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消された天下人〜歴史から消えた男と、消えかけた男〜  作者: チャプタさん


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第33話:芽生える歪み

第33話:芽生える歪み


 永禄五年十二月中旬の飯盛山城は、一年を締めくくる煤払い(すすはらい)の賑わいと、静かに忍び寄る不穏な暗雲の中に包まれていた。

 生駒山系から吹き下ろす凍てつく冬風が、山頂郭の多門櫓をミシミシと揺らし、城下の竹林からはサササと葉の擦れる乾いた音が響いていた。

 さきの大激戦「教興寺の戦い」での大勝利、そして京都での足利義輝との和睦と上洛を経て、三好政権の畿内支配は、誰もが認める絶対的な頂点に達しているかに見えた。

 二の丸の広場には、各地の領国から届いた年末の献出品——新米の俵、酒樽、乾物、そして堺からの綿布が山のように積み上げられ、足軽や奉行たちは笑顔で新年の準備に追われていた。


しかし、二の丸の奥に設けられた奉行衆の密談の間においては、外の華やかさとは完全に隔離された、重苦しい殺気が漂っていた。

悠真は、三好三人衆の筆頭格・三好日向守長逸(みよしひゅうがのかみながやす)から呼び出され、畳の上に正座していた。

部屋の中にいたのは、長逸の他に、武断派の三好下野守政康(まさやす)、そして行政型の岩成主税助友通(ともみち)の三人であった。

長逸は、手元の和紙の書類を叩くように置き、白い髭を震わせながら、低い、怒りの混ざった声を発した。

「天野殿。二の丸の帳面を司るそなたに聞きたい。……大和の松永弾正(久秀)が、今年度の堺関銭の分配金から、勝手に三千貫文の銭を引き抜き、己の居城・信貴山城と多聞山城の改修費に充てたというのは真実か?」


悠真は息を詰まらせた。

悠真が二の丸の『歳末決算主帳』を精査した際、確かに大和の松永久秀の手によって、堺からの税収の一部が大和の城郭整備費として優先的に処理されていた。

悠真は慎重に言葉を選んで答えた。

「……はっ。弾正様のお控えによれば、大和の畠山残党を警戒するための陣地改修費用として、筑前守様(長慶)のご認可のもとで処理されたものと記されております」

その答えを聞いた瞬間、武断派の政康が太腿を叩き、激しい怒声を上げた。


「筑前様の認可だと!? 冗談ではないぞ!」

政康の顔が、怒りで赤く染まっていた。

「弾正め、最近は筑前様のお心が弱られているのに乗じ、側近くに張り付いて、何でも己の意のままに判を押させておるのだ! 阿波以来の生抜きの家臣である我らを差し置き、大和で勝手な検地を行い、堺の豪商どもと直接手を結んで銭を独占しておる! あれでは、三好の家は松永のものになってしまうではないか!」

長逸も深く頷き、苦み走った顔で語り継いだ。

「下野(政康)殿の言う通りだ。……わしら三好一族や阿波の国衆が、どれほど血を流してこの畿内を切り開いてきたか。実休様や一存様が生きておられた頃は、弾正もあれほど増長しはしなかった。……今や弾正は、筑前様の威光を傘に着て、家臣団の頭越しに国を動かそうとしておるのだ」


友通もまた、文机の上の帳面を見つめながら、溜息を漏らした。

「天野殿。……わしも弾正の実務能力の高さは認めておる。だがな、組織というものは効率だけで動くものではない。三好家を支える阿波や和泉の旧臣たちの面目を潰し、弾正一人に権力が集中すれば、家臣団の間に深い不信感が生まれる。……筑前様が伯父上たちを失われてから、幹部同士の調停を行われる気力が衰えておられるのが、何よりの痛手なのだ」


悠真は胸の奥に、冷たい氷を押し当てられたような寒気を覚えた。

教興寺での大勝利によって外敵(畠山や六角)を撃ち破った直後。

まさか三好家臣団の内部において、松永久秀と三好三人衆という、政権の二大巨頭の間にこれほど致命的な「派閥対立」と不信感が芽生え始めていたとは。

長慶の弟たち(一存・実休)という絶対的な重石が失われたことで、それまで長慶の圧倒的な求心力によって抑え込まれていた幹部同士の利害と感情の歪みが、表面化しつつあったのだ。


その夜。

二の丸での執務を終え、悠真が本丸へと続く静かな渡り廊下を歩いていた時のことだった。

廊下の曲がり角の暗がりから、ふっと一人の男が姿を現した。

松永久秀であった。

久秀は濃紫の絹の小袖を優雅に纏い、手には温かい茶を入れた磁器の器を持っていた。その顔には、いつもの如く穏やかで柔らかな微笑みが浮かんでいた。

「天野殿。夜風が冷えるな。二の丸の三人衆どもと、何やら熱心に密談をしておられたようだが?」

久秀の声は軽やかであったが、その目の奥には、悠真の行動をすべて見通しているかのような鋭い光が宿っていた。

悠真は息を殺し、立ち止まった。

「……弾正さん。三人衆の皆様が、大和への軍費配分についてお気になさっていました」


久秀は茶を一口すすり、ふっと鼻で笑った。

久秀は渡り廊下の木欄に身をもたせかけ、寒風に吹かれながら、冷酷なまでに静かな本音を口にし始めた。

「三人衆か。……あの者どもは、古いのだよ、天野殿」

「古い……ですか?」

久秀は遠く、漆黒の闇に包まれた大和盆地の方向を見つめた。

「あの者どもは、未だに『阿波以来の生抜きの功臣』という古い身内意識に捉われておる。……だがな、世の中は変わったのだ。これからの畿内と天下を治めるのは、阿波の田舎武士の血筋でもなければ、武功自慢の槍働きでもない。……大和の鉄砲と、堺の莫大な富を直接握り、合理をもって国を動かす者だけなのだよ」

久秀の声音から、柔らかさが消え失せた。

「三人衆の言う通りに国を動かせば、三好政権は旧態依然とした田舎領主の集まりへと逆戻りし、即座に滅び去る。……わしが筑前様(長慶)の側に立ち、嫌われ役を引き受けてでも、この国を新しき仕組みへと引き揚げねばならんのだ。……あの古い者どもに、この天下は任せられん」


久秀の言葉もまた、冷徹なまでの「国家運営のリアリズム」に基づいていた。

久秀は私利私欲だけで動いているのではなかった。長慶の作った先進的な政権を維持するためには、古い三人衆のやり方では限界があることを、誰よりも正確に見抜いていたのだ。

しかし、だからこそ悲惨であった。

三人衆も、久秀も、両者ともに「三好家と長慶の天下を守りたい」という誠実な目的を持ちながら、その手法と価値観の違いによって、互いを「敵」として激しく敵視し合っていたのだ。


久秀は茶碗を手に、悠真の脇を通り過ぎざまに囁いた。

「天野殿。貴殿は賢い男だ。……どちらが未来の光を見据えているか、見誤られぬようにな」

久秀の静かな足音が、夜の廊下に消えていった。


悠真は一人、渡り廊下に立ち尽くした。

本丸の奥、長慶の執務室からは、今夜も小さな行灯の光が漏れていた。

長慶は部屋の中で、一人黙々と帳面に向かい、筆を走らせているはずであった。

しかし、最愛の弟たちを失った長慶には、もはや久秀と三人衆の間のこの激しい確執を力強く裁定し、二つに割れかけた家臣団を再び一つにまとめ上げる精神的な余力は残されていなかった。

(誰も……誰も悪人じゃないのに……)

悠真の胸が、激しい締め付けられるような痛みに襲われた。

歴史の教科書では、三好家の自壊は「悪人・松永久秀の陰謀」や「三人衆の愚かさ」として簡略に説明される。

しかし、現実は違っていた。

全員が己の正義と責任感を持ち、真面目に仕事をしようとすればするほど、時代の歪みの中で互いを追い詰め、組織が内部から腐敗し、壊れていくのだ。

悠真は二の丸の自室に戻り、自分の控えノートを抱きしめた。

外では、初冬の冷たい北風が、飯盛山城の頑丈な木造建築をカタカタと虚しく揺らし続けていた。

教興寺の大勝利という栄華の絶頂の裏側で。

三好家という巨大な仕事共同体の足元に、二度と埋めることのできない致命的な「解体の亀裂」が、静かに、そして確実に広がり始めていた。

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