4.サツキは沙月
平川沙月には、両親がいない。
両親どころか、兄弟も親戚もいない。
沙月は、5月の新緑の若葉が木々に出揃う頃、孤児院の前に捨てられていた赤ちゃんだった。
名前は、孤児院の園長がつけてくれた。
5月だったから、沙月になった。
名字は町役場の事務員がよくある名字をつけてくれた。
中学生くらいには、自分の境遇を呪ったりした。
中学校も半分くらいは行かなかった。
高校は夜間定時制に行き、昼間はアルバイトをした。
和食屋チェーン店のホールスタッフをしたのだが、これが案外向いていて、そのまま正社員になる流れになった。
通常定時制高校は4年なのだが、沙月は三卒制度を利用して、今年、クラスで1人だけ先に卒業した。
夢も希望もなかったが、これから毎日働いて、それなりに生きていくのだろうと思っていた。
でも、違った。
運命というものがあるのなら、神様が存在するのなら、それは沙月には、とても残酷だったのだ。
その日沙月は、和食屋チェーン店の正社員研修に出るため、電車に乗っていた。
電車は満員で、ドア付近いた沙月は、ドアが開いた瞬間、ドンッと押された。
そして、気がついたら、見たこともない町にいたのだ。
知らない町、日本人ではない人々、そして全く通じない言葉。
沙月は持っていたはずのカバンを持っておらず、着ていたはずの濃紺のパンツスーツではなく、この知らない町の人々が着ているような、かぶって腰を紐で縛るタイプのワンピースを着ていた。
全く意味が分からなかった。
どうしてこんな目に遭うのだろう。
沙月が何をしたというのだろう。
中学校はサボり気味だったけど、高校とアルバイトはちゃんと休まずに行ったのだ。
これからも、真面目にそうするつもりだった。
普通の女の子なら、泣くのかもしれない。
でも、現実がいかに残酷か、沙月はよく知っている。
望んでも、夢見ても、待っていても、泣いても、何も叶わないのだ。
お腹が空いて、フラフラと歩く沙月を保護したのは、40歳くらいの男性だった。
沙月が連れてこられた場所は、沙月と同じような人がたくさんいた。
いわゆる、保護施設なのだろう、と沙月はホッとした。
男性は、沙月に食事と寝る場所を与えてくれて、医者らしき人に診せてもくれた。
同じような人、と言ったが、その人たちと沙月は決定的に違った。
その人たちは、毎日勉強や実務をしていた。
そして、職員らしき人に呼ばれると、もう施設には戻って来なかった。
沙月は言葉が通じないせいか、勉強にも実務にも入れてもらえなかった。
経験上、何かやらなければ、ここにも居られなくなる、と感じていた。
見よう見まねで、掃除をしてみたりしたが、みんな微妙な表情をしていた。
5日ほど経ったある日、沙月は保護してくれた男性に呼ばれた。
ある部屋に入ると、そこには20歳くらいの男性と60歳くらいの男性がいた。
話は全く分からなかったが、受け渡しされる金貨と書類を見て、どうやら沙月はこの男性たちに買われたらしいと理解した。
ここは、保護施設ではなくて、人身売買所だったのだ。
いきなり知らない場所に飛ばされて、見知らぬ男性にお金で買われる。
言葉も話せない若い女性を買う目的なんて、きっと一つしかない。
やっぱり涙は出なかった。
ご飯と寝る場所があればいい。
出来れば、痛くないようにしてほしい……。
どこかに連れて行かれる馬車の中で、沙月を買った男性たちは自己紹介をしてくれた。
保護施設、いや、人身売買所では、言葉が分からないとなると、誰も話しかけてこなくなり、名前をきかれることもなかった。
何回も繰り返す言葉と指の動きとノートとペンで、若い男性が、ユレシアという名前で、23歳、年配の男性は、カラムで60歳ということが分かった。
沙月も真似をして、何とか名前と年齢を伝えることが出来た。
沙月がしゃべると、ユレシアは嬉しそうに微笑んでくれた。
ユレシアは、金髪に近い茶色の髪に、光が当たるとエメラルドみたいにキラキラとする緑色の瞳だった。
ユレシアをはじめ、他の人たちも、どう見ても日本人ではない。
沙月自身も、日本人にしては色素が薄く、よく「ハーフ?」ときかれたりもしたが、ハーフかどうかなんて、沙月が一番知りたいことだった。
カラムはユレシアのお祖父さんかと思ったが、白髪混じりの黒髪黒目の彫りの深い顔で、ユレシアとは似ていない。
ユレシアとカラムは、馬車の中でずっとニコニコとしていて、沙月は、もしかしたら酷い目には遭わないかもしれない、と少しだけ希望を抱いてしまっていた。




