩せた頬には赤黒い毒気が浮き出していた。
乾ききった唇からはゼーゼーという苦しげな喘鳴が漏れ、高熱によって全身の皮膚が真っ赤に焼けつくように熱を帯びていた。
医師たちが「もうお手上げでございます……神仏にお祈りするほかございませぬ」と匙を投げ、頭を下げていた。
悠真は医師たちを突き飛ばすようにして押しのけ、義興の枕元へ駆け寄り、畳の上に激しく膝をついた。
「義興様! 義興様! 天野です! 二の丸の天野が参りました!」
悠真が叫ぶと、義興の閉じられていた瞼が、かすかにピクリと動いた。
義興は濁った瞳をゆっくりと開き、枕元に座る悠真の顔を、かすかな視界の中で捉えた。
義興の痩せ細った右手が、震えながら伸びてきた。
悠真は両手で、その義興の手を強く握り締め返した。
義興の手は、まるで火の玉のように恐ろしい高熱を帯びていた。
義興は途切れ途切れの、か細い吐息の中で、悠真に向かって泣き出しそうな声で囁いた。
「……あ……天野……殿……。……わしは……まだ……死ぬわけには……いかぬ……。……父上が……一人に……なってしまう……。……三好の……国が……」
義興の目から、一滴の無念の涙がこぼれ落ち、青白い頬を伝っていった。
病魔の激痛に身をよじらせながらも、この二十二歳の若者は、自らの死の恐怖ではなく、一人残される父・長慶のことと、三好の国の未来を案じていたのだ。
悠真の胸が、激しい痛みに引き裂かれた。
悠真は義興の手を自らの額に押し当て、声を上げて泣いた。
「大丈夫です! 義興様! 絶対に死なせません! 僕が……僕が絶対にあなたをお救いいたします! だから……だから諦めないでください!!」
悠真は立ち上がり、部屋にいた医師や小姓たちに向かって、怒声を張り上げた。
「加持祈祷の太鼓を止めろ! 部屋の障子を開けて風を通し、清らかな水を汲んでこい! 僕が……僕が義興様の命を繋いでみせる!」
悠真は歴史への「完全な介入」を宣言したのだった。
外では、梅雨の長雨が激しさを増し、芥川山城の屋根瓦を叩き続けていた。
歴史の持つ冷酷な修正力と、一人の若き賢君を救おうとする悠真の狂おしいほどの執念。
三好家の未来を賭けた、過酷な闘病の幕が上がろうとしていた。




