二月の「血のバレンタイン」と、疑惑のサバ・ショコラ
二月十四日。あかね商店街の空気は、吐く息がチョコレートの香りに変わる……なんてことはなく、相変わらず冷たい北風がアーケードを無慈悲に吹き抜けていた。
「あかん、弦ちゃん! 世間の女子は今頃、意中の彼に愛を誓ってるっていうのに、うちはなんで朝から『コーヒー豆の欠点豆抜き』という地味すぎる作業に没頭してなあかんの!? 指先がカカオ色やなくて、豆の油で真っ黒やわ!」
陽菜が、喫茶「夕凪」のカウンターで、ピンセットを振り回しながら抗議の声を上げた。
「……やかましい。……お前に愛を誓われる男がいたら、それは前世で相当な大罪を犯したに違いない。……同情して、店のコーヒーを一杯無料にしてやりたいくらいや」
店主の弦は、いつも以上に冷え切った手つきで、常連客に出す「ビター・ブレンド」を淹れていた。
「……だいたい、バカげたイベントに浮かれるな。……菓子メーカーの陰謀に踊らされて、脳みそまで溶けたか。……バレンタインなんてのは、ただの『木曜日』や。……それ以上でも以下でもない」
「ひどぉい! 弦ちゃん、本当は一個ももらえへんから僻んでるんやろ! ほら、うちは優しいから、義理の義理のそのまた義理で、商店街の福引きで当てた『プロテイン入り・激硬かりんとう』をあげようと思ってたのに!」
「……死んでもいらん。……お前の親切は、常に賞味期限が切れた後の毒物や」
そこへ、店内に緊張を走らせる「事件」が起きた。
カランカラン、と乾いたドアベルの音とともに、一通の真っ赤な封筒が、郵便受けから床に落ちたのだ。
「……ん? 弦ちゃん、何これ。……差出人不明。……でも、封筒には『弦へ。あの夜の約束、忘れてないわよね』って書いてあるで!!」
「…………」
弦の手が、コンマ一秒だけ止まった。
「ギャァァー!! 弦ちゃんに春が来たぁぁーー!! あの冷徹な鉄面皮店主に、夜の約束をする女がおったんや! 誰!? どこの勇者!? 商店街のニュース速報や!!」
「……黙れ、陽菜。……そんな記憶はない。……これは何かの悪戯か、あるいは……新手の詐欺や」
弦が眉間に深い皺を刻んで封筒を睨みつけていたその時、勢いよく扉が開いた。現れたのは、鼻息を荒くした電気屋の正蔵と、なぜか「全身にアルミホイルを巻き、チョコの妖精」を自称する魚屋の茂雄だった。
「弦!! 陽菜ちゃん!! 大事件や! 今年は俺の『発明』が、商店街の恋を全自動で成就させるぞ!!」
「……正蔵さん。……そのアルミホイルの塊は何や。……電子レンジに入れて爆発させろというフリか」
「ガハハ! 弦、驚くな! これぞ俺が開発した、『愛の鼓動検知機・トキメキ・スカウター』や! これを付けるとな、相手の脈拍と血流から『本気度』を数値化して、嘘を見抜くんや!」
正蔵が、サイバーパンクな眼鏡型のデバイスを装着して胸を張る。
「そしてこれだ!」
と、アルミホイル姿の茂雄が、クーラーボックスから「漆黒の物体」を取り出した。
「俺がバレンタインのために三日三晩寝ずに作った、『究極のサバ・生チョコ・フォンダン』や!! ベルギー産最高級カカオと、今朝獲れたてのサバの肝を練り込んだ、甘美かつ生臭い奇跡の一品やで!!」
「……茂雄さん。……それは『奇跡』やなくて『テロ』や。……今すぐその物体をコンクリートで固めて、深海に沈めてこい。……食品衛生法が泣いとるぞ」
「何を言うとる! これこそが、大人の恋の味や! さあ弦、その赤い封筒の相手を、このスカウターで分析しようやないか!!」
商店街の面々に押し切られ、弦は「夕凪」の店先で差出人を待つことになった。すると、アーケードの向こうから、一人の女性がゆっくりと歩いてくる。
「……あ、あのお方は!! 商店街で一番厳しいと言われる、銀行の融資担当の黒岩さんやないか!!」
陽菜が息を呑む。
黒岩さんは、弦の前に立つと、冷徹な視線で手帳を開いた。
「弦さん。……あの夜の約束、覚えていらっしゃいますね?」
「……あぁ。……まさか、今日だとはな」
弦が、苦虫を噛み潰したような顔で頷く。
「……ハッ! もしかして、融資の代わりに結婚を迫られてるとか!? 弦ちゃん、ついに身売りか!?」
陽菜が叫んだ瞬間、正蔵の『トキメキ・スカウター』が狂ったようにアラートを鳴らした。
「ピーー!! ピーー!! 危険!! 殺意検出!! 殺意一万パーセントや!!」
「……え、殺意!?」
「……当然です」
黒岩さんが、カバンから取り出したのは……チョコではなく、「店の修繕計画書」だった。
「『あの夜』、酔った茂雄さんと正蔵さんが、うちの銀行のATMの隣に『サバ専用の自動販売機』を勝手に設置しようとして、壁を盛大に壊しましたよね? 弦さん、あなたが『責任を持って僕が修理させる』と約束したはずです。……今日がその工期の締め切りですが?」
「…………」
弦が、背後の二人を殺すような目で見据えた。
「あ……あぁ……。そういえば、そんなこともあったなぁ……」
茂雄と正蔵が、サッと目を逸らして逃げようとする。
「……逃がさんぞ、バカ共」
弦が、電光石火の速さで二人の襟首を掴み上げた。
「……黒岩さん。……約束通り、今日中にこいつらに『心』を込めて修理させる。……道具は、こいつらが持ってきたアルミホイルとサバチョコで十分やろ」
「ギャァァー!! 勘弁して! アルミホイルで壁は直らへんし、サバチョコは接着剤にならへん!!」
茂雄の叫びが商店街に響き渡る。
結局、二人は黒岩さんの厳しい監視のもと、極寒の中、一日中銀行の壁の補修作業をさせられる羽目になった。
あかね商店街のバレンタインは、甘い愛の告白ではなく、「強制労働と借金の清算」という、極めて現実的でビターな結末を迎えたのである。
夕暮れ時。喫茶「夕凪」の店内。
嵐が去った後のカウンターで、陽菜が
「結局一個もチョコもらえへんかったね……」
と、自分のかりんとうをボリボリと齧っていた。
「……はぁ。……弦ちゃんも、結局ラブレターやなかったし。……この街に、ロマンスの欠片もないんか」
「……ロマンスなんてのは、胃を壊すだけや。……ほら、これでも飲んどけ」
弦が、カウンターの下から一皿の小さなカップを出した。
それは、コーヒーチェリーの果肉を甘く煮詰め、隠し味にブランデーを効かせた、弦特製の「カスカラ・ショコラ・ショー」だった。
「……わぁ、何これ! チョコじゃないのに、チョコより甘くて、心がトロンとする……。……弦ちゃん、これ、誰かのために用意してたの?」
「……フン。……試作の余りや。……お前が騒ぎすぎて耳が痛いから、その口を塞ぐために淹れただけや」
「……うそ。……これ、分量が二人分やん。……やっぱり弦ちゃん、ツンデレやなぁ」
「……黙って飲め。……でないと、今すぐそのカップに茂雄のサバチョコを投入するぞ」
「なんでやねん!!」
あかね商店街、二月の黄昏。
空には冷たい月が浮かんでいるが、店内に漂う香りは、どんな高級チョコよりも深く、温かかった。
へんこつ店主のバレンタインは、相変わらず毒舌混じりだが、その「苦味」の奥には、確かな優しさが隠されていた。
(第五十三話 了)




