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『喫茶「夕凪(ゆうなぎ)」の大阪日和 ~へんこつ店主と幼馴染のなんでやねん事件簿~』  作者: 花曇り


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逃亡のマツタケと、十五夜の月見パニック

 九月半ば。あかね商店街のアーケードには、申し訳程度にススキのデコレーションが飾られていたが、吹き抜ける風は依然としてサウナの熱気を含んでいた。

「あかん……マツタケ……。マツタケが食べたい……。弦ちゃん、うちの給料三ヶ月分前貸しして、山一つ買ってきて……」  

 陽菜が、喫茶「夕凪」のカウンターで、扇風機の風を独占しながらうわ言のように呟いていた。

「……やかましい。……お前の給料三ヶ月分で買えるのは、せいぜいエリンギの端切れや。……身の程をわきまえろ」  

 店主の弦は、涼しい顔で氷出しコーヒーをサーバーに滴らせていた。

「……だいたい、香りを食うような高等な趣味、お前には似合わん。……お前は黙って、その辺の道端に生えとる雑草でも噛んどけ」

「ひどぉい! 雑草て! うちをヤギか何かと思ってへん!?」

 そこへ、鼻息を荒くした魚屋の茂雄が、桐の箱を後生大事に抱えて飛び込んできた。その後ろには、なぜか作業着姿の電気屋・正蔵も続いている。

「弦!! 大変や! ついに手に入れたぞ! 商店街の福引きの特賞、『岩手県産・幻の黄金マツタケ』やぁぁーー!!」


「……ほう。……運を使い果たしたな、茂雄さん。……明日にはサバに噛まれて死ぬぞ」  

 弦が冷たく言い放つが、茂雄は意に介さない。

「死んでも食うわ! で、弦、相談や。これを一番美味く食わせてくれるのはお前しかおらん。今夜の十五夜、この店で『マツタケ・パーティー』やろうやないか!」

「えぇーっ! やるやる! うち、お月見団子の代わりにマツタケ丸かじりするわ!!」  

 陽菜が、現金なもので飛び上がる。

「……勝手なことを言うな。……ここは喫茶店や。……マツタケの土瓶蒸しなんてメニューには……」  

 弦が断ろうとしたその時、正蔵が震える手で桐の箱を開けた。

 店内に、むせるような秋の芳香が広がった。そこにあったのは、もはやキノコというよりは「彫刻」に近い、立派すぎる一本のマツタケだった。

「…………。……チッ。……確かに、これは素人に任せると罪悪感が出るレベルやな。……分かった。……今夜、一度だけやぞ」

「よっしゃぁぁー!!」


 だが、惨劇は一瞬の隙に起こった。正蔵が「お礼に」と、店の壊れかけていた換気扇を直し始めた時のことだ。

「おぉっ、この配線、ショートしとるやないか! 弦、ちょっとそっち持って……あっ!!」

 正蔵が脚立の上でバランスを崩し、工具箱がカウンターの上に落下。その衝撃で、桐の箱がひっくり返り、マツタケが……床を転がり、開いていた勝手口から外へ飛び出してしまった。

「あーっ!! マツタケが! うちの三ヶ月分の給料が走っていくぅぅーー!!」  

 陽菜が絶叫し、全員が勝手口へ飛び出した。外には、マツタケを咥えてドヤ顔で路地裏を疾走する、野良猫のトラの姿があった。

「追え!! 逃がすな!! あの猫、晩飯に三万円食うつもりやぞ!!」  

 茂雄が魚網を振り回し、商店街の路地裏で「マツタケ争奪・大追跡劇」が幕を開けた。


「ハァ……ハァ……。トラの野郎、どこ行きやがった……」  

息を切らす茂雄と正蔵。商店街のゴミ捨て場や、おヨネさんの軒下を探しても、黄金のマツタケは見つからない。

「……あかん。……香りが消えた。……絶望や……」  

 陽菜が、地面に膝をついて泣き崩れる。

「……やかましい。……お前は鼻が詰まっとるんか。……よく嗅げ。……風下から、マツタケが『焼ける』匂いがしとるやろ」  

 弦が、スッと細い路地の奥を指差した。

 そこは、商店街の隅にある、古びた平屋だった。庭先では、一人の老婆が、小さな七輪で何かを焼いていた。その横には、満足げに喉を鳴らすトラの姿。

「お、おい! お婆さん! それは俺たちの……!」  

 茂雄が怒鳴り込もうとしたが、弦がその肩を強く掴んで制した。

「……待て、茂雄さん。……あそこを見ろ」


 老婆の向かいには、仏壇があった。そこには、最近亡くなったばかりだという、商店街の元会長・源さんの写真が飾られていた。

「……源さん、見て。……トラちゃんがね、あんたの大好物、どこからか拾ってきてくれたのよ。……今夜は十五夜だから、一緒に食べようね……」

 老婆は、マツタケを一切れずつ丁寧に焼き、お供えしていた。その光景に、茂雄も正蔵も、振り上げた拳を下ろすしかなかった。源さんは、このワガママな男たちを長年見守ってくれた、商店街の恩人だった。

「…………。……弦ちゃん。……うち、お腹いっぱいになったわ」  

 陽菜が、小さく笑って呟いた。

「……フン。……お前の腹は、常に空洞やろ。……行くぞ。……マツタケの香りが染み付いた猫を捕まえて、風呂に入れるのが先や」

「……そうやな。……源さんに食ってもらえるなら、本望や」  

 茂雄が鼻をすすり、一行は静かにその場を立ち去った。


 夜。喫茶「夕凪」の屋上で。結局、マツタケ・パーティーは中止になったが、弦が用意したのは、一皿の「月見団子」と、不思議な香りのするコーヒーだった。

「……何これ、弦ちゃん。……コーヒーなのに、なんか秋の山の匂いがする!」

「……マツタケの香りが移った桐の箱を、軽く焙って抽出に使っただけや。……『マツタケ・ウッド・ブレンド』やな。……お前らには勿体ない味や」

「うわぁ……! 渋い! でも、なんか……源さんの声が聞こえてきそうな味やなぁ」  

 正蔵が、満月を見上げながら目を細める。

「ガハハ! 正蔵、それはお前がボケ始めただけや! さあ、団子食え! 食うて、明日からまたサバ売るぞ!!」

 あかね商店街、九月の夜。  

 黄金のマツタケは消えてしまったが、代わりに空には、それよりも大きく、美しい黄金の月が輝いていた。  

 へんこつ店主の淹れたコーヒーは、少しだけ切なくて、そして驚くほど温かかった。

「……あ、弦ちゃん! 茂雄さんが、お月様に向かって『特製サバ団子』を投げ始めたで!」

「……通報しろ。……今すぐ、宇宙開発局と警察を呼べ!!」


(第四十六話 了)

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