雨漏りの「夕凪」と、びしょ濡れの再会
六月。大阪の空は、分厚い灰色の雲に覆われていた。あかね商店街のアーケードには、バチバチと激しい雨音が響き、湿った空気がべったりと肌にまとわりつく。
「あーっ! 弦ちゃん、またここ! カウンターの端っこ、またポタポタ来てるで!!」
陽菜が、プラスチックのバケツを持って店内を右往左往していた。
「……やかましい。……それは『雨漏り』やない。……店内に降り注ぐ、天然の『加湿システム』や。……情緒を感じろ」
店主の弦は、バケツに落ちる「ピチャン」という音に合わせてリズムを取りながら、平然と豆を挽いていた。
「情緒で腹が膨れるか! お客さんの頭に当たったらどないすんねん! ほら、正蔵さんに修理頼んでるんやから、早く屋根裏見てあげて!」
店の隅では、電気屋の正蔵が脚立にまたがり、天井のパネルを剥がして頭を突っ込んでいた。
「……弦、これはアカンわ。……配線がどうこう言う前に、屋根の継ぎ目がガバガバや。……まるで、茂雄の口の軽さとお前の性格の歪みを見とるようやな」
「……正蔵さん。……余計な一言を言うたびに、修理代から千円ずつ引くからな。……黙って手を動かせ」
そんな「夕凪」の扉が、カランカランと力なく鳴った。入ってきたのは、全身びしょ濡れの若い男女だった。
「すみません……。雨宿り、させていただけますか……?」
男は、申し訳なさそうに頭を下げた。横にいる女は、どこか遠くを見つめるような、虚ろな瞳をしている。
「……勝手にしろ。……ただし、床を濡らすな。……入り口のマットで、犬のように体を振ってから座れ」
「弦ちゃん! 言い方!! すみませんねぇ、今すぐタオル持ってくるから!」
陽菜が奥から山積みのタオルを持ってきたその時、カウンターに座っていた魚屋の茂雄が、生臭い法被を脱ぎ捨てて身を乗り出した。
「おぉっ!? なんや、この空気! 訳ありか? もしかして、駆け落ちか!? 禁断の恋か!? よっしゃ、この茂雄兄さんに何でも相談に乗ったるでぇ!!」
「……茂雄さん。……あんたの相談は、サバをアジと偽って売る方法くらいやろ。……黙ってコーヒーを飲んどけ」
店内には、雨音と、バケツに落ちる水滴の音、そして茂雄の余計な詮索だけが響いていた。だが、濡れたタオルで髪を拭いていた男が、ふと店内の古いメニュー表を見て、小さく呟いた。
「……『夕凪ブレンド』。……懐かしいな。……十年前も、ここでこれを飲んだっけ」
その言葉に、女の肩がピクリと跳ねた。
「……貴志君。……覚えてたの?」
「……忘れるわけないだろ。……僕たちが最後にお別れしたのも、こんな雨の日だった」
その瞬間、店内の空気が一変した。
「ヒュ~~ッ!! 始まったぁー! 十年ぶりの再会! 運命の糸が、あかね商店街の雨漏りで結ばれたぁー!!」 茂雄がカウンターを叩いて大はしゃぎする。
「ちょっと! 茂雄さん静かに! ……で、どうなったん!? 貴志君、なんで離れ離れになったん!?」
陽菜まで、お盆を抱えたまま前のめりになる。
「……やかましい連中やな。……客のプライバシーを、たこ焼きの具にするな」
弦が冷たく言い放つが、その手はいつになく丁寧に、新しい豆を計量していた。
男――貴志の話によれば、二人は高校時代の恋人同士だった。だが、貴志の親の転勤で、この街を離れることになり、自然消滅してしまったのだという。今日、仕事で偶然この街を訪れた貴志が、雨の中で当時の彼女・美咲と再会した。
「……でも、もう遅いんだ。……僕は明日から、海外の支社に赴任する。……今日が、本当に最後のご挨拶のつもりで……」
「……それでええんか、美咲ちゃん! 十年も想い続けて、また雨に流してまうんか!?」
茂雄が、なぜか自分のことのように涙を流し始めた。
「……私、……。……貴志君が元気なら、それで……」
美咲が、震える手でコーヒーカップを握る。
その時。天井から、最大の「ポタッ」がやってきた。正蔵が屋根裏で無理に配線をいじったせいか、天井のパネルがバキッと音を立てて外れたのだ。
「あーっ!! 弦、逃げろ!!」
正蔵の叫びも虚しく、大量の雨水が滝のように流れ落ちてきた。その直撃コースには、貴志と美咲がいた。
「……チッ。……素人が」
弦が動いた。カウンターを乗り越える一瞬の動作で、彼は近くにあった「特大の業務用ゴミ箱」を蹴り飛ばし、カップを差し出したままの貴志の頭上へ、傘のようにそれを被せた。さらに、もう片方の手で美咲の椅子を引き寄せ、自分の背中で飛沫をガードした。
ザバーーーーン!!
店内に、滝のような水音が響く。弦は背中からびしょ濡れになりながらも、二人のコーヒーカップには一滴の水も入れさせなかった。
「…………。……騒がしい。……正蔵さん、修理代は三倍や。……茂雄さん、笑ってないで雑巾を持ってこい」
「……弦ちゃん、大丈夫!?」
陽菜が駆け寄る。弦は冷淡な顔で肩をすくめた。
「……俺はいい。……それより、お前ら」
弦は、ゴミ箱の下で呆然としている貴志と、その隣で震える美咲を見た。
「……雨漏りは、直せばいい。……だが、心に空いた穴は、放置すれば家ごと腐るぞ。……十年前の未練を、この汚い雨水と一緒に流して、さっさと答えを出せ。……見ていて、コーヒーの味が落ちるわ」
沈黙。
雨音だけが店を支配していた。やがて、貴志がゴミ箱を脱ぎ(シュールな光景だったが、空気は真剣だった)、美咲の手を強く握った。
「……美咲。……一緒には行けないかもしれない。……でも、戻ってくるまで、待っていてくれないか。……今度は、手紙じゃなくて、僕自身の声で毎日伝えるから」
「……うん。……待ってる。……今度こそ、待ってるから」
二人は、泣きながら笑い合い、お互いの存在を確かめ合うように寄り添った。
「……あはは! 良かったなぁ、貴志君! 美咲ちゃん! よっしゃ、今日のお代は俺が……はへんけど、商店街の魚、全部半額にしたるわぁー!!」
茂雄が、びしょ濡れの床で盆踊りを始めた。
一時間後。雨が上がり、雲の間から夕焼けが差し込み始めた。貴志と美咲は、晴れやかな顔で店を後にした。
「……ふぅ。……やっと静かになったな」
弦は、新しいシャツに着替え、壊れた天井を呆然と見上げていた。
「……弦ちゃん、かっこよかったで。……あんなこと言って、ほんまは応援してたんやろ?」
陽菜が、ニヤニヤしながら弦の横顔を覗き込む。
「……アホか。……俺は単に、床掃除が面倒やっただけや。……それより陽菜。……お前、さっきのドタバタで、客に出すはずのケーキ、自分で食ったやろ。……口の横にクリームがついとるぞ」
「……あ、バレた!? ……だって、甘いもん補充せんと、やってられへんやん!」
「……やかましい。……さあ、閉店や。……明日は晴れる。……湿った空気と一緒に、お前のその緩んだ頭も乾かしてこい」
あかね商店街、六月の夕暮れ。
雨上がりのアスファルトの匂いの中に、へんこつ店主の淹れた、少しだけ苦くて温かい余韻が漂っていた。
「……あ、弦ちゃん! 正蔵さんが、お詫びに屋根の上に『巨大な太陽のオブジェ』設置しようとしてるで!」
「……通報しろ。……今すぐ、航空局と警察を呼べ!!」
(第四十三話 了)




