第26話:雨の久米田
第26話:雨の久米田
永禄五年三月五日の早朝、飯盛山城はしとしとと降りしきる冷たい春雨に包まれていた。
山肌を覆う赤松の枝々からは、寒気を含んだ雨水がぽたりぽたりと滴り落ち、城下の土塁や堀切は、ぬかるんだ灰色の粘土質の泥によって覆い尽くされていた。
三月に入り、桃の花がほころび始める季節を迎えていたが、飯盛城内を漂う空気は、冬の最中よりも遥かに冷たく、重苦しく沈み込んでいた。
二の丸の執務室で、悠真は行灯の小さな炎の前に座し、和泉国への補給手形の控えに向き合っていた。
しかし、悠真の手は激しく震え、墨を含ませた筆先からは、紙面に小さな黒い点が幾つも落ちていた。
今日。
永禄五年三月五日。
悠真の頭の中に刻まれた歴史の記憶が、この日こそが三好家の運命を決定づける悲劇の日であることを、残酷なまでの正確さで告げていた。
和泉・久米田寺周辺において、三好実休率いる一万数千の三好軍と、紀伊から押し寄せた畠山高政の三万の大軍が、すでに正面から激突しているはずであった。
(変わっていてくれ……! お願いだ、史実が変わっていてくれ……!)
悠真は固く目を閉じ、文机の上で両手を強く握り締めた。
さきに出陣していった三好実休の、あの豪快な笑顔。
和泉の茶室で点ててくれた温かい抹茶の深い味わい、そして手渡されたあの美しい和歌の短冊。
「案ずるな、必ず勝って戻る」と言っていたあの温かい仕事人が、泥の中で血を流して死んでいく未来など、悠真の心が受け入れることを拒絶していたのだ。
午前巳の刻(午前十時頃)、二の丸に最初の早馬が飛び込んできた。
和泉からの戦況を伝える第一報であった。
「和泉より注進! 今朝辰の刻、久米田寺前にて両軍激突! 我が実休様、見事な陣形をもって畠山軍の猛攻を押し返し、敵の先鋒を散々に打ち破りつつあり!」
第一報の勝利の知らせに、二の丸の奉行所から歓声が上がった。
塩田をはじめとする奉行たちが、安堵の表情で手を叩き合った。
「流石は実休様だ! 畠山など恐れるに足らん! これで和泉の地は守られたぞ!」
しかし、悠真の胸の冷たい不吉な予感は、消えるどころか益々強まるばかりであった。
歴史の史実においても、久米田の戦いの序盤は三好軍が圧倒的に優勢であったのだ。
勝ちに乗じ、敵の退却を深追いしたことこそが、実休を死地へと引きずり込んだ最大の罠であったことを、悠真は知っていたからだ。
午後未の刻(午後二時頃)。
飯盛山を覆う春雨が急激に激しさを増し、屋根瓦を叩く雨音がザアザアと濁流の如き大きな音を立て始めた。
その雨音を切り裂くように、下郭の大手門から、地獄の底から響くような絶叫が城中に響き渡った。
「開けいっ! 開けいっ! 和泉より早馬!! 緊急の注進である!!」
二の丸の引き戸が、乱暴に叩き開けられた。
雪崩れ込んできたのは、鎧を剥ぎ取られ、全身を泥と赤黒い返り血で染めた、一人の騎馬武者であった。
侍は太腿に矢が刺さったまま畳の上に倒れ込み、血混じりの泡を口から吹き出しながら、悲痛な叫びを上げた。
「実休様が……! 実休様がぁぁっ!!」
塩田が駆け寄り、侍の肩を激しく揺さぶった。
「どうされた! 実休様に何があったのだ! 言え! 直ちに言え!」
侍は涙と泥に濡れた顔を上げ、城全体を叩き潰すような悲惨な叫びを吐き出した。
「我が軍、畠山を追い詰め、敵本陣へ向けて猛追撃をかけ申した!……しかし、久米田寺裏手の雑木林に隠れていた敵の安見宗房、ならびに根来・雑賀の鉄砲隊の伏兵が一斉に牙を剥き出し申した!……数百挺の鉄砲の乱射を受け、実休様の本陣が蜂の巣の如く撃ち抜かれ……実休様……お胸と首を貫かれ……その場で御討死に送られましたぁぁぁっ!!」
死のような沈黙が、二の丸の広間を直撃した。
次の瞬間。
「うあぁぁぁぁっ!」「そんなバカな!」「実休様ぁぁっ!」
奉行たちから、地鳴りのような悲鳴と絶叫が湧き起こった。
塩田は膝から崩れ落ち、自らの頭を畳に何度も叩きつけて号哭した。
書類が宙に舞い、硯がひっくり返り、墨汁が黒い血のように畳の上を広がっていった。
悠真は、その場に棒立ちになった。
全身の血液が、頭の先から足の先まで一瞬で引き去っていく感覚があった。
世界から、一切の音が消え去った。
(救えなかった……)
悠真の膝が折れ、ドスンと重い音を立てて板敷きの上に倒れ込んだ。
あの温かい、歌を愛し、兄を心から誇りに思っていた三好実休が。
史実の通りの日時、史実の通りの場所、史実の通りの死因(鉄砲の射殺)によって、この世から永遠に永遠に失われたのだ。
悠真の胸の奥から、激しい過呼吸と嘔吐感が迫り上がってきた。
「あ……あ……あああああぁぁぁぁっ!!」
悠真は畳に顔を押し付け、声を上げて慟哭した。
自分の持っていた歴史の知識など、何の役にも立たなかった。
実休の死を前に、自分はただの無力な羽虫であり、歴史という巨大な現現実の前に叩き潰された、無価値な存在に過ぎなかったのだ。
悠真の脳裏に、さきに実休から渡されたあの和歌の短冊の触感が鮮やかに蘇っていた。
『草枯れし 野辺の秋風 吹き過ぎて 心に残る 月のかげかな』
風流を愛し、平和を祈っていたあの男の生が、泥と血と鉄砲の煙の中で、あまりにも呆気なく砕かれ、消し去られてしまった。
悠真は這うようにして立ち上がり、一存の遺族への補償目録と、実休の戦死を伝える注進状の控えを抱え、本丸の長慶執務室へと向かった。
渡り廊下を進む悠真の足取りは、まるで幽鬼のように重かった。
雨水が廊下の隙間から吹き込み、悠真の小袖を冷たく濡らし続けていた。
本丸執務室の障子の前に立った。
中からは、何の音も聞こえなかった。
家臣たちの悲鳴も、哭泣の音すらも一切途絶えた、絶対的な「無の空間」がそこにあった。
悠真は震える指先で、ゆっくりと障子を引き開けた。
室内の行灯の光は青白く、雨の冷気が部屋の四隅に淀んでいた。
文机の前に、当主・三好長慶が立っていた。
長慶は座っていなかった。
黒い木綿の小袖を纏い、文机の横にぽつんと立ち尽くしていた。
長慶の顔から、すべての血色が失われていた。
まるで、白い蝋で固められた人形のように、長慶の皮膚は青白く透き通り、その目の下には刺青のような深い黒い隈が落ちていた。
長慶は泣いていなかった。
涙を一滴も流さず、微動だにせず、ただ和泉国の方向である南の雨空を、障子の隙間からじっと見つめ続けていた。
その瞳は、完全に光を失っていた。
生きている人間の目ではなかった。深い、底のない暗闇だけが、長慶の瞳の奥に広がっていた。
長慶にとって、三好実休の死は、単なる手腕ある弟の喪失ではなかった。
自らの精神の半分、自らが国家を動かすための最大の理解者であり、心の支えであった「魂の半身」を失ったことを意味していたのだ。
長慶の身体から、長年この国を動かしてきた「生の張り」が、一瞬にして抜け落ちていくのが見えた。
長慶は悠真の気配を感じても、振り返りもしなかった。
ただ、虚空に向かって、掠れた、か細い声を発した。
その声には、一切の感情の波が欠落していた。
「……天野」
「は……はっ……」
悠真は声を詰まらせながら平伏した。
「……実休の遺体を引き取り……手厚く供養の手配をせよ。……和泉の残兵を集め、岸和田城の守りを固めさせよ」
長慶の言葉は、完璧なまでに冷徹な「仕事の指示」であった。
実休の死すらも、処理すべき莫大な行政業務の一つとして処理しようとしていた。
だが、長慶の手元を見ると、文机の上の主帳面が、開かれないまま固く閉じられていた。
朝一番から深夜まで、一度たりとも止まることのなかった「天下人の手」が、完全に停止していたのだ。
長慶はゆっくりと歩みを進め、文机の前の板敷きの上に、崩れ落ちるように座り込んだ。
長慶は膝の上に手を置き、じっと自らの指先を見つめた。
その指先には、実休と共に過ごした月日の中で擦り下ろしてきた、黒い墨の汚れが残っていた。
長慶は呟いた。
誰に聞かせるでもない、蚊の鳴くような低い呟きであった。
「……実休……。我が……弟よ……」
それが、長慶の口から漏れた、唯一の悲しみの言葉であった。
外では、冷たい春雨が、飯盛山城をどこまでも、どこまでも黒く濡らし続けていた。
三好長慶という天下人の心が、静かに、しかし決定的に壊れ始めた瞬間であった。
実休の死という巨大な穴を抱えたまま、三好政権は二度と戻ることのできない自壊の深淵へと、ゆっくりと足を踏み出していった。




