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『喫茶「夕凪(ゆうなぎ)」の大阪日和 ~へんこつ店主と幼馴染のなんでやねん事件簿~』  作者: 花曇り


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雨音のオーディションと、嘘つきな美食家

 六月。あかね商店街のアーケードに叩きつける雨音は、どこか湿った不安を運んできた。  

 喫茶「夕凪」のカウンターで、陽菜がスマホの画面を睨みつけ、呻き声を上げている。

「あかん、弦ちゃん……。これ、見て。SNSで噂になってる『覆面調査員・X』。この人が立ち寄って『星一つ』をつけた商店街は、一ヶ月以内に地上げ屋に狙われるっていう都市伝説があるんやけど……さっき、アーケードの入り口で、ずぶ濡れでメモ帳を持った『真っ黒なスーツの女』が目撃されたらしいわ!」  

 陽菜が、本気で震えながら訴える。

「……やかましい。……地上げ屋が来る前に、お前のその根拠のない被害妄想を地上げしてやりたいわ。……だいたい、調査員一人にガタガタぬかすな。……この店に来る客は、どいつもこいつも『人生の落第生』か『騒音の塊』だけや。……今さら格付けもクソもないやろ」  

 店主の弦は、湿気を含んだ空気に合わせて、少しだけ強めに豆を挽いていた。

「……星が欲しければ、夜空でも見上げてろ。……うちはコーヒーを出す場所や。……評価を売る場所やない」

「ひどぉい! もし店がなくなったら、うちのバイト代(未払い分)はどうなるんよ!」

「……そこか。……お前の心配事は、常に一円玉の厚みよりも薄っぺらいな」


 そこへ、いつになく「小奇麗な」格好をした電気屋の正蔵と、魚屋の茂雄が飛び込んできた。正蔵は作業着の上に無理やりシワだらけのジャケットを羽織り、茂雄は長靴を隠すためにダボダボのスラックスを履いている。

「弦!! 大変や! 例の調査員らしき女が、今、おヨネさんの総菜屋で『コロッケの衣の厚さ』を測っとる! 次は間違いなくここや!」

「弦、頼む! 今日だけでええ、俺らを『洗練された常連客』として扱ってくれ! 俺は今日から『IT企業のCEO』、茂雄は『売れっ子のジャズピアニスト』や。……静かにクラシックとか聞きながら、高尚な会話をするからな!」

「……正蔵さん。……そのジャケットの背中に『ナショナル』の刺繍が入ったままやぞ。……茂雄、お前もピアノを弾く前に、その指先についたウロコの残り香をどうにかしろ。……不自然極まりないわ」

 弦が呆れ果てたその時、店の扉が静かに開いた。  

 ずぶ濡れの黒いスーツを纏い、感情を一切排した瞳を持つ女――「X」と呼ばれる調査員らしき人物が、カウンターに腰を下ろした。


 店内は、心臓の鼓動が聞こえるほどの静寂に包まれた。  

 正蔵は震える手でコーヒーカップを持ち、

「……ふむ、このローストの深さは、シリコンバレーの朝を彷彿とさせるね」

 と、聞いたこともないような嘘をついた。茂雄は窓の外を遠い目で見つめ、

「……雨の音が、ショパンの変ホ長調に聞こえるよ」

 と、楽譜も読めないくせに呟いた。

 女は、何も言わずにノートを開き、ペンを走らせる。  

 陽菜は、引き攣った笑顔で

「い、いらっしゃいませぇ……。当店自慢の……その、オーガニックでサステナブルな……泥水、やなくてコーヒーはいかがですか?」

 と、支離滅裂な接客を始めた。

 女は冷徹な声で一言だけ発した。

「……一番、手間のかかるものを」

 陽菜が悲鳴に近い声を上げそうになった時、弦が静かに前に出た。  

 彼は女をじっと見つめる。

「……お前、覆面調査員やないな」

「……何のことでしょうか」

「……お前の指先。……ノートを持つペンだこやない。……それは、『一日中、重い包丁を握り続けている指』や」


 弦の言葉に、女の肩が微かに跳ねた。

「……正蔵さん、親父。……もういい。……その不細工な学芸会を止めろ。……この女は調査員でも地上げ屋でもない。……ただの『逃げ出してきた同業者』や」

 弦は、メニューにはない、一杯の温かい「ミルクたっぷりのカフェオレ」を女の前に置いた。

「……手間のかかるもの、やな。……それは、お前が今一番『作らされるのが嫌なもの』やろ。……注文に追われ、数字に追われ、客の顔も見ずにひたすら完璧なラテアートを描き続ける。……そんな日々に嫌気がさして、雨の中を彷徨ってきた……。違うか?」

 女は、しばらく沈黙していたが、やがてペンを置き、深々と溜息をついた。

「……バレましたか。……私は、銀座の高級カフェの店長です。……『星』を守るために、スタッフを罵倒し、自分を殺して、数字だけを追いかけてきました。……今日、気づいたら店を飛び出して、このボロボロな商店街に辿り着いていたんです」

「……ボロボロ言うな。……ここは、お前が忘れてきた『雑味』の宝庫や」


 正蔵と茂雄が、ポカンと口を開けている。

「なんや……調査員やないんか? ピアノ弾くフリして損したわ!」

「俺のCEO設定、まだ三割しか披露してへんぞ!」

「……うるさい。……親父、お前はさっきからピアノじゃなくて机を叩いてるだけや。……正蔵さんも、そのジャケットを脱げ。……蒸れて変な匂いがしとるぞ」

 弦がいつもの毒舌を炸裂させると、女が突然、ふふっと小さく吹き出した。

「……変な人たち。……銀座じゃ、こんなに大声で笑う人も、見栄を張って失敗する人もいません。……みんな、完璧な仮面を被っているから」

「……仮面なんてのはな、剥がれた時にいい味がするんや。……なあ、店長さん。……お前のそのノート、格付けを書き込むためのもんやないやろ。……本当は、自分が作りたかった料理のメモじゃないのか?」

 女がノートをめくる。そこには、星や数字ではなく、素朴なオムレツや、湯気の立つスープのイラストが、温かいタッチで描かれていた。

「……自分の『好き』に正直になるなら、この商店街の空席はいつでも空いとるぞ」


 数時間後。雨が上がり、女は憑き物が落ちたような晴れやかな顔で店を出ていった。  

 結局、地上げ屋の噂は、陽菜の読み間違いで「隣町の再開発のニュース」だったことが判明した。

「……はぁ。……結局、うちは今日もビンボーなままや。……弦ちゃん、あのお姉さんから相談料くらい取ればよかったのに!」  

 陽菜が、カウンターで自分の頭を叩いている。

「……金より重いもんをもらったやろ。……『静寂』という、お前には一生縁のない時間や」

「ひどぉい! うちだって、たまにはしっとりした女になれるわよ! ほら、今のうち、星いくつ?」

「……マイナス五兆。……測定不能や。……ほら、これでも食って、その肥大化した自己顕示欲を黙らせろ」

 弦が出したのは、先ほどの女のノートに描かれていた「素朴なパンプキンプリン」だった。  

 一口食べた陽菜は、その飾らない、しかし深い甘みに目を見開いた。

「……んん~! 優しい味がする……。……弦ちゃん、これ、あのお姉さんのために作ったの?」

「……フン。……試作の失敗作や。……お前という『雑味』には、これくらいがちょうどええ」

「なんでやねん!!」

 あかね商店街、六月の宵。  

 雨上がりのアスファルトの匂いと共に、街にはいつもの騒がしさが戻ってきた。  

 へんこつ店主の毒舌は、迷える誰かの背中を押し、そして、一番身近な幼馴染の胃袋を、今日も静かに満たしていくのだった。


(第五十九話 了)

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