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消された天下人〜歴史から消えた男と、消えかけた男〜  作者: チャプタさん


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第24話:久米田への暗雲

第24話:久米田への暗雲


 永禄五年(1562年)の年頭、飯盛山は吹きすさぶ狂暴な吹雪に閉ざされていた。

 生駒山地から吹き下ろす凍てつく北風が、山頂郭の多門櫓を激しく揺らし、幾重にも重なる木造廊下の隙間から粉雪を白く吹き込ませていた。

 二の丸の井戸水は底までガチガチに凍りつき、奉行たちが文机に置く墨汁すらも、行灯の炎の側に寄せておかねば一瞬で黒い氷へと変わってしまうほどの猛寒であった。

 だが、その厳しい寒さを遥かに上回る、三好家の存亡を賭けた致命的な軍事危機が、新春の飯盛城を直撃していた。

 正月五日未明。

 泥と雪に塗れた三騎の早馬が、下郭の大手門を打ち破る勢いでなだれ込んできた。

 紀伊国境、大和国境、そして近江国境からの同時緊急報であった。

「紀伊より注進! 畠山尾張守高政、根来寺・雑賀衆の鉄砲隊ならびに紀伊・河内の国衆三万を引き連れ、和泉・河内へ向けて侵攻を開始!」

「近江より注進! 六角右衛門督義賢、二万五千の軍勢を率いて山科の関を破り、京都へ向かって着々と進軍中!」


南北からの同時大挙兵。

さきに急死した十河一存の不在、そして長慶の身内に生じた隙を逃さず、反三好同盟が総勢五万を超える未代の大軍をもって、三好家の本拠・畿内を一挙に押し潰そうと挟み撃ちの陣を敷いたのだった。

二の丸の執務室は、蜂の巣をつついたような大混乱に陥った。

奉行たちが青ざめた顔で書類をひっくり返し、武器庫からは甲冑や槍が運び出される金属音がガチャガチャと荒々しく響き渡った。


本丸の大広間・千畳敷において、緊急の大軍議が開かれた。

広間に敷き詰められた畳の上には、黒漆や金箔の甲冑を身に纏った三好家の重臣たちがズラリと座していた。

三好三人衆、大和の松永久秀、淡路の安宅冬康、そして和泉守護代の三好実休。

広間の中央には、各地の山河と街道が詳細に描かれた巨大な「畿内国絵図」が広げられていた。

上段の文机の前に座していた当主・三好長慶は、黒い木綿の小袖のうえに質素な具足(胴丸)を羽織り、静かに絵図を見つめていた。

長慶の顔色は青白く、目の下の深い隈は変わっていなかったが、その瞳には驚くほど冷徹で、澄み切った決断の光が宿っていた。

長慶は周囲の騒ぎを制するように、静かに手を挙げた。

広間が一瞬で静まり返った。

長慶は低く、揺らぎのない声で言った。

「……動じるな。敵の狙いは、我らを恐慌に陥れ、畿内から追い払うことにある。……我らが正しく陣を敷けば、恐れるに足らん」


長慶は細い指先で、絵図の上の「京都」と「和泉」の二箇所を同時に指差した。

長慶の頭の中には、完璧な「二方面作戦」の構想が組み上がっていた。

「我が三好家は、兵を二手に分ける。……わし自らが三人衆と弾正(久秀)を率い、二万の兵で京・山城戦線へ向かい、六角の軍勢を山科の関で食い止める」

長慶の冷徹な指示に、重臣たちが力強く頷いた。

長慶は続いて、視線を和泉国・岸和田城の方向へ向けた。

「そして……紀伊より押し寄せる畠山高政の三万に対しては、和泉においてこれを迎え撃つ。……実休。和泉と河内の守り、そなたに任せる」


座していた三好実休が、膝を叩いて進み出でた。

実休は豪華な金箔押しの甲冑に、鮮やかな緋威(ひおどし)の具足を身に纏い、その豊かな黒髭を揺らして豪快に胸を張った。

「ははっ! 兄上、よくぞ仰ってくださいました! 和泉と河内は、わしが命に変えても死守してみせます! 畠山高政など、久米田の地で返り討ちにして見せましょうぞ!」

実休の声には、悲壮感など微塵もなかった。

ただ、最愛の兄・長慶の作った天下を守り抜くという、圧倒的な気概と忠義の熱が満ちあふれていた。

長慶は実休の顔をじっと見つめ、静かに頷いた。

「……実休。深追いはするな。和泉の地で敵の足を止めさえすれば、わしが京で六角を退けた後、直ちに挟み撃ちにして畠山を壊滅させる。……それまで、持たせよ」

「承知いたしました! 兄上は安心して京へお向かいくだされ!」


絵図の脇で、右筆補佐として補給調書を抱えていた悠真は、激しい目眩と吐き気に襲われていた。

(久米田……! 実休様が、今『久米田』と言った……!)

悠真の脳裏に、歴史研究者として記憶してきた「確定した史実」のデータが、狂ったような速度で駆け巡っていた。

永禄五年三月五日。久米田の戦い。

和泉・久米田寺(くめだじ)の周辺において、三好実休率いる一万数千の三好軍と、畠山高政率いる三万の大軍が正面から激突する。

合戦は当初、三好軍が優勢に進めるが、畠山軍の将・安見宗房(やすみむねふさ)と根来寺・雑賀衆の鉄砲隊が、久米田寺裏手の雑木林に隠れて伏兵を展開。

敵陣へ深く突撃した三好実休は、この伏兵の鉄砲隊による集中射撃を正面から浴び、三十六歳の若さで壮絶な討死を遂げるのだ。

(あかん……! これを止めないと、実休様が死ぬ! 実休様が死ねば、三好家は完全に壊れてしまうんだ!)

悠真の手が激しく震え、抱えていた調書の和紙がサササと音を立てて揺れた。


軍議が終わり、重臣たちがそれぞれの陣営へと散っていった。

二の丸の武具蔵の前で、実休は家臣たちに甲冑の緒を締めさせ、出陣の準備を整えていた。

和泉へ向けて出陣する直前であった。

悠真は意を決し、雪の舞う広場を泥にまみれながら走り、実休の前に飛び出した。

「じ、実休様!!」

悠真は息を弾ませ、実休の前に膝をついた。

実休の家臣たちが「控えよ!」と刀の柄に手をかけたが、実休はそれを手で制し、不思議そうな顔で悠真を見下ろした。

「おお、天野殿ではないか。どうされた、そんなに慌てて?」

実休はさきに和泉の茶室で見せた時と同じ、温かく、豪快な笑顔を悠真に向けた。


悠真は実休の金箔の甲冑に縋り付くようにして、声を張り上げた。

歴史の修正力のノイズが、耳の奥でキーンと甲高く鳴り響き、激しい頭痛が悠真の脳を締め付けた。しかし、悠真は痛みに耐え、必死で言葉を吐き出した。

「実休様! お願いです……! 久米田の地で戦われる際、絶対に深追いをなさらないでください! 敵は……敵は久米田寺の裏手の雑木林に、根来や雑賀の鉄砲隊を大量に伏せております! 陣を固め、鉄砲の射程に入ってはなりませぬ! 伏兵の警戒を……どうか、どうか徹底してください!」


悠真の命がけの叫びに、広場の空気があ然と静まり返った。

実休の家臣たちは「何を不吉なことをぬかすか!」と激怒したが、実休本人は、悠真の顔をじっと見つめていた。

悠真の目から、ボロボロと溢れ出る涙。

そこには、詐術や手柄売りの色は一切なく、ただ純粋に己の身を心から案じ、命がけで止めようとしている「真実の情熱」だけがあった。

実休は静かに屈み込み、甲冑に包まれた太い手で、悠真の肩をドシリと強く抱きしめた。

実休の武具から、芳しい沈香の香りと、春を待つ男の体温が伝わってきた。

「天野殿。……そなたは、わしのために泣いてくれるのだな」

実休の声は、どこまでも優しかった。

「天野殿。そなたの言葉、しかと胸に刻んだぞ。雑木林の伏兵、鉄砲の脅威……決していろおろそかにはせぬ」

悠真は希望の光を見出し、顔を上げた。

「では……!」

だが、実休は静かに首を横に振った。その瞳には、武士としての、そして兄・長慶を支える仕事人としての、揺るぎない覚悟が宿っていた。


「だがな、天野殿。わしは引くわけにはいかんのだよ」

実休は遠く、雪の舞う南の空を見つめた。

「わしが久米田で怯み、敵に後ろを見せれば、畠山の大軍は一気に河内へ雪崩れ込み、兄上のいる飯盛城が包囲される。……わしが和泉で踏みとどまり、畠山の三万を一身に引き受けるからこそ、兄上は京で思う存分腕を振るえるのだ」

実休は悠真の涙を、自らの分厚い指先でそっと拭った。

「わしは兄上のために戦う。我が命に変えても、三好の国を守ってみせる。……案ずるな、天野殿。わしは負けぬ。必ず勝って、また和泉の茶室でそなたと茶を飲み、和歌を詠み合おうではないか」


実休の言葉には、死を恐れる者の怯えは一切なかった。

ただ、最愛の兄への忠義と、己の与えられた役割を完璧に遂行しようとする、圧倒的な気高怯さだけがあった。

悠真は言葉を失った。

自分の必死の警告(未来の知識)も、この男の持つ圧倒的な「生への覚悟」の前には、届かないのだという酷な現実。

ド、ド、ドン!!

出陣を告げる重厚な陣太鼓の音が、雪の舞う飯盛城に響き渡った。

「全軍、出陣!! 和泉へ向けて進軍せよ!」

実休が大声で命令を下し、黒馬の背に跨がった。

緋威の鎧を躍らせ、金箔の兜を輝かせながら、三好実休率いる一万の兵が、大手門を潜って雪の山道を下っていった。

実休は去り際、馬の上から振り向き、悠真に向かって一瞬だけ、力強い笑顔を見せた。


悠真は雪の中に膝をついたまま、去っていく実休の背中を、涙でかすむ視界の中まで見送り続けた。

空からは、絶え間なく白い雪が降り積み、実休たちの足跡を静かに消し去っていった。

永禄五年三月五日。

三好家の運命を決定づける歴史の大激戦「久米田の戦い」まで、あとわずか二ヶ月。

逃れることのできない悲劇の暗雲が、雪の舞う和泉の地へ向かって、静かに、そして確実に押し寄せていた。

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