七夕の願い事と、商店街の短冊パニック
七月。大阪・あかね商店街の気温は、もはや「サウナ」の域に達していた。アーケードの至る所には、近所の幼稚園児や買い物客が願いを書いた、色とりどりの短冊が揺れている。
「あー……暑い。暑すぎて脳みそがたこ焼きの具になりそうや……」
陽菜が、喫茶「夕凪」の入り口で、店の笹飾りに新しい短冊を吊るしながら、幽霊のような声を上げていた。
「……やかましい。……脳みそがたこ焼きの具なら、少しは味がマシになるんやないか。……さっさと入れ。……冷気が逃げる」
店主の弦は、いつも通り微動だにせず、氷を砕くピックを鋭く振り下ろしていた。
「冷たいなぁ! ほら、弦ちゃんも願い事書きなよ。うちの短冊は『ハワイ旅行』と『宝くじ一等』と『痩せるけど胸はそのまま』や!」
「……強欲の塊か。……短冊を吊るす笹の身にもなれ。……折れるぞ」
そんな平和(?)な店内に、魚屋の茂雄が、顔を真っ赤にして飛び込んできた。その手には、一枚の「真っ黒な短冊」が握られている。
「大変やぁぁーー!! 弦! 陽菜ちゃん! 商店街の平和が終わるぞ! この短冊を見てくれぇ!!」
茂雄がカウンターに叩きつけた短冊には、歪な文字でこう書かれていた。
『七夕の夜、あかね商店街の「魂」を奪い去る。』
「……なんやこれ。……中二病の予告状か」
弦が鼻で笑う。
「笑い事やないで、弦! この短冊、商店街のメインの笹の、一番高いところに括り付けられてたんや! 『魂』ってなんや!? 俺の秘伝のサバの捌き方か!? それとも正蔵の、あのカツラのような……!」
「誰がカツラじゃ!!」
背後から電気屋の正蔵が現れ、茂雄の頭を叩いた。
「俺も聞いたぞ! 商店街の連中、みんなパニックや! 『魂』ってのは、俺たちの『団結力』のことやないか、とか、おヨネさんの『ぬか床』のことやないか、とか……!」
「……どっちにしても、安っぽい魂やな」
弦は呆れたように溜息をついたが、陽菜は目を輝かせていた。
「これって……もしかして、伝説の怪盗からの予告状!? かっこいいー!! 弦ちゃん、これ解決したら、うち有名店になれるんちゃう!?」
「……アホか。……そんな暇があったら、アイスコーヒーの仕込みを手伝え」
だが、事態は弦の予想を超えて加速した。
「魂を守れ!」
という茂雄の号令のもと、商店街の男たちが「あかね警備隊」を結成。七夕の夜、アーケードをパトロールし始めたのだ。
「不審者は逃さんぞぉー!」
茂雄は、魚網を肩に担ぎ、正蔵は特大の懐中電灯を武器に、夜の商店街を徘徊する。
「……やれやれ。……バカ共が、熱中症で倒れる前に止めてこい、陽菜」
「無理やで、弦ちゃん。もうみんな、ノリノリやもん」
深夜。七月七日の日付が変わろうとする頃。喫茶「夕凪」の前に、怪しい人影が現れた。黒いフードを深く被り、周囲をキョロキョロと見渡している。
「見つけたぞ! 怪盗やぁぁーー!!」
物陰に隠れていた茂雄が、叫び声とともに網を投げた。
「ぎゃぁぁー! な、何するんですかぁー!!」
網に絡まったのは、怪盗でも悪魔でもなく、隣の町内に住む、気弱そうな中学生の少年だった。
「……お前、この短冊を書いた犯人か」
弦が、逃げ出そうとする少年の襟首を掴んで引き留めた。
「……あ、あの……。ごめんなさい……」
少年は、ガタガタと震えながら白状した。
「……実は、僕、この商店街にある……『あかね食堂』のオムライスが大好きで……。でも、おじいちゃん店主が今月で引退するって聞いて……。あそこのオムライスは、この街の『魂』だと思ったから……。奪われるのが嫌で、つい……」
「……なんや。……『奪い去る』んじゃなくて、『奪い去られるのが嫌』って書きたかったんか?」
正蔵が拍子抜けしたように懐中電灯を下ろした。
「……でも、最後の一枚だったから……。短冊が小さくて、書ききれなくて……。かっこよく書けば、誰か大人が止めてくれるかと思って……」
「……ははは! 紛らわしいわ、坊主! 俺たちの魂が、盗まれるんやなくて『無くなる』ってことやったんか!」
茂雄が笑い飛ばすが、少年の顔は晴れない。
「……だって、もうあそこの味、食べられなくなるんですよ……? 僕にとっては、宝物だったのに……」
沈黙が流れる。商店街の男たちは、言葉を失った。自分たちが守ろうとしていた「魂」が、実は当たり前にあると思っていた「日常の風景」だったことに、今更ながら気づいたのだ。
「……弦ちゃん。……なんとかできへんの?」
陽菜が、珍しく真剣な顔で弦を見上げた。
「……フン。……俺はパティシエでもなければ、洋食屋でもない。……だが、『思い出の味』を再現するくらいなら、コーヒーのブレンドと同じ理論や」
弦は、店の中に少年と男たちを招き入れた。
「……陽菜。……今すぐ『あかね食堂』の親父さんを叩き起こしてこい。……レシピは俺が聞き出す。……そして、この坊主。……お前が今日から、その味を『盗む』んや」
「え……?」
「……引退するなら、弟子を取らせればいい。……お前がその魂を継げば、この街から『魂』が奪われることはない。……そうやろ?」
弦の言葉に、少年の目に光が宿った。
「……僕、……僕、やってみます! おじさんの味、僕が守ります!!」
数時間後。夜明けのあかね商店街。結局、一晩中付き合わされた茂雄と正蔵は、店の前で雑魚寝していた。
「……騒がしい七夕やったな」
弦は、店の前に飾られた笹を見上げた。少年の「真っ黒な短冊」の隣に、新しい白い短冊が吊るされている。
『世界一のオムライス職人になる。』
「……弦ちゃん、あんたやっぱり、かっこいいとこあるやん」
陽菜が、コーヒーの香りに包まれながら、満足そうに伸びをした。
「……やかましい。……俺は単に、茂雄たちの叫び声で眠れんかったから、さっさと解決しただけや。……それより陽菜。……お前の短冊、もう一枚増えてるぞ」
「あ、バレた? ……『オムライス毎日タダ券』や!」
「……救いようのない強欲やな。……さあ、開店や。……今日は、いつもより少しだけ、気合の入ったコーヒーを淹れるぞ。……街の『魂』を繋ぐために、な」
あかね商店街、七月の朝。
照りつける太陽の下で、笹の葉がさらさらと音を立てる。
へんこつ店主の毒舌と、未来の職人の決意。
この街の「魂」は、今日も誰かの手によって、温かく守られていくのだった。
「……あ、弦ちゃん! 茂雄さんが、七夕のお祝いにって、笹の葉を全部『サバの皮』で飾り付けようとしてるで!」
「……通報しろ。……今すぐ、保健所と警察を呼べ!!」
(第四十四話 了)




