第25話:歴史の不変
第25話:歴史の不変
永禄五年二月上旬の飯盛山は、絶え間なく降りすさぶ冷たい冬雨に打ち叩かれていた。
さきの大雪はドロドロの黒い泥へと変わり、二の丸の広場や大手門の坂道は、足を踏み入れるだけで膝まで沈み込むような激しい泥濘と化していた。
木造の屋根樋からは、冷気を含んだ雨水が滝のように落ち、執務室の板敷きの下から上がってくる湿気が、奉行たちの身につける着物をずっしりと重く湿らせていた。
悠真は二の丸の文庫で、行灯の揺れる小さな炎の下、かじかむ指先を何度も揉みほぐしながら、和泉国・岸和田城および久米田陣営へ送る兵糧補給の手形を作成していた。
「米五百石、薪三百束、塩二十樽……。補給隊の編成、完了いたしました」
悠真の傍らに立っていた足軽の与作が、泥塗れの草鞋を叩きながら報告した。与作の肩には、雨除けの粗末な油紙が巻き付けられ、その顔には和泉への補給の重責による深い緊張が浮かんでいた。
「天野の旦那、おいら今からこの補給隊を率いて大和川を下り、和泉へ向かうぜ。……実休様が腹一杯米を食って、畠山を叩き潰せるように、命がけで届けてくるからな!」
「与作さん……気をつけてください。道中、川が増水しているかもしれません」
悠真は与作を送り出し、再び文机の上の補給調書に向き合った。
悠真の胸の中には、焦躁と狂おしいほどの執念が渦巻いていた。
さきに出陣していった三好実休。
あの温かく、歌を愛し、長慶を誰よりも敬っていた男を、永禄五年三月五日の「久米田の戦い」で絶対に死なせたくなかった。
悠真は、自らの立場(二の丸の右筆補佐)を利用し、和泉の陣営へ届ける補給調書の裏側に、極秘の指導書状を添えようと試みたのだ。
『久米田寺裏手の雑木林に、敵の根来・雑賀鉄砲隊が隠れる公算極めて高し。陣前に分厚い竹束と防盾を二重に配置し、深追いは厳禁とされたし』
悠真は細筆に墨をたっぷりと含ませ、手漉き和紙の上に筆先を落とそうとした。
その瞬間であった。
キイィィィィン……!!
耳の奥底で、脳を直接突き刺すような激しい高音の耳鳴りが響き渡った。
一瞬にして視界が赤く染まり、強烈な目眩が悠真の三半脈を破壊した。
「ぐあっ……!?」
悠真は頭を抱え、文机の上に倒れ込んだ。
心臓が狂ったように打乱し、喉の奥から激しい嘔吐感がこみ上げてきた。
右手に握っていた筆が、まるで目に見えない巨大な力によって弾き飛ばされたかのように手元から滑り落ち、和紙の上に黒い墨のシミをぶちまけた。
指先が痺れ、麻痺し、二度と筆を握ることができない。
歴史修正力(世界の自律作用)。
悠真が歴史の確定した事実(実休の戦死)を、未来の知識によって直接書き換えようと行動した瞬間、世界そのものが悠真の肉体に強力な拒絶反応を引き起こさせたのだ。
悠真は荒い吐息を吐きながら、文机の下に落ちた自分の鞄に手を伸ばした。
鞄の奥深くから取り出したのは、現代から持ってきた、ずっとフリーズしたままになっていたあのスマートフォンであった。
電源ボタンを押すと、画面が怪しく一瞬だけ青白く発光した。
悠真は息を呑んだ。
画面の液晶に、保存されていた現代の百科事典のテキスト『三好実休/久米田の戦い』の文字が、かすかに浮かび上がっていたのだ。
しかし、悠真がその文字を凝視した瞬間。
画面の中の『永禄五年三月五日、討死』という文字が、砂嵐のようなノイズを起こして激しく歪み始めた。
文字が、右から左へと、消しゴムで消されるように一文字ずつ綺麗に消滅していく。
そして、テキスト全体が真っ白な「空白」へと書き換わっていった。
悠真の手の中で、スマートフォンが恐ろしい熱を帯び、そのまま二度と光ることはなかった。
悠真の背筋に、氷の刃を突き立てられたような恐ろしい寒気が走った。
(消えていく……。僕が歴史を変えようとすればするほど、現代の記憶も、記録も……世界から削ぎ落とされていくんだ……!)
悠真は激しい恐怖に震えながらも、諦めきれず、立ち上がった。
(文字でダメなら、口頭で伝えるんだ! 与作さんに頼んで、実休様に直接伝言を届けてもらう!)
悠真は雨の降りしきる二の丸の広場へと飛び出した。
しかし、そこに待っていたのは、信じがたい「不可抗力の連鎖」であった。
補給隊を率いて出発したはずの与作が、泥塗れになって二の丸へ戻ってきていたのだ。
「天野の旦那! 大変だ! 大和川が昨夜からの長雨で大溢水(大氾濫)を起こしちまった! 船も出せねえし、街道の橋が落ちて、和泉への道が完全に途絶えちまったんだ!」
「な……なんだって……!?」
さらに、別の奉行が駆け込んできた。
「天野殿! 和泉からの早馬が倒れた! 途中の関所で敵の隠密と鉢合わせし、伝令が怪我を負って音信が途絶えたぞ!」
川の氾濫。橋の落破。伝令の負傷。
悠真が実休を救おうと足掻けば足掻くほど、自然の猛威や偶然の事故が完璧なタイミングで発生し、悠真の「警告」が実休のもとへ届くのを徹底的に遮断していたのだった。
大きな歴史の流れ(史実)というものは、個人の浅はかな知恵や企みなど嘲笑うかのように、自らの決定した「結末」へと向かって、容赦なく収斂していくのだ。
悠真は泥の中に膝をついた。
雨水が悠真の髪を濡らし、顔を伝って冷たく落ちていった。
(届かない……。僕の言葉も、僕の知識も……何一つ実休様に届かない……。歴史は……変えられないのか……!)
圧倒的な無力感と絶望が、悠真の魂を酷く押し潰した。
「……天野殿。雨に打たれて、何をしておられる」
暗闇の中から、一本の傘もささずに歩み寄ってくる人影があった。
松永久秀であった。
久秀は黒い小袖の裾を濡らしながら、泥の中に膝をつく悠真を見下ろしていた。
その目の奥には、悠真の苦悩のすべてを見通しているかのような、静かで、冷酷な光が宿っていた。
久秀は悠真の前にかがみ込み、冷たい手で悠真の肩を叩いた。
「顔色が悪いぞ、天野殿。……一人で、神にでも挑むような真似をしておるのではないか?」
「弾正さん……」
悠真は涙声で呟いた。
「変えられないんです……。僕がいくら足掻いても、いくら叫んでも……世界が僕の言葉を消してしまう……。実休様を救うことすらできない……!」
久秀は静かに立ち上がり、降りしきる冷たい雨の夜空を仰ぎ見た。
久秀の声は、雨音の中に静かに溶けていった。
「天野殿。だから言ったであろう。予言など何の役にも立たぬとな」
久秀は自らの胸元に手を当て、静かに言葉を重ねた。
「歴史というものはな、巨大な大河と同じなのだよ。一羽の羽虫がどれほど羽をばたかせて流れを変えようと試みたところで、大河はただその羽虫を呑み込み、同じ海へと流れていく。……人間一人にできることなど、高々知れておるのだ」
久秀は悠真に手を差し伸べ、泥の中から引き揚げた。
「だがな、天野殿。流れを変えられぬからといって、立ち止まることは許されぬ。……実休様は今、久米田の地で、兄上のために、我が三好家のために、己の命を叩きつけて戦っておられる。……ならば、わしらにできるのは、流れを恐れることではない。……最後まで諦めず、和泉へ米を送り、帳面をつけ、生きている者の誠術を尽くすことだけだ」
久秀の言葉に、悠真はハッと息を呑んだ。
歴史を変える(無双する)という高慢な目的。
それに捉われるあまり、自分は今、目の前にある「自分自身の仕事」を見失いかけていたのだ。
未来を変えられなくても。史実が残酷な結末を用意していようとも。
今、この瞬間を懸命に生きている実休たちのために、自分ができる限りの誠実さを尽くして帳面をつけ続けること。
それこそが、自分がこの時代に存在している本当の意味なのだ。
悠真は雨の中で涙を拭い、久秀に向かって深々と頭を下げた。
「……感謝いたします、弾正さん。僕は……逃げません。最後の最後まで、自分の仕事をやり遂げます」
久秀は静かに頷き、微かな笑みを残して去っていった。
二の丸の執務室に戻った悠真は、濡れた服を拭い、再び文机に向かった。
手はまだ震えていたが、もう筆は滑り落ちなかった。
悠真は新しい和紙の上に、和泉への補給の数字を、どこまでも丁寧に、力強く書き込んでいった。
外では、冷たい冬雨が飯盛山城を濡らし続けていた。
永禄五年三月五日。三好実休の運命を決する「久米田の戦い」まで、あとわずか数日。
悠真は迫り来る悲劇の刻限を胸に刻みながら、静かに、そして力強く筆を走らせ続けていた。




