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『喫茶「夕凪(ゆうなぎ)」の大阪日和 ~へんこつ店主と幼馴染のなんでやねん事件簿~』  作者: 花曇り


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言の葉の格闘技(バトル)と、夕凪の「静かなる怒り」

 五月。アーケードを通り抜ける風が心地よい季節だというのに、喫茶「夕凪」の空気は、沸騰直前のサイフォンのように張り詰めていた。カウンターの端に座っているのは、仕立てのいい紺のスーツに身を包んだ二十代後半の男。名を、市ヶ谷という。彼は、ある大手再開発コンサルタントの「コミュニケーション適正化担当」だった。

「弦さん。この商店街の最大の問題は『言語の無駄』です。挨拶に三秒、世間話に五分。その間に失われる経済的損失を計算したことがありますか?」  

 市ヶ谷は、最新の薄型タブレットを指先で弾きながら、感情の欠落した声で告げた。

「……やかましい。……お前の吐き出す言葉には、ドリップした後の出がらしのような味気なさしかない。……経済的損失? ……お前のその薄っぺらい理論を聞かされている俺の『精神的摩耗』の方が、よほど高額な請求対象や」  

 店主の弦は、一ミリのブレもなくネルを構え、漆黒の液体を滴らせていた。

「弦ちゃん、ちょっと! この人、商店街の入り口で『無駄な声掛け禁止キャンペーン』とかいうビラ配ってるんやで! おヨネさんが『飴ちゃん食べる?』って聞いただけで、『それは糖分の過剰摂取と時間の搾取です』って論破して泣かせたんやから!」  

 陽菜が、いつもの「がめつさ」を忘れて、本気で憤慨しながらカウンターに詰め寄った。


 そこへ、いつもなら爆発音と共に現れる電気屋の正蔵が、今日は妙にしおらしく、耳に鉛筆を挟んで現れた。その後ろには、威勢のいい掛け声を封じられ、口を「×」印のマスクで塞がれた魚屋の茂雄が、泣きそうな顔で続いている。

「……弦。……市ヶ谷さんに言われたんや。『大阪の商店街の言葉は、論理的整合性に欠けるノイズだ』ってな。……俺の配線工事の際の声掛けも、『確認事項の復唱以外は不要』やて……」

「……正蔵さん。……お前までその男の『言葉の断食』に付き合う必要はない。……茂雄、お前もや。……そのマスクを外せ。……お前から威勢を取ったら、ただの『生臭いおっさん』という残留物しか残らんぞ」

 市ヶ谷が眼鏡のブリッジを押し上げた。

「弦さん。あなたは元国語教師だそうですね。ならば理解できるはずだ。言葉は正確に情報を伝達するための道具であり、感情の垂れ流しは『教育的敗北』です。この街の騒音を、私は『静寂という名の洗練』に変えに来た」


 弦が、静かにカップを置いた。

「……ほう。……教育的敗北、か。……久しぶりに耳の痛い言葉やな」

 弦は、市ヶ谷の前に一杯のコーヒーを差し出した。

「……市ヶ谷。……お前に、一つ『採用試験』をしてやる。……元人事の俺が見込んでな。……このコーヒーを一口飲んで、その『正確な情報』とやらを俺に伝えてみろ。……ただし、専門用語と数値は禁止や」

 市ヶ谷は鼻で笑い、カップを口に運んだ。  瞬間、彼の喉が微かに震えた。

「…………苦い。……それも、ただの焦げた味ではない。……奥に潜む酸味が、舌の付け根を刺すような……」

「……それだけか? ……お前の語彙力ボキャブラリーは、その程度か。……教師失格と言いたいところだが、今の発言は『人間失格』や」

「何だと……!?」


「……市ヶ谷。……お前が排除しようとしている『ノイズ』はな、この街の連中が五十年かけて積み上げた『文脈』や」

 弦が、店の外を指差した。  

 そこでは、おヨネさんが、マスクをして黙り込んだ茂雄の背中を、言葉もなくバシバシと叩いていた。それは「しっかりしなさい」という叱咤であり、「寂しいじゃないか」という愛情の表現だった。

「……おヨネさんの『飴ちゃん食べる?』という言葉には、『あんた、最近顔色が悪いけどちゃんと食べてるか?』という何千文字分もの健康管理データが詰まっとる。……茂雄の威勢のいい掛け声は、『今日も活きのいい魚を仕入れたから、お前の家の晩御飯を最高にしてやるぞ』という宣誓や」

 弦が、市ヶ谷を射抜くような鋭い視線で見つめた。

「……お前の言う『正確な伝達』には、相手の心を慮る『行間』がない。……行間のない言葉は、ただの記号や。……記号に魂は宿らん。……お前がやろうとしているのは『洗練』やない。……街の『呼吸』を止める殺人行為や」


「……くっ……。しかし、効率化しなければ、この時代、古いものは淘汰される……!」  

 市ヶ谷の声が、初めて揺らいだ。

「……淘汰されるかどうかは、俺たちが決めることや。……お前のような、他人の言葉の温度も知らん『合理性の亡者』に決められる筋合いはない」

 弦は、カウンターの下から一冊の、使い古された「国語辞典」を取り出した。

「……市ヶ谷。……お前に、今日の『宿題』や。……この辞書を捲って、『人情』という言葉の項目を百回音読してこい。……その意味が腹に落ちるまで、この店の敷居は跨がせん」

 市ヶ谷は、弦の圧倒的な「言葉の重圧」に圧され、何も言い返せずに、ただ震える手で辞書を受け取った。  

 彼は、初めてタブレットを閉じ、無言で、しかし何かを噛み締めるように店を出ていった。


 夕暮れ時。喫茶「夕凪」の店内。  

 市ヶ谷が去った後、茂雄が真っ先にマスクを剥ぎ取り、叫んだ。

「……あかん!! 黙ってるの、三十分が限界やったわぁぁーー!! 弦、今の『説教』、最高やったぞ! 俺、国語の授業を初めて真面目に聞いた気がするわ!!」

「……うるさい。……茂雄、お前はただ単に喋りたいだけやろ。……掃除の邪魔や、さっさと魚の匂いを撒き散らしに帰れ」

「弦ちゃん……。あんた、ほんまにかっこよかったわ。……でも、今の説教、一回五百円の『人生相談料』として市ヶ谷さんに請求しとけばよかったのに!」  

 陽菜が、いつもの調子で計算機を叩き始める。

「……陽菜。……お前のその『金への執着』こそが、この街の最大のノイズや。……耳が腐る前に、お前の口をネルの袋で縫い合わせてやろうか?」

「なんでやねん!!」

 あかね商店街、五月の宵。  

 合理性という名の冷たい風は、弦の「熱い言葉」によって押し戻された。  

 へんこつ店主の毒舌は、相変わらず鋭く、周囲を震え上がらせる。  

 だが、その鋭利な刃の向こう側には、誰よりも深くこの街を、そして「言葉」を愛する男の、不器用な情熱が隠されているのだった。

「……あ、弦ちゃん! 市ヶ谷さん、商店街の隅っこで、ほんまに辞書抱えて音読し始めたで! しかも、なんか涙目や!!」

「…………。……フン。……あいつ、意外と『筋』はええかもしれんな」


(第五十七話 了)

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