94.ユレシアの焦り
晩餐会を明日に控えた日の午後、ユレシアはランドン伯爵家別邸の客室で書類の束を各封筒に分けて入れていた。
この5日間、ユレシアはひたすら貴族学院用の論文と代書の仕事をしていたのである。
貴族学院は論文で卒業を目指す場合、特に入学時期に決まりがない。
但し入学後は3年以内に指定の論文を10本提出しなければならない。
領地経営をしている貴族子息は、繁忙期を避けて入学するのが普通である。
もちろん、入学前に論文を書きためる、ということも出来ない。
なぜなら入学後にしか提出する論文のテーマが明かされないからだ。
ユレシアはルーファスが訪れた日に入学の手続きをした。
そしてこの5日間で、何とか1本書き上げたのだ。
下書きの段階で、論文審査にも関わっているエミールに見てもらったが、「いいんじゃないか」程度で終わったのでそのまま清書した。
代書の仕事の方は、ユレシアがイルベルト領で元々やっていた副業である。
箇条書きや下書き状態の書面を整えて清書する仕事だ。
イルベルト領とは違い、王都にはこの仕事が大量にある。
書き手が足りない状態ということもあり、ユレシアはこの仕事をこの5日間で7部仕上げていた。
分かっている。
こんなに必死に仕事をしても、貴族学院の卒業を焦っても、エミールにもルーファスにも敵わない。
立場もスタートも違う。
でも、サツキの晩餐会の準備くらい出来る男になりたい。
今回は仕方ないが、次回からはユレシアの選んだドレスで出席して欲しい。
サツキの血液の実験に関しては、カロリーヌと医学チームの2人に任せている。
植物の種類、血液をどこまで薄められるかなど、実験を繰り返しているようだ。
この5日間、サツキもアリエノールとカロリーヌとルルから淑女教育を受けている。
普段の言葉と文字とこの世界の常識の勉強も頑張っているようだ。
ユレシアが論文と代書の書面が入った封筒を出しに行こうと上着を手に取った時、ノックの音がしてサツキとキサラが入ってきた。
サツキは、紅茶のポットとカップを乗せたトレーを持っている。
「あ、ユレシア様、出かける?」
サツキはユレシアの上着を見ている。
「うん。でも飲んでからにするよ」
ユレシアは上着を手から離して、サツキのトレーを受け取る。
「うわっ、そんなにも代書やったの?」
キサラは封筒の数を見て言う。
「いえ、7部だけですよ」
「7部って、すごいわ! 俺には無理!」
キサラは笑いながら言うと、ソファに座ってサツキを見た。
「今日は『じゃま』って言わないんだな?」
「わたし、淑女。もう言わないです」
サツキはニッコリ微笑んで、ユレシアがローテーブルに置いたポットで紅茶を注ぐ。
「おお! じゃあここにいてもいいんだ?」
「キサラ様、この場はご遠慮くださいませ」
「意味、『じゃま』と一緒じゃん!」
キサラはアハハと笑う。
「サツキは偉いね。そんなに言葉を覚えて、頑張ってるね」
ユレシアは、サツキの頭を撫でる。
サツキは顔を赤らめて、照れ笑いをする。
「ユレシア、甘いわー」
キサラはまだ熱い紅茶を一気に飲み干すと、立ち上がった。
「ま、2人にしてやるよ。ドア前にはいるけどな」
「キサラ様、ありがとうございます!」
サツキは嬉しそうに笑う。
ユレシアはキサラが部屋から出て行くのを見てから、サツキの横に座った。
「ユレシア様、わたし、セリフ覚えました」
サツキは得意げに言う。
「セリフ? 明日の晩餐会用の?」
ユレシアはサツキの淹れてくれた紅茶に口をつける。
「違います。夜這いのセリフです!」
「んぐっ! ゴホッ、ああ、夜這いのね……」
ユレシアは咳き込みながら、紅茶のカップを置く。
正直、夜這い(この時点で淑女ではない)に仕込んだセリフは要らないのだが、サツキがせっかく覚えたのなら聞くしかない。
「そのセリフ、教えてくれる?」
「はい!」
サツキは元気に返事をすると、ユレシアの手を両手で握った。
「ユレシア様、わたし、寂しいのです」
ユレシアは吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
元気な返事をした後の「寂しい」には無理がある。
「寂しくて、夜、寝られないのです」
「う、うん」
毎日ぐっすり寝ていると本人から聞いている!
いや、ここで笑ったら、サツキが傷ついてしまう。
ユレシアが何とか笑いを堪えていると、サツキはユレシアの胸に顔を埋めて、ユレシアの手を握っていた両手を背中に回した。
サツキの温かい感触と、嗅ぎ慣れたサツキの香りが、ユレシアの五感を刺激する。
うん! 結局、セリフ関係ないな!
ユレシアはサツキを抱きしめようと、サツキの背中に手を回す。
「……ユレシア様、わたしのことはお好きにしてくださって構いませんので、どうか一緒にいさせてください……」
ユレシアは驚いていた。
このセリフの内容ではなく、スラスラと流れるように話すサツキにだ。
片言のサツキも可愛いと思っていたが、こんな風にこちらの言葉を当たり前のように話すサツキにユレシアの胸が高鳴っていく。
一体どれほど練習をしたのだろう。
サツキは本当に頑張り屋だ。
「……サツキ、そんな事言ったら、本当に好きにするよ?」
ユレシアはサツキを強く抱きしめる。
「はい。お好きにしてくださいませ」
ユレシアの胸の中でサツキの声がする。
今は真昼間だ。
外には、キサラがいる。
論文と代書を、出しに行かなければならない。
ああ、でも、今はそんな事はどうでもいいか……。
ユレシアはサツキをソファに押し倒すと、強引に唇を重ねた。
深く、深く、唇を押し付ける。
「んっ! んん……!」
力が強すぎたのか、サツキが苦しそうにもがいている。
「あ、ごめん……!」
ユレシアは唇を離して、サツキの頬を撫でる。
「だいじょぶ……、もっと、お願いです……」
サツキもユレシアの頬に手をあてる……
結局、キサラは30分以上ドア前で待つ事になった。
「あー、クロエに会いたいな……」
キサラは溜息混じりに呟いたのだった。




