39.戻ってきた沙月
沙月は、よく知っている場所にいた。
10畳くらいの部屋で、壁際に本棚があり、低い位置に絵本が数十冊、高い位置に漫画と文庫本が数十冊置いてある。
本を読むための椅子と机も置いてある。
そう、ここは、孤児院の読書室だ。
読書室という割には本が少なく、夜のため、非常灯の灯りだけで辺りは暗い。
沙月は、18年過ごした孤児院の読書室に、濃紺のパンツスーツを着て、黒のショルダーバッグを持って、立っていたのだ。
「……え?」
もしかして、全部夢だったのだろうか。
身分制度がある世界に行って、奴隷になって、ユレシアに会って、ユレシアの恋人になって、カロリーヌとルルに会って、太った第2王子に拉致されて、窓から飛び降りる夢?
とてもリアルだったけど、よく考えたら、夢以外でこの事を説明できない。
「私、研修、どうしたんだっけ……?」
沙月はバッグの中からスマホを取り出した。
スマホの画面が明るく光り、「5月31日 21時35分」と表示される。
「ご、ごがつ!? 3月13日だったはず……!?」
2ヶ月以上も経っている!?
ちょうどあの世界にいた時間と同じ!?
「え、じゃあ、夢じゃない……?」
お、落ち着こう!
落ち着いて、ちゃんと考えよう。
沙月は、読書室の椅子に腰掛けた。
バッグからノートとシャープペンを取り出して、スマホで照らしながら「きっかけ」と書く。
電車から降りる時に、誰かに背中を押された。
3階の窓から自分で飛び降りた。
そういえば、ユレシアが、「身の危険の直後ここに来た」と言っていた。
電車は分からないが、3階から飛び降りる行為は、身の危険に間違いない。
身の危険を回避しようとして、場所を移動した?
カロリーヌは、沙月が「公国の姫」で、「何らかの理由」があって、「不思議な力」で別の場所に送られた、とまとめていた。
「何らかの理由」は、「身の危険」かもしれない。
沙月は、元々、日本人というか、地球人ではない?
赤ちゃんの時に、「身の危険」があって、地球の日本にきてしまった?
沙月の親は、沙月を捨てたのではない?
沙月はシャープペンを握りしめた。
いや、親のことは、想像でしかない。
今は、「身の危険」を回避した時に、移動した場所の方が大事だ。
移動した場所が危険なところだったら意味がない。
孤児院の前と、ランドン伯爵の町。
どちらも、保護施設がある。
安全……ではあるけど、どちらも、沙月の意思とは関係がない。
赤ちゃんの沙月が、場所を選べるとは思えないし、そもそも、身の危険回避なら、異世界の必要はない。
「うーん。ユレシアだったら、どう考えるかな……」
沙月はそう呟いて、ハッとした。
ユレシアが心配しているかもしれない!?
カロリーヌとルルも、きっと心配している!
「帰らなくちゃ!」
沙月はノートとシャープペンとスマホをバッグに入れて立ち上がって、思わず笑ってしまった。
18年過ごしたこの世界より、たった2ヶ月しか過ごしていないあの身分制度が酷い世界に帰らなくちゃなんて、笑うほかない。
あの身分制度の理不尽さが無理で、窓から飛び降りたのだ。
あの世界での沙月の身分は奴隷であり、帰っても、ユレシアとは一生結婚出来ないのだ。
この世界の方が、まだ未来が見える。
もしかしたら、ユレシアより好きな人が出来て、幸せな結婚が出来るかもしれない。
ユレシアだって、沙月がいなければ、他の女性にのりかえるだろう。
……ユレシア、のりかえる、かな……?
沙月自身も、他の誰かと結婚する……?
不思議なくらい、想像出来ない。
それに、ユレシアとずっと一緒にいると約束した。
帰る?
帰らない?
ていうか、あの世界に「帰る」と思っている時点で、もう、決まっているか……。
沙月は窓際に立って、読書室を振り返り、一礼した。
「18年間、ありがとうごさいました!」
そして、読書室の窓を開けて、ヨイショとまたぐ。
読書室は2階だ。
まるで、すぐ帰れるようにこの場所に来たみたいだ。
きっと、ランドン伯爵の町に出る。
あの真紅のドレスで、夜の町中に出てしまう。
でも、何故か大丈夫だという予感がする。
この能力は、きっと、そういう能力なのだ。
沙月はやはりためらうことなく、孤児院の2階の読書室の窓から飛び降りたのだった。




