40.エミール・ランドンの苦悩
エミール・ランドンは、自室で調査の資料を読み終えて溜息をついた。
フィロリア公国は、観光業に力を入れるようになったとはいえ、閉鎖的な国だ。
調査しない限り、情報は入ってこない。
エミールは、フィロリア公国の調査をあえて今までしてこなかった。
公国と関わりがあったのに薄情かもしれないが、アリエノールとの思い出を汚されたくなかった。
25年前、妖精のようなアリエノールに、エミールは一目で心を奪われた。
アリエノールもエミールを慕ってくれた。
あの幸せな時間を、アリエノールが結婚しただの、子どもを産んだだの、そんな現実で上書きされたくなかった。
結婚の話は勝手に耳に入ってきたが、それ以降は全く何も知らなかった。
しかし、アリエノールにそっくりな女性が「奴隷」としてエミールの前に現れたのだ。
知らぬ存ぜぬで、済まされる事態ではない。
カロリーヌたちと別れた後、すぐにフィロリア公国の調査を始めた。
その、一次報告書には、アリエノールは公国の公爵子息であったベンジャミン・サヴェルと20歳で結婚。
19年前に女児を出産しているが、その女児は生後10日で死亡。
その後は16年前に男児を出産し、現在も公国の政治に夫のベンジャミンと携わっている。
そんなことが、箇条書きで淡々と書かれていた。
「女児が死亡……ね。サツキは18歳と言っていたか……」
エミールはもう一度溜息をつくと、調査資料を置いて立ち上がった。
これだけでは何とも判断がつかない。
死亡理由や経緯なども分かるといいのだが、今日はもう、アリエノールの情報は入れたくない、というのが本音である。
やはり、思い出は綺麗なままが良い。
エミールは、いつもより少し早いが、もう寝てしまおうと寝室に向かう。
こんな時、妻でもいれば心が揺らがないのかもしれないが、エミールは独身である。
カロリーヌ以上の女性がどうしても見つからなかったからだ。
縁談はいくつもあった。
40歳を過ぎた今でも、後継を心配され、縁談がある。
しかし、適当な女性を迎え入れるわけにはいかない。
ランドン家は曾祖父の代に一度、女主人の暴動で没落しかかったことがあるのだ。
これはランドン家に限ったことではない。
歴史上、悪女を迎え入れた家は、必ずと言っていいほど、没落の危機を迎えるのだ。
女は怖い。
これだけは、はっきりと言える。
エミールは、寝室のドアを開ける。
いつもの、無機質な、ベッドとクローゼットルームだけの寝室の中央に、月明かりに照らされた、真紅のドレスの女性が佇んでいる。
振り向いた女性は、あの日の、妖精だった。
きっと、眩しいほどの微笑みで、透き通るような声で、エミールの名を呼ぶのだ。
「あ! ユレシア様、会いたい! ユレシア様、会わせる!」
女は怖い。
別の男の名前を片言で呼び続ける「妖精」を前に、エミールは膝から崩れ落ちていた。
「えーと、何故私の寝室にいたのか教えて欲しいのだが……」
エミールは、「妖精」改め、「サツキ」をベッドに座らせ、自身はその前に立った。
眠るだけの部屋のため、椅子がないのだ。
「サツキ、第2王子、おめかけなる。第2王子、食べ過ぎ! サツキ、おめかけ、食べ過ぎ、いや、まど、外出る、別の場所、ここ!」
サツキは身振り手振りを交えて、一生懸命に説明をしている。
が、しかし、全然分からない。
エミールは頭を押さえた。
「あー、分かった、いや、分からないが、第2王子の愛妾にされて、逃げてきたってところかな?」
「はくしゃく、あってる!」
サツキは顔を輝かせる。
伯爵か、とエミールは息を吐く。
「サツキ、伯爵は他にもいるんだよ。私の名前はエミール・ランドンだ。『エミール』と呼んでくれないか?」
ちょっと、唐突だろうか。
若い娘に名前を呼ばせるなんて、オジサンキモイなどと思われるかもしれない。
「はい。エミール様!」
案外簡単に呼んでくれた。
エミールはホッとする。
すると、寝室のドアをノックする音が室内に響く。
「旦那様、カロリーヌ・ケルバート伯爵令嬢から緊急の書簡が届いております」
執事の声に、エミールは「なるほど」と呟いた。
どうやら第2王子がらみなのは間違いないようだ。
「カロリーヌ様! 手紙!」
サツキは嬉しそうにベッドから飛び降りる。
「いや、サツキは座っていなさい! ややこしくなる!」
エミールはサツキの肩を押さえて、もう一度ベッドに座らせた。
「旦那様? 誰かいらっしゃるのですか?」
「いや、今開ける」
エミールは執事に冷静に答え、ドアに向かい、ドアを書簡が入る隙間ほど開けた。
「だ、旦那様?」
「隙間から、書簡を渡してくれ」
「え、ええ……」
執事は言われたとおりに隙間から書簡を差し込みつつ、しかし好奇心に勝てず、チラリと部屋の中を覗いた。
ベッドの上に、赤いドレスの女性が座っているのが見える。
執事はコホンと咳払いをした。
「旦那様、ワインをお持ちします」
「うん、違うから……」
「ウイスキーの方がよろしかったでしょうか」
「酔わせる前提なのが気になるが、酒より馬車を用意してくれないか? おそらく王都に行くことになりそうだ」
エミールは受け取った書簡を見つめながら、本日何度目かの溜息をついたのだった。




